南方熊楠については、前に「南方熊楠は博覧強記の博物学者で語学の天才!」「知の巨人南方熊楠の面白い奇行・エピソードをご紹介します」「知の巨人南方熊楠と同じ慶応3年(1867年、1868年)生まれの有名人とは?」「南方熊楠の博物学・生物学・民俗学など多方面にわたる学問的業績とは?」「南方熊楠の南方マンダラ(南方曼荼羅)とは?わかりやすくご紹介します。」という記事を書きました。
ところでアメリカやイギリスでの南方熊楠の研究活動はどのようなものだったのでしょうか?また、ロンドン時代の孫文・土岐法龍・ディキンズとの出会いとはどのようなものだったのでしょうか?
父にアメリカ行きを認められた熊楠は1887年(明治20年)に渡米し、商業学校や農学校に入学しますが長続きせず、アナーバーでは植物採集に励みました。また未知の植物が多いといわれたフロリダやキューバを旅行し、ハバナでは地衣類の新種を発見しています。
さらに熊楠は、当時学問の中心であったロンドンへ行くことを決意し渡英します。
大英博物館に出入りを許され、多くの言語を操り、植物学・天文学など広範な本を読破し、筆写しました。それが「ロンドン抜書」です。科学誌『ネイチャー』に「東洋の星座」が掲載され、話題となりました。
しかし経済的な理由により、1900年(明治33年)無念の帰国となります。
1.アメリカでの研究活動
1887年(明治20年)1月、サンフランシスコに到着。半年後、ミシガン州ランシングに移り、州立農学校へ入学しましたが、あまり学校へは行かず、植物採集に精を出していました。ある日、学内で飲酒事件を起こした熊楠は、自ら退学を決意して大学街アナーバーへ移りました。
熊楠は世界的な博物学者ゲスナー(ゲスネル)(*)に感銘を受け、その頃の日記に「吾(わ)れ欲(ねがわ)くは日本のゲスネルとならん」と記しています。
(*)コンラート・ゲスナー(Conrad Gesner)(1516年~1565年)は、スイスの博物学者・書誌学者。医学・神学をはじめとするあらゆる知識、古典語を含めた多言語に通じ、業績をあげた碩学です。
著書『動物誌』全5巻 (1551-1558) は、近代動物学の先駆けとされます。植物学にも長け、イワタバコ科 (Gesneriaceae) の名称はゲスナーに因みます。
また、書誌学の基礎を築いたとされる『世界書誌』 (1545-55) を著し、「書誌学の父」と呼ばれます。
その後は大学には入学しませんでしたが、大学の博物館を見たり、日本人留学生と交際しながら、読書と採集に励みました。『ネイチャー』の購読を始めたのもこの頃です。
また、手書きの回覧新聞「珍事評論」(下の写真)を発行、文芸と評論を執筆しています。1890年(明治23年)には、シカゴの植物学者カルキンスとの文通を始め、特に地衣類やキノコ類について教えを受けました。
未知の植物が多かったフロリダへ行くことを決意した熊楠は、1891年(明治24年)5月にジャクソンビルに着き、さかんに植物採集をしました。ここでは、中国人・江聖聰の店に下宿していました。
8月にはキー・ウェスト島に赴き、9月にはキューバのハバナに渡って、新種の地衣類を発見するなどしました。
1892年(明治25 年)1月にジャクソンビルへ戻ります。熊楠はその頃から英国行きを決めていたようで、同年9月、ニューヨークを経て英国へ旅立ちました。
2.イギリスでの研究活動
1892年(明治25年)9月にロンドンに到着。その数日後、父の訃報が届きます。ロンドン入り当初は、博物館や植物園を巡り、時折ハイドパークで採集をするなどしていました。
熊楠の本格的な研究活動は、翌年から始まります。『ネイチャー』に出た、星座についての質問に応えて論文を寄稿し、これが同年(1893)10月に「東洋の星座」として掲載されました。
学術雑誌に載った生涯初めての論文です。『ネイチャー』に発表した論文は、帰国するまでの間だけでも30編にのぼりました。
この少し前、大英博物館の古物学部長であるフランクスと出会い、大英博物館に出入りをするようになりました。正規の館員にはなりませんでしたが、民俗学部長リードや東洋図書部長ダグラスを助けて「日本書籍目録」の編集に協力し、また図書館では自分の研究のための読書を続け、書き抜きをした成果が、全52冊の「ロンドン抜書」です。
しかし、何度かトラブルを起こした熊楠は1898年(明治31年)大英博物館を去り、1900年(明治33年)、経済的にも行き詰まって、失意の帰国をすることとなります。
3.ロンドン時代の孫文との出会い
ロンドン時代、熊楠の生涯の中で、とりわけ大切な、二つの出会いがありました。一つは中国の革命家・孫文(そんぶん)(1866年~1925年)との出会いです。
1897年(明治30年)3月、大英博物館東洋学部長ダグラスの紹介で、二人は出会いました。孫文はロンドンに亡命中でした。
「西洋の学問」に負けない「東洋の学問」の確立を目指した熊楠と、西洋の先進文明に学んで、中国の近代化を図ろうとする孫文。この時、同年代の二人は、意気投合して互いの祖国の将来や夢を熱く語りあったことと思われます。
孫文は、「海外逢知音(海外にて知音と逢う)」という特別な友への惜別の辞を熊楠の日記とサイン帳に記し、1897年(明治30年)6月、イギリスを去りました。
1900年(明治33年)10月に帰国した熊楠は、横浜に滞在している孫文のことを知り、手紙を送りました。孫文からはすぐに返信があり、翌年(1901年)2月には和歌山で再会しました。
下の写真は孫文から熊楠への書簡です。
孫文は、熊楠のために、自分の庇護者である犬養毅(いぬかいつよし)(1855年~1932年)宛ての紹介状を書いています。二人が会ったのはこれが最後となりましたが、その後も通信は続き、孫文はハワイで採集した地衣の標本を熊楠に送っています。
その約10年後、孫文は辛亥革命(しんがいかくめい)(1911年~1912年)を成功させ、清王朝を倒して中華民国を樹立しました。
4.ロンドン時代の土岐法龍との出会い
ロンドン時代に出会ったもう一人の重要な人物が、後の真言宗・高野山管長となる土宜法龍(どきほうりゅう)(1854年~1923年)でした。
二人が出会ったのは、熊楠がフランクスを助けて大英博物館(東洋図書目録編纂係として勤務)の仏像・仏具を整理していた頃のことです。土宜法龍はアメリカ・シカゴでの万国宗教会議に出席し、パリへ向かう途中ロンドンに立ち寄ったところでした。
意気投合した二人は、ロンドンにおいて連日、宗教上の談義を交わしています。法龍がパリへ渡った後に文通が始まり、生涯にわたって膨大な量の往復書簡が交わされることとなりました。
文通初期のロンドン時代には、「小生の事の学」と称する独自の思想を法龍に伝えようとしました。
帰国後の那智時代には、真言密教の曼荼羅や粘菌の生活史を用いて森羅万象を表した「南方マンダラ」を示しました。
西洋の近代自然科学の因果律に対し、仏教思想の偶然性を取り入れたこれら土宜法龍宛ての書簡集は、熊楠の最も重要な学問論といわれています。
5.ロンドン時代のディキンズとの出会い
F・V・ディキンズ(Frederick Victor Dickins)(1838年~1915年)は、イギリスの日本文学研究者・翻訳家です。イギリス海軍軍医・領事館弁護士として来日し、帰国後はロンドン大学の事務局長(副学長)を務めましたが、初の本格的英訳とされる『百人一首』をはじめ、『竹取物語』『忠臣蔵』『方丈記』などを英訳し、日本文学の海外への紹介に先駆的な役割を果たした人物として知られます。ハリー・パークス、アーネスト・サトウとも交流があり、南方熊楠も、熊楠が翻訳の手助けをする代わりにイギリス留学中の経済的支援を受けるなど、深い交流がありました。
ディキンズが熊楠の『ネイチャー』の論文を読んで手紙を送ったことから、二人は知り合いました。二人の年齢差は30歳近くありましたが、ときに衝突や批判をしあいながら、年齢を越えた交わりを続けました。熊楠の帰国後も、交友は長く続きました。
両者の研究交流は、『方丈記』の共訳という形で実を結んでいます。熊楠への結婚祝いの手紙には「私心のない観察者」と、ディキンズは熊楠を称えています。