「掃苔家」(そうたいか)として有名な人物の正体が、実はスリだったという話

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掃苔家・苔むした石像

「オーディオマニア」や「切手マニア」、「鉄道マニア」などは比較的よく知られた普通の趣味ですが、世の中には一般にはあまり知られていないまさに「マニアック」とも呼ぶべき趣味があるものです。

私が最近知ったものに「墓めぐり」「掃苔家(そうたいか)」というのがあります。これは名家の「墓石研究家」という一面もあって、「墓石マニア」と呼ぶと掃苔家の方に叱られるかもしれません。

1.「墓めぐり」と「掃苔家」

(1)墓めぐり

墓めぐり」(Tombstone tourism, cemetery tourism)とは、歴史上の偉人などの廟(霊廟)、マウソレウム、霊園、墓園、墓地、墓を巡り旅行する行為のことです。日本では掃苔(そうたい)と呼ばれることがあります。

(2)掃苔家

墓を巡る人」の呼称は、日本語では掃苔家墓マイラー、英語ではgrave hunter、graver、taphophileなどがあります。

(3)墓を巡る目的

墓を巡る目的は、次のように様々です。

①偉人への表敬訪問のため(巡礼)

②エピタフ(墓碑銘)に書かれた故人の詩を見るため

③当時の字や歴史を知るため(拓本等の研究)

④墓のデザインを鑑賞するため

2.掃苔家として有名な人物の正体が実はスリだったという話

林旧竹(はやしきゅうちく)(?~1910年)という明治時代の有名な掃苔家がいます。

その自筆の掃苔記録『墓碣余誌』18冊は東京大学図書館に所蔵され、「貴重書扱い」となっています。大松園旧瓶老人の序文に「旧竹には転居癖があり、馬喰町に始まり、最後の浅草千束の里まで、十二回も転居を繰り返した」とあります。

葛飾北斎の93回の転居には及びませんが、何か「訳アリ」のようです。

森鴎外自筆の伝記研究覚書『雑記』の中に、林旧竹に関する驚くべき記事があります。

林旧竹 墓癖家なり。初め女帯仕立てを業とす。中ごろ本所外手町に住す。妻は女髪結なり。旧竹は俳諧をも善くし三世大江丸と称す。然るに実は「箱師(はこし)」にて妻もまた、「万引」をなせり。旧竹入獄数度、最後には三年獄にありき。晩年本所押上橋本屋側に住したりしに、脚気を患い衝心して死す。田甫の法華宗コウリウ寺に葬る。遺稿は南葵文庫にあり(竹田信賢話)

「箱師」とは、もっぱら汽車や電車内を仕事場とするスリのことです。すり取った財布や金品をすぐに隠すため、当時は東京市中のあちこちにあった寺の墓場に入り込み、墓石の裏に置きました。その隠し場所を記憶するうちに、墓にやたらと詳しくなり、掃苔家として名を成したということです。

旧竹の生涯については、森鴎外だけでなく永井荷風や十一谷義三郎も小説作品化することを構想していたようですが、いずれも実現しませんでした。

3.日本の「掃苔」文化

近世後期以降の日本では、宗教や信仰上の動機とは別に、故人の墓を訪問してその人を偲び、歴史に思いを馳せることが文化として定着しました。この一連の行為は「掃苔」と呼ばれ、趣味やライフワークとして掃苔を行う人々である「掃苔家」が、近代を経て現代にも存在しています

「掃苔」の元々の意味は、「墓石に生じた苔を掃(はら)うこと」ですが、転じて「墓参り」を意味するようになり、「お盆前の墓参」を指す秋の季語にもなりました。

山口誓子に次のような俳句があります。

掃苔(サウタイ)や 餓鬼が手かけて 吸へる桶

メディア文化史学者の阿部純氏は、「掃苔の醍醐味とは、故人を近しい存在に感じながら、墓を媒介として、その故人を語るふりをして自己について語ることこそにある」とし、「墓は掃苔家のモノローグを反射するためにある」と論じています

また、書道研究者の岩坪充雄氏は、「墓碑銘を揮毫した当時の能書家の書跡を鑑賞し、その史料的価値を確認するのも掃苔の楽しみの一つである」としています

そのほか、中川八郎氏のように墓石により着目し、材質や形状、寸法、正面が向かう方位までを調査した例もあります

物集和子

近代掃苔家の一人である藤浪(物集)和子(1888年~1979年)(上の画像)は、掃苔という行為について次のような感想を述べています。

故人を追慕し時代々々の世相にふれながら墓所を探るのは愉しい事である。偶々人が気づかなかつたのを見出した時の忝なさは、探墓を経験した人のみがしる怡びである。また此処にある筈のが失はれてゐた時などは、僅に遺る故人の忍草が根こそぎ枯れた思ひで、何物にも譬へがたい寂しさに陥るのであつた。……— 『東京掃苔録』序文

4.「掃苔」の歴史と著名な「掃苔家」

江戸時代の貞享・元禄期から明治時代初期にかけての大阪では、市内7か所の大きな墓所を巡回して無縁仏を供養することで功徳を積む「七墓巡り」が流行しました。

一方で近世中後期には、追善供養よりはむしろ個人的な関心から偉人や著名人の墓を訪ね歩く「掃苔」も文人らの間で行われ、それは単に墓を訪問するだけでなく、その前で故人を回顧したり墓碑銘の拓本を取ったりするといった、典雅な趣味でした

中尾樗軒の『江都名家墓所一覧』(1818年〈文化15年〉)や暁鐘成の『浪華名家墓所集』のように、故人の業績や墓所の所在地などの情報を一覧に整理してまとめたカタログないしガイドブック的な書物である「掃苔録」も、すでに当時から作成・出版されていました。江戸時代の掃苔家としては、池田英政・大田南畝・曲亭馬琴などが挙げられます

近代に入ると、掃苔家により結成された各同好団体が、墓石の形状や銘文および被葬者の略伝を紹介した同人誌や機関誌も発行するようになり、代表的なものとしては東都掃墓会の『見ぬ世の友』、東京名墓顕彰会の『掃苔』などがあります

掃苔録も近世から引き続いて編集され、都市部のみならず地方の墓所に焦点を当てたものも登場しました。特に藤浪(物集)和子が1940年(昭和15年)に刊行した『東京掃苔録』は593寺・2477名を収録しており、以後も再版が繰り返されている名著です。近代の著名な掃苔家には森鷗外永井荷風らがいます

昭和時代戦後には文芸評論家の野田宇太郎が、それまでの掃苔を包摂しつつも訪問対象をより広げ、文豪にゆかりある地を巡り歩くという「文学散歩」を提唱・確立しました

現代においても掃苔趣味は健在であり、平成時代には墓巡りをする人を指す語として「墓マイラー」が新たに造られました

また、霊園が著名人の墓所を明示した「霊園マップ」をあらかじめ用意しているほか、個人が掃苔の成果をインターネット上で公開する例が見られます。2013年(平成25年)には青山霊園内の著名人の墓所情報を収録したiPhoneアプリ『掃苔之友青山』が登場し、墓所への訪問はより容易になってきています。

余談ですが、上方落語の「天神山(てんじんやま)」は、主人公の偏屈男が「花見」ならぬ「墓見」に出かける話です。

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