「辞世」「辞世の句」とは?「心頭を滅却すれば火もまた涼し」という偈も辞世

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土方歳三・辞世

1.「心頭を滅却すれば火もまた涼し」という偈も辞世

「心頭を滅却すれば火もまた涼し」という慣用句があります。「心頭滅却」という四字熟語としても用いられます。

これは「無念無想の境地に至れば、火さえも涼しく感じられる。心の持ちようで、どんな困難・苦痛でもしのげる」という意味です。

杜荀鶴の詩「夏日悟空上人の院に題す」に「安禅必ずしも山水を須(もち)いず、心中を滅し得れば自ら涼し(安らかに座禅をくむには、必ずしも山水を必要とするわけではない。心の中から雑念を取りされば火さえも涼しく感じるものだ)」とあるのに基づきます。
「心頭」とは、こころのこと。「滅却」とは、消し去ること。

この「偈(げ)」(*)が有名なのは次のような故事に基づいています。

1582年(天正10年)4月、織田信長の軍勢によって、甲斐の武田信玄以来の名刹恵林寺の僧侶は残らず山門に追い上げられ火をかけられました。その時、この寺の快川禅師(快川紹喜)(1502年~1582年)は法衣を着て楼門の上に登り、扇子を持って端座し、火に包まれながらこの偈を発し、従容として焼死したと言われています。

(*)「偈(サンスクリット語: gāthā)とは、仏典のなかで、の教えや仏・菩薩の徳をたたえるのに韻文の形式で述べたものです。「偈陀(げだ)」「伽陀(かだ)」とも音写し、意訳して「偈頌(げじゅ)」と言います。

「偈」は僧侶などの「辞世」(「遺偈(ゆいげ)」)としても用いられました。

千利休(1522年~1591年)にも次のような「遺偈」があります。彼は商人で有名な茶人でもあり、豊臣秀吉の茶頭(さどう)としても仕えましたが、秀吉の逆鱗に触れ切腹を命じられました。

人生七十 力囲希咄 (じんせいしちじゅう りきいきとつ)

吾這寶剣 祖佛共殺 (わがこのほうけん そぶつともにころす)

堤る我得具足の一太刀 (ひっさぐる わがえぐそくのひとたち)

今此時ぞ天に抛(いまこのときぞ てんになげうつ)

現代語訳は次の通りです。

人生70年。これまで悲喜こもごも様々なことがあったが、これで終わり。

私が持つ宝剣を使い、祖仏とともに私もその生涯を終える。

上手に使いこなせるこの武器をもって、自らに一太刀を浴びせる。

そして、自らの命を天に放とうではないか。

2.「辞世」「辞世の句」とは

「辞世」とは、もともとはこの世に別れを告げることを言い、そこから、人がこの世を去る時(まもなく死のうとする時など)に詠む漢詩、偈、和歌、発句、狂歌またはそれに類する短型詩の類のことを指します。

「五・七・五・七・七」の和歌の形式が多いですが、「五・七・五」の発句の形式もあります。この場合は「辞世の句」と言います。

これは東アジア固有の風俗だそうです。基本的にはあらかじめ用意された作品のことを指しますが、末期(まつご)の床でとっさに詠んだ作や、急逝のために辞世を作るいとまがなくたまたま生涯最後の作品となってしまったもの(以上のような例を「絶句」として区別する場合があります)も広い意味での辞世に含みます。内容的には自らの生涯を振り返っての感慨や総括、死に対する想いなどを題材にします。

風俗としての起源ははっきりしませんが、特に中世以降の日本において大いに流行し、文人の末期や切腹の際には欠かせない習いの一つとなりました。この場合、最もよく用いられた詩形は和歌です。これは禅僧が死に際して偈を絶筆として残す風俗に、詩形としての和歌の格の高さ、王朝時代以来の歌徳説話のなかにまま辞世に関するものが見えたこと、などが影響しているようです。

江戸期には偈による辞世がほとんど姿を消すと同時に、和歌形式が狂歌や発句に形を変えてゆくのが一般的な風潮になりました。和歌にはない俗や笑いを持ち込める形式が辞世として多く用いられるようになったことで、明るく、軽く、死を描きながら一皮めくるとその裏に重大なものが息づいているという繊細なポエジーが成立し、江戸期は辞世文学における一つの頂点を迎えます。また、政治的な理由で死を選ばざるを得なかった人々が辞世に漢詩の詩形を用いたこともこの時代の一つの特徴であり、これは自らの社会的な志を述べるのにこの詩形が最もよく適していたことを示しています。

3.有名な辞世・辞世の句

(1)在原業平(825年~880年):平安時代の歌人

つひに行く 道とはかねて 聞きしかど 昨日今日とは 思はざりしを

(2)西行(1118年~1190年):平安時代末期~鎌倉時代初期の武士で僧侶・歌人

願はくは 花のもとにて 春死なむ その如月の 望月のころ

(3)柴田勝家(1522年から1530年~1583年):戦国時代~安土桃山時代の武将・戦国大名

夏の夜の 夢路はかなき あとの名を 雲井にあげよ 山ほととぎす

(4)お市の方(1547年~1583年):織田信長の妹で、浅井長政・柴田勝家の妻

さらぬだに 打ぬる程も 夏の夜の 夢路をさそふ 郭公かな

(5)別所長治(1558年~1580年):戦国時代~安土桃山時代の武将・大名

今はただ 恨みもあらじ 諸人の 命に代はる 我が身と思へば

(6)石川五右衛門(1558年?~1594年):安土桃山時代の盗賊の首領

石川や 浜の真砂は 尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ

(7)豊臣秀吉(1537年~1598年)

露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことも 夢のまた夢

(8)細川ガラシャ(1563年~1600年):明智光秀の三女で細川忠興の正室

ちりぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ

(9)徳川家康(1543年~1616年)

嬉しやと 再びさめて 一眠り 浮き世の夢は 暁の空

(10)松尾芭蕉(1644年~1694年)

旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る

(11)浅野長矩(1667年~1701年):浅野内匠頭。「江戸城松の廊下での刃傷事件」で有名

風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとやせん

(12)大石良雄(1659年~1703年):大石内蔵助。赤穂藩の筆頭家老で「忠臣蔵」で有名

あら楽し 思ひは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし

(13)十返舎一九(1765年~1831年):江戸時代後期の戯作者・絵師

此の世をば どりゃお暇(いとま)に せん香の 煙とともに 灰 左様なら

(14)曲亭馬琴(1767年~1848年):江戸時代後期の読本作者

世の中の 役をのがれて もとのまゝ かへすぞあめと つちの人形

(15)葛飾北斎(1760年~1849年):江戸時代後期の浮世絵師

人魂で 行く気散じや 夏野原

(16)吉田松陰(1830年~1859年):長州藩士で思想家・教育者

身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂

(17)高杉晋作(1839年~1867年):幕末長州藩の尊王攘夷志士

面白き 事もなき世を 面白く すみなすものは 心なりけり

(18)土方歳三(1835年~1869年):幕末期の幕臣。新選組副長

たとえ身は 蝦夷の島根に 朽ちるとも 魂は東の 君やまもらん

(19)新門辰五郎(1800年?~1875年):江戸時代後期の町火消、侠客

思ひおく まぐろの刺身 鰒汁 ふっくりぼぼに どぶろくの味

(20)正岡子規(1867年~1902年)

糸瓜咲て 痰のつまりし 佛かな

(21)乃木希典(1849年~1912年):陸軍軍人。日露戦争の旅順攻囲戦や殉死で有名

うつし世を 神去りましゝ 大君の みあと志たひて 我はゆくなり

(22)乃木静子(1859年~1912年):乃木希典の妻。夫とともに明治天皇に殉死

先帝の 霊柩永しへに 宮闕を 出でさせたまふを 悲しみたる

(23)大西瀧治郎(1891年~1945年):海軍軍人。神風特別攻撃隊の創設者。終戦時に自決

これでよし 百万年の 仮寝かな

(24)三島由紀夫(1925年~1970年):小説家。自衛隊市谷駐屯地に乱入後、割腹自殺

散るをいとふ 世にも人にも さきがけて 散るこそ花と 吹く小夜嵐

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