前に「甲子夜話」について紹介する記事を書きましたが、これを書いた平戸藩主の松浦静山とはどのような人物だったのでしょうか?
1.松浦静山とは
松浦 清(まつら きよし)(1760年~1841年)は、江戸時代中・後期の大名で、肥前国平戸藩の第9代藩主です。平戸藩世嗣だった松浦政信(第8代藩主・松浦誠信の三男)の長男。母は政信の側室・友子(母袋氏)。官位は従五位下。死後に贈従三位。幼名は英三郎。
号は静山で、この号を合わせて一般には「松浦静山」の呼び名が通っています。
隠居後に執筆した江戸時代後期を代表する随筆集「甲子夜話」で有名です。大名ながら心形刀流剣術の達人であったことでも知られています。
2.松浦静山の生涯と人物像
(1)生い立ちと幼少時代
清の父・政信は本来ならば誠信の跡を継ぐはずでしたが、明和8年(1771年)8月に早世しました。
その長男ながら側室出生であった清は、それまで松浦姓を名乗れず松山姓を称していましたが、同年10月27日に祖父・誠信の養嗣子となりました。
松浦氏は嵯峨源氏の末流にして鎌倉時代から平戸に土着していた半海賊集団「松浦党」(*)の末裔で、静山も松浦党の誇りを持ち文武両道に優れた若者だったということです。
(*)「松浦党」は、平安時代から肥前の松浦地方を中心に、九州北西部に割拠していた武士集団です。壇ノ浦の戦いや元寇でも、水軍として勇戦しましたが、その同族集団の中から肥前平戸を本拠とする平戸松浦家が勃興して、松浦党を率いることになりました。
戦国時代には、同家の松浦隆信が勢力を伸ばしましたが、豊臣秀吉が九州平定のため出陣してくると、秀吉のもとに馳せ参じて所領を安堵されました。
息子の鎮信(法印)は、関ヶ原合戦で家康方に属し、ここに平戸藩松浦家が誕生しました。その所領は、肥前松浦郡の大半と彼杵(そのぎ)郡の一部、壱岐国一円を合わせて6万石でしたが、実際は10万石あったともいわれます。
(2)家督相続し、藩主となる
安永3年(1774年)4月18日将軍徳川家治に御目見します。同年12月18日従五位下・壱岐守に叙任します。安永4年(1775年)2月16日祖父の隠居により、16歳で家督を相続しました(嫡孫承祖)。
誠信までの松浦家の当主のほとんどは二字名でしたが、有職故実を重んじる清は、代々一字名を特徴としていた嵯峨源氏の先祖にあやかって再び一字に戻したのだそうです。
なお、清以降、松浦家の名は現在の当主まで一字名で通されています。同年3月15日、藩主として初めて帰国する許可を得ます。
(3)藩主として藩政改革に尽力
彼が藩主となった頃、平戸藩は財政窮乏のために藩政改革の必要に迫られていました。このため清は「財政法鑑」や「国用法典」を著わして、財政再建と藩政改革の方針と心構えを定めました。そして経費節減や行政組織の簡素化や効率化、農具・牛馬の貸与制度、身分にとらわれない有能な人材の登用などに努めています。
好学の大名として知られ、和漢の歴史・逸話・和歌・有職故実・本草・物産・博物・民俗・蘭学など自然・人文の万般にわたって旺盛な知識欲を発揮しました。
彼はこれらの知識を古今の書籍に求め、また江戸への参勤交代の道すがら土地の故老に尋ね、あるいは本草学者木村蒹葭堂、考証学者で静山の師である皆川淇園、同じ学者大名たる松代藩主の真田幸貫、黒羽藩主の大関増業らとの交流の中で身につけていきました。
また、安永8年(1779年)藩校・維新館を建設して人材の育成に努め、藩政改革の多くに成功を収めました。
藩校の名称に関して幕府より「維新とはどういうことだ」と問責を受けましたが、校名は変更していません。この校名の「維新」は『詩経』の一節に由来すると言われています。
明治維新の「維新」と出典は同じですが、清の正室の兄・松平信明は老中経験者でもあり、当時の社会情勢、平戸藩の状態からも、清に幕府転覆の意思があったとは考えられません。
安永9年(1780年)には文庫として平戸に楽歳堂、江戸に感恩斎を設け、さらに天明4年(1784年)には修史所としての絹煕斎を置いて「家世伝」の編纂を進めました。
また武芸にも秀で、自ら心形刀流(しんぎょうとうりゅう)免許を得るとともに、他方では藩内の武備を強化して海防にも怠りませんでした。
文化3年(1806年)に致仕するまで三十余年の長きにわたって藩主の座にありました。
(4)隠居し「甲子夜話」などの執筆に専念
彼は外様大名(*)ながら、幕閣となって幕政に参画する野望を持ち続け、有力者へ賄賂を贈ったりして猟官運動もしましたが、結局果たせませんでした。
(*)「外様大名」とは、家康が豊臣氏に代わって天下人の座に就いたことで服属した大名のことです。
この時代、幕府の役職に就けるのは原則として「譜代大名」に限られていました。譜代大名とは、父祖の代から家康に仕え、徳川家を天下人つまり将軍の座に押し上げた家臣のうち大名に取り立てられた者や、江戸開府後に幕臣に取り立てられ、加増の結果、大名に取り立てられた者を指します。
松浦家も秀吉の時代は家康と同列の大名でしたが、家康が天下分け目の関ヶ原合戦に勝利したことで、やむなく臣下の礼を取りました。
したがって、松浦家は基本的に幕府の役職に就くのは叶わぬ夢でした。ただし、外様大名であっても役職に就く事例がなかったわけではありません。平戸藩第5代藩主の棟(たかし)が奥詰そして寺社奉行に就任したのがその一例で、第4代藩主の鎮信も奥詰に任命されています。
文化3年(1806年)、47歳で三男の熈に家督を譲って隠居し、以後は執筆活動に専念します。
彼は文学者としても秀でており、62歳になった文政4年(1821年)11月の甲子の夜に執筆を開始したということで有名な、江戸時代を代表する随筆集「甲子夜話」(完本は平凡社東洋文庫、全20巻)や剣術書「剣談」(「常静子剣談」とも書かれる)(野村克也が座右の銘としていた「勝ちに不思議の勝ちあり。負けに不思議の負けなし」はこれが出典で、清本人の発言)など、多くの重要な著作を残しています。
特に「甲子夜話」は正編100巻、続編100巻、三編78巻に及ぶ膨大なものであり、内容は田沼時代から寛政の改革期頃にかけての政治、諸大名や旗本、民衆の暮らしや風俗を知る上で貴重な史料となっています。
なお彼は、後に親類となる(*)松平定信と同じく、武芸のみならず学問や文芸にも造詣が深く、儒学者や国学者と親しく交流し、和歌や連歌も学びました。また有職故実に通じ、能や蹴鞠も嗜(たしな)みました。
(*)静山の三男・熈(ひろむ)が松平定信の娘を正室に迎えたため
隠居後は、松平定信主宰の文化サロン「浴恩園」の主要メンバーとなりました。
教養あふれる殿様でしたが、その関心は高尚な分野にとどまらず、庶民文化のシンボルである戯作を愛読し、川柳や三味線も嗜むなど「俗」な世界にも通じた粋人でした。
余談ですが、文化9年(1812年)に伊能忠敬が3カ月間にわたって平戸を測量しました。忠敬は交際範囲が広く、日記には間宮林蔵、司馬江漢など多くの著名人が登場します。静山もその一人で、忠敬は測量後に平戸藩領の地図を静山に提供することを約束しましたが、忠敬が存命中は果たされませんでした。
天保12年(1841年)、82歳で死去しました。
(5)多方面にわたる収集品
蘭学にも関心があったようで、静山が入手した地球儀が現在も松浦史料博物館に保管されています。
一方で、史料博物館には戯作や黄表紙など卑俗な絵入り小説も多く含まれ、静山の多方面な関心が窺えます。
昭和初期の5度にわたる売立や人を介して間接的な競売で散逸しましたが、肉筆浮世絵を特に熱心に蒐集したらしく、多くの名品をコレクションしていました。
現在、大和文華館所蔵の国宝「婦女遊楽図屏風」は静山が新たに購入し、この屏風の別名「松浦屏風」もこのことに由来します。
他にも勝川春章筆「婦女風俗十二ヶ月図」(MOA美術館蔵、重要文化財)や「遊女と禿図」(東京国立博物館)、鳥文斎栄之筆「朝顔美人図」(千葉市美術館)などの優品が静山の旧蔵品として知られています。
(6)子孫
清は17男16女に恵まれた。そのうちの十一女・愛子は公家の中山忠能に嫁いで慶子を産み、この慶子が孝明天皇の典侍となって宮中に入り、明治天皇(*)を産んでいます。(そのため清は明治天皇の曽祖父にあたると言われますが、「明治天皇すり替え」が事実とすれば、全くの無関係となります)
(*)明治天皇は、即位直後に暗殺され、長州出身の大室寅之祐にすり替わったという信憑性の高い話があります。これについては、次の記事に詳しく書いていますので、ぜひご覧ください。
「明治天皇は即位直後に暗殺されて南朝系統の大室寅之祐にすり替わっていた!?」
「大室寅之祐は本当に南朝の末裔だったのか?嘘だとすれば今の天皇家の祖先は?」
「明治天皇すり替えを告白した田中光顕とはどんな人物だったのか?」
3.松浦静山の言葉
・勝ちに不思議の勝ちあり。負けに不思議の負けなし(出典:剣術書「剣談」)
予(よ)曰(いは)く。勝に不思議の勝あり。負に不思議の負なし。問、如何(いか)なれば不思議の勝と云う。曰く、道を遵(とおと)び術を守ときは、其(その)心必(かならず)勇ならずと雖(いへ)ども勝ち得る。是(この)心を顧(かへりみ)るときは則(すなはち)不思議とす。故に曰ふ。又問、如何なれば不思議の負なしと云ふ。曰、道に背き術に違(たが)へれば、然るときは其負疑ひ無し、故に爾(なんじ)に云(いふ)、客(きゃく)乃(の)伏す。
<現代語訳>
私は、『勝つときには不思議の勝ちがある。しかし、負けるときには不思議の負けということはない』と客に言った。客は『なぜ不思議の勝ちと言うのか』と質問をしてきた。私は『本来の武道の道を尊重し教えられた技術を守って戦えば、たとえ気力が充実していなくても勝つことができる。このときの心の有り様を振り返ってみれば、不思議と考えずにはいられない』と返答した。そうすると客は、『どうして不思議の負けはないと言うのか』と質問してきた。私は『本来の道から外れ、技術を誤れば、負けるのは疑いのない事だから、そう言ったのだ』と答えた。客は恐れ入って平伏した。