三菱財閥の創業者岩崎弥太郎とは?明治期に「政商」として暗躍し、巨万の富を築く。

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岩崎弥太郎

韓流ドラマを見ていると、よく「財閥」の話が出てきますが、日本にも戦前は「財閥」が存在しました。

1.日本の財閥

(1)財閥とは

「財閥」とは、第2次世界大戦終結までの日本における同族支配によるコンツェルン型の巨大な独占企業集団のことです。

つまり、一族の独占的出資による資本を中心に結合した経営形態のことです。

簡単に言うと、大きな財力を持ち、一族・系列でさまざまな分野の企業を独占するような大企業ということになります。

第2次世界大戦後、財閥は解体されましたが、実質的には三井系、三菱系、住友系、安田系などが存続しています。

(2)日本の財閥

日本の財閥の中でも特に規模が大きい3つの財閥(三井・三菱・住友)を、「三大財閥」と呼び、三大財閥に安田財閥を加え、「四大財閥」と分類します。

「四大財閥」を含めて「十大財閥」(*)「十五大財閥(**))と呼ばれる財閥もあります。

(*)十大財閥(「四大財閥」を除く)

・鮎川財閥(創業者: 鮎川義介)

・浅野財閥(創業者: 浅野総一郎)

・古河財閥(創業者: 古河市兵衛)

・大倉財閥(創業者: 大倉喜八郎)

・中島財閥(創業者: 中島知久平)

・野村財閥(創業者: 野村徳七)

(**)十五大財閥(「十大財閥」を除く)

・渋沢財閥(創業者: 渋沢栄一)

・神戸川崎財閥(創業者: 川崎正蔵)

・理研コンツェルン(創業者: 大河内正敏)

・日窒コンツェルン(創業者: 野口遵)

・日曹コンツェルン(創業者: 中野友禮)

2.三菱財閥の創業者岩崎弥太郎とは

岩崎弥太郎と言えば、NHK大河ドラマ「龍馬伝」で福山雅治さん 演じる坂本龍馬を「偉い人物だった」と新聞記者に紹介した香川照之さん演じる弥太郎(下の写真)が強く印象に残っています。

香川照之・岩崎弥太郎

貧しい鳥籠売り時代の姿も(下の写真)落差があって面白かったですね。

岩崎弥太郎

岩崎弥太郎(いわさき やたろう)(1835年~1885年〉は、三菱財閥(現:三菱グループ)の創設者となった実業家です

彼は土佐の貧しい家に生まれましたが、学問に励んで藩内で出世し、後に三菱財閥を作りました。

彼は、日本で初めてボーナス(賞与)を出した人物でもあります。明治9年(1876年)、世界最大の海運会社である英国のピー・アンド・オー社との競争で、社員は給与3分の1を返上し、経費削減を実行してビジネス戦争に勝利したため、社員に年末に賞与を支給しました。

なお、彼の手掛けた事業は全て大成功したように思われるかもしれませんが、失敗した事業もあります。それは、樟脳事業、製糸事業、東京の水道です。

(1)生い立ち

彼は1835年1月9日、土佐国安芸郡井ノ口村一ノ宮(現在の高知県安芸市井ノ口甲一ノ宮)の地下(じげ)浪人(*)の岩崎弥次郎と美和の長男として生まれました。

(*)「地下浪人」とは、土佐藩特有の身分で、武士としては最低ランクです。

これは上士(じょうし)身分の浪人と区別して付けられた呼称で、40年以上郷士(ごうし)身分であった者が、郷士身分を他者に譲って浪人となって、地域に居付いた者のことです。

土佐藩の武士身分は上士(上級武士)と下士(下級武士)に分かれており、上士山内一豊に付き従って土佐に入った家臣等の子孫であり、下士長宗我部氏の旧家臣や土着の豪族層等の子孫が主な者でした。

岩崎家は甲斐武田家の当主武田信光の五男の一宮信隆(武田七郎)の子の岩崎貞隆(五郎貞経)が、甲斐国山梨東郡(東山梨郡)岩崎(現・山梨県甲州市勝沼町)を本拠に岩崎氏を称し、家紋も武田菱に由来するという伝承があります。

岩崎家はその末裔と称した信寛の代に安芸氏、長宗我部氏に仕え、関ヶ原の戦いでの功が認められた山内氏入国後は山野に隠れて農耕に従事し、江戸中期に郷士として山内氏に仕えました。

天明の大飢饉で一揆が起きるなど混乱し、弥太郎の曾祖父の代に郷士の資格を売り、地下浪人となりました。

彼は幼い頃から、伯母が嫁いだ岡本寧浦について和漢の書を学び、14歳の時に巡察に来た13代藩主・山内豊凞に漢詩を献じ、書を講じて褒美をもらうなど「安芸の三奇童と呼ばれるほどの秀才でしたが、子供の頃は腕白な一面もありました。

安政元(1854年)年、江戸詰めとなった奥宮慥斎(おくのみやぞうさい)の従者として江戸へ行き、昌平坂学問所教授の安積艮斎(あさかごんさい)(1791年~1861年)(*)の私塾「見山楼」に入塾し、非常に熱心に勉強しました。筆頭塾生は親戚の岩崎馬之助でした

(*)幕末の著名な朱子学者。江戸で私塾を開き、吉田松陰、岩崎弥太郎、高杉晋作、小栗忠順、栗本鋤雲、清河八郎らが門人として学びました。

しかし安政2年(1855年)、父親が酒席での庄屋との喧嘩により投獄されたことを知り帰国します。奉行所に訴えましたが、証人は庄屋の味方をしました。

彼は「不正を罷り通すがが奉行所かよ」と訴え、壁に墨で「官は賄賂をもってなり、獄は愛憎によって決す」と大書したため投獄されました

この時、獄中で同房の商人から算術や商法を学んだことが、後に商業の道に進む機縁となりました。

出獄後、村を追放されましたが、安政5年(1858年)に、当時蟄居中であった土佐藩士吉田東洋(1816年~1862)が開いていた私塾「少林塾」に入塾しました。

この時、東洋に目をかけられ、後に弥太郎は土佐藩の役人となります。やがて東洋の甥である後藤象二郎(1838年~1897年)が、藩の要職に就きます。

吉田東洋が参政となるとこれに仕え、土佐藩の下級藩士の一人として長崎に派遣されましたが、これは清朝の海外事情を把握することが目的でした。

しかし、イギリス人やオランダ人など「異人」と通訳を介して丸山花街で遊蕩し、資金がなくなって帰国しますが、無断帰国であったため罷免され、官職を失いました。

この頃、27歳で弥太郎は借財をして郷士株を買い戻し、長岡郡三和村の郷士・高芝重春(玄馬)の次女喜勢を娶りました。

吉田東洋が武市半平太らの勤皇党によって暗殺されるとその犯人の探索を命じられ、同僚の井上佐市郎と共に藩主の江戸参勤に同行する形で大坂へ赴きました。

しかし、必要な届出に不備があったことを咎められ帰国しました。これは武市一派の讒言によるものでした。(尊王攘夷派が勢いを増す京坂での捕縛業務の困難さから任務を放棄し、無断帰国したともいわれます)。

この直後、大坂にいた井上佐市郎や広田章次は岡田以蔵らによって暗殺されました。帰国後、弥太郎は農事に精を出しました。慶応元年(1865年)、官有林払下げ許可が下りました。

(2)開成館

当時土佐藩は開成館長崎商会を窓口に、貿易商人ウォルシュ兄弟や武器商人グラバー、クニフラー商会とも取引をしていました。

これら欧米商人から船舶や武器を輸入したり、木材並びに強心剤・防腐剤として使用されていた樟脳、鰹節など藩物産を販売しており、吉田東洋の甥の後藤象二郎が弥太郎を商組織の主任に任命しました

慶応2年(1866年)春に起こった土佐藩物産の樟脳の市場価格暴騰により、土佐藩がクニフラー商会との間で契約不履行が生じた際には弥太郎が窓口となりましたが、この問題の決着は明治維新後まで長期を要しました。

司馬遼太郎は「竜馬がゆく」でこの時の土佐藩後藤象二郎とクニフラー商会(文中ではキネプル)とのもめごとを取り上げています。 また明治維新後グラバーは三菱に雇われることとなりました

慶応3年(1867年)になると、吉田東洋門下の福岡藤次に同行を求められ長崎へ行きました。坂本龍馬が脱藩の罪を許され、亀山社中が海援隊として土佐藩の外郭機関となっていましたが、慶応4年閏4月には解散し、弥太郎は藩命を受け同隊の残務整理を担当しました。

その後弥太郎は後藤象二郎に転勤を頼み、明治元年(1868年)、開成館大阪出張所(大阪商会)に移りました。

(3)九十九商会

明治政府が藩営事業を禁止しようとしたため、明治2年(1869年)10月、土佐藩首脳林有造は海運業私商社として土佐開成社、後の九十九(つくも)商会を立ち上げました。

代表は海援隊の土居市太郎と、長崎商会の中川亀之助で、弥太郎は事業監督を担当しました。明治3年(1870年)には土佐藩の少参事に昇格し、大阪藩邸の責任者となり、英語習得を奨励しました。

私腹を肥やしていると疑われ派遣された内偵の石川七財を勧誘し、商会に入れました。

明治4年(1871年)の廃藩置県で弥太郎は土佐藩官職位を失ったため、九十九商会の経営者となりました。

九十九商会は、藩船3隻払下げを受け貨客運航、鴻池家や銭屋に抵当として抑えられていた藩屋敷(現在の大阪市西区堀江の土佐稲荷神社付近)を買い戻しました。

岩崎弥太郎は当地に本邸を構えて事業を営み、三菱の発祥の地となりました。邸宅跡は現在石碑が建てられています。

明治期当時、外国船は日本の国内航路にまで進出しており、明治政府は「廻漕会社」を設立し幕府所有の蒸気船を与えましたが太刀打ち出来ず、また三井・鴻池・小野組などに設立させた日本国郵便蒸汽船会社に、諸藩から取り上げた蒸気船を与え、運航助成金も支給しましたがはかばかしくなかったのに対して、九十九商会は高知—神戸航路、東京—大阪間の輸送で上潮でした。

(4)三菱商会

明治5年(1872年)、九十九商会は三川(みつかわ)商会となりましたが、代表は川田小一郎、石川七財、中川亀之助で弥太郎の権限は曖昧不分明でした。

明治6年(1873年)、三菱商会へ社名変更し、明治7年(1874年)本店を東京日本橋の南茅場町に移し、三菱蒸汽船会社へ社名変更しました

この時、土佐藩主山内家の三つ柏紋を元にして(後に岩崎家の三階菱紋の家紋の意味合いを持たせる)現在、広く知られる三菱のマーク「スリーダイヤ」を作りました

また岡山県の吉岡銅山を入手しました(現在の三菱マテリアル)

弥太郎が巨利を得るのは、維新政府が樹立されて紙幣貨幣全国統一化に乗り出した時のことで、各藩が発行していた藩札を新政府が買い上げることを事前に察知した弥太郎は、10万両の資金を都合して藩札を大量に買占め、それを新政府に買い取らせて莫大な利益を得ました。

この情報を流したのは新政府の高官となっていた後藤象二郎であり、今でいうインサイダー取引でした。弥太郎は最初から政商として暗躍しました。

(5)台湾出兵

明治7年(1874年)、台湾出兵で政府は軍事輸送を英米船会社に依頼しましたが、局外中立を理由に拒否され、日本国郵便蒸汽船会社も軍事輸送の間に三菱に顧客を奪われることを恐れて躊躇したため、三菱が引き受けました

政府は外国船13隻を購入し運航を三菱に委託しました。明治8年(1875年)、日本国郵便蒸汽船会社は解散に追い込まれました。

日本の内外航路を独占していた欧米の汽船会社を駆逐するため横浜ー上海間に航路を開きましたが米国のパシフィック・メイル(PM)社(太平洋郵船)との価格競争に陥りました。

政府は有事の際の徴用を条件に三菱への特別助成を交付し、日本国郵便蒸汽船会社の船舶18隻が無償供与され、政府御用達の意味を込めて「郵便汽船三菱会社」と社名変更しました

駅逓頭前島密はPM社営業権買取を主張し、三菱は買取に成功しました。PMの汽船4隻と関連施設を購入し、PM関連会社の東西汽船にも金を払い、両社が以後30年間、日本-中国間と日本の沿岸航路に立ち入らないことを約束させました

その後、英国P&O社が香港・上海・横浜・大阪・東京間に進出、新興三菱に反発する顧客を取り込みましたが、激しい価格競争の末、三菱は廻船貨物を担保に貸付を行う荷為替金融を導入するなど、政府と合同で保守したため、日本からは撤退しました。

彌太郎の依頼で福沢諭吉が推薦した荘田平五郎が入社し、会社規則で三井や住友にない社長独裁を明記しました。

福沢門下生で三菱に入ったものは吉川泰二郎(日本郵船社長)、山本達雄(日銀総裁)、阿部泰蔵(明治生命創業)がいました。明治政府は三菱に命じ、明治8年(1875年)霊岸島に三菱商船学校が設立(東京商船学校)され、明治11年(1878年)、神田錦町に三菱商業学校が設立されました。

(6)西南戦争

明治10年(1877年)の西南戦争で、政府の徴用に応じて三菱は社船38隻を軍事輸送にあて政府軍7万、弾薬、食糧を円滑に輸送しました。

鎮圧後、三菱は金一封や銀杯が下賜され、戦費総額4156万円のうち三菱の御用船運航収入総額は299万円、当期利益は93万円(東京市年度予算超)となり、莫大な利益をあげました

三菱は、無償供与された船舶30隻の代金として120万円を上納したのち、買い増して所有船61隻となり、日本の汽船総数の73%を占めました

明治11年、弥太郎は、高田藩榊原家江戸屋敷(旧岩崎邸庭園)、深川清澄の屋敷(清澄庭園)、駒込の庭園(六義園)を購入しました

政府の仕事を受注することで大きく発展を遂げた弥太郎は「国あっての三菱」という表現をよく使いました。

しかし、海運を独占し政商として膨張する三菱に対して世論の批判が持ち上がります。農商務卿西郷従道が「三菱の暴富は国賊なり」と非難すると、弥太郎は「三菱が国賊だと言うならば三菱の船を全て焼き払ってもよいが、それでも政府は大丈夫なのか」と反論しました。

明治11年(1878年)、紀尾井坂の変で大久保利通が暗殺され、明治14年(1881年)には政変で大隈重信が失脚したことで、弥太郎は強力な後援者を失いました。大隈と対立していた井上馨や品川弥二郎らは三菱批判を強めました。

明治13年(1880年)、東京風帆船の株を買い占め、東京株式取引場と東京米穀取引株を買収しました。

明治14年(1881年)、借金漬けの後藤象二郎支援のため高島炭鉱を買い取り、長崎造船所も入手しました。

明治15年(1882年)7月には、渋沢栄一や三井財閥の益田孝、大倉財閥の大倉喜八郎などの反三菱財閥勢力が投資し合い共同運輸会社を設立して海運業を独占していた三菱に対抗しました。

三菱と共同運輸との海運業をめぐる戦いは2年間も続き、運賃が競争開始以前の10分の1にまで引き下げられました

両社はダンピング(安すぎる値段で商品などを提供すること)競争という泥沼にはまり、このままでは共倒れしてしまうというところまで行きました。

そこで両社は合併することになり、「日本郵船」が生まれました。日本郵船が発足したのは、岩崎弥太郎が亡くなった後のことです。

(7)死去

明治18年(1885年)2月7日18時30分、弥太郎は胃がんのため、満50歳で病死しました。

弥太郎の死後、三菱商会は政府の後援で熾烈なダンピングを繰り広げた共同運輸会社と合併して「日本郵船」となり、後を継いだ弟の弥之助は帝国議会の創立時に天皇から勅選され貴族院議員となた。現在では「日本郵船」は三菱財閥の源流と言われています。

3.岩崎弥太郎の名言・語録

・<母の美和が残した「岩崎家の家訓」>
一、天の道にそむかない
二、子に苦労をかけない
三、他人の中傷で心を動かさない
四、一家を大切に守る
五、無病の時に油断しない
六、貧しい時のことを忘れない
七、忍耐の心を失わない

・小事に齷齪(あくせく)するものは大事ならず。よろしく大事業経営の方針をとるべし

・一たび着手せし事業は必ず成功せしめざるべからず

・断じて投機的な事業を企つるなかれ

・国家的観念をもってすべての経営事業にあたるべし

・奉公至誠の念にすべて寸時もこれを離るべからず

・勤倹身を持し、慈善人にまつべし

・よく人材技能を鑑別し、すべからく適材を適所に配すべし

・部下を優遇するにつとめ、事業上の利益は、なるべく多くを分与すべし

・創業は大胆に、守成は小心たれ。樽よりくむ水にまして、洩る水に留意すべし

・およそ事業をするには、まず人に与えることが必要である。それは、必ず大きな利益をもたらすからである

・機会は魚群と同じだ。はまったからといって網をつくろうとするのでは間に合わぬ

・樽の上からすくって飲むやつは、たとえ一升飲まれても、三升飲まれてもたいしたことはない。怖いのは樽の底から一滴でも漏ることだ

・機会は、人間一生のうちに誰でも、一度や二度は必ず来るものである。それをとらえそこねると、その人は一生立身できない

・自信は成事の秘訣であるが、空想は敗事の源泉である。ゆえに事業は必成を期し得るものを選び、いったん始めたならば百難にたわまず勇往邁進して、必ずこれを大成しなければならぬ

・小僧に頭を下げると思うから情けないのだ。金に頭を下げるのだ

・人材の育成は学問のある者を積極的に用いよ

・酒樽の栓が抜けたときに、誰しも慌てふためいて閉め直す。しかし底が緩んで少しずつ漏れ出すのには、多くの者が気づかないでいたり、気がついても余り大騒ぎしない。
しかし、樽の中の酒を保とうとするには、栓よりも底漏れの方を大事と見なければならない

・貴様は立派な紙を使っているが、全国の支社が皆白紙を用いて貼ったならば、年間幾らの費用になると思うか

・諸芸に秀でようとして、枝葉末節の技術に時間をかけるのは、無能者のやることさ

・水急なれば魚住まず。政治苛なれば人就かず

・無駄をなくすということは、口に出して言うのは簡単でも、実行するのは難しい

・平々凡々と人の下にいるのは、死ぬこととさえ同じ。これは私の性格である

・会社の利益はまったく社長の一身に帰し、会社の損失もまた社長の一身に帰すべし

・字など下手でも良いのだ

・酒は大いに飲むべし、酔うべからず。飲んで乱れる弱卒は用いるに足らず

4.三菱財閥とは

三菱財閥は、かつて存在した日本三大財閥の一つで、現在の三菱グループです。

土佐藩出身の岩崎弥太郎が現在の大阪府で創立した三菱商会を基盤に、明治政府の保護も得て海運業を独占しました。

1893年に三菱合資会社を設立し、これを持株会社として造船業・鉱業・鉄道・貿易などあらゆる分野に進出しました。第2次世界大戦後、GHQ の指令により他の財閥と共に解体されました(財閥解体)が、その後しばらくして企業集団としての再統合が進められ、三菱グループが形成されました。

(1)財閥の起源

三菱財閥は、住友、三井とともに「三大財閥」と呼ばれますが、住友、三井が三百年以上の歴史を持つ旧家なのに対して、三菱は明治期政商として、巨万の利益を得てその礎を築いたという違いがあります。

最初に弥太郎が巨利を得たのは、維新政府が成立し全国統一貨幣制度に乗り出した時のことで、各藩が発行していた藩札を新政府が買い上げることを事前に察知した弥太郎は、十万両の資金を都合して藩札を大量に買占め、それを新政府に買い取らせて莫大な利益を得ました

この情報を流したのは新政府の高官となっていた弥太郎と同じ土佐出身の後藤象二郎ですが、いわば弥太郎は最初から政商として暗躍しました。

弥太郎は明治維新前後の土佐藩の商事部門を実質的に担いましたが、明治政府の政策に沿って、土佐藩が商事部門から撤退を余儀なくされるとそれを引き継ぎ、海運業を主業としました

1870年に土佐藩は、坂本龍馬が近江屋井口新助邸で暗殺されたことで解散した海援隊の後身として、大阪市西区堀江の土佐藩蔵屋敷(現在の土佐稲荷神社付近)で始めた九十九商会の監督を弥太郎に任せました。

さらに翌年の廃藩置県後、九十九商会は個人事業となりました。弥太郎は県から土佐藩所有の船三隻を買い受け、1873年に三菱商会と改称し、海運と商事を中心に事業を展開しました。

弥太郎は、当時欧米の海運会社が独占していた内外航路から外国汽船会社を駆逐するため明治政府の保護を受けて「郵便汽船三菱会社」と改称し、1875年に日本上海間の定期航路を開き、荷為替金融を開始するなどして激しい運賃競争の末に米国パシフィックメイル汽船会社と英国P&O汽船会社を撤退させることに成功し、さらに西南戦争(1877年)の際には軍事輸送の主役を務め、さらなる巨万の富を掌中にしました。

商会はこの戦争で政府側の軍隊・軍需品の輸送を一手に引き受けたばかりか、戦争終結で残った軍需品の処分まで任され、一挙に莫大な利益を得ることになりました。

政府が西南戦争で支払った戦費は4,150万円といわれますが、そのうち1,500万円が三菱の儲けでした。しかし、その裏には後藤象二郎を通じて時の最大の権力者大久保利通、大隈重信らの政府要人の後ろ盾があったことは言うまでもありません。

大熊退治と海坊主退治・風刺画

大隈重信と岩崎弥太郎の癒着を糾弾した「大熊退治と海坊主退治」の風刺画(上の画像)は有名です。(ちなみに三井財閥は、長州閥の伊藤博文、井上馨、品川弥二郎らに肩入れして対抗していました)。

政商として膨張する三菱に対して世論の批判が持ち上がりました。そんなさなか弥太郎の後援者だった大久保利通が1878年に暗殺され(紀尾井坂の変)、1881年には大隈重信が失脚しました(明治十四年の政変)。

勢いをえた長州閥と三井はここぞとばかりに三菱バッシングに打って出ました。その最大のものが、海運業を独占していた三菱に対して、政府が音頭を取って財界人の渋沢栄一、三井八郎右衛門・大倉喜八郎ら政商を結集して設立した半官半民の共同運輸会社でした。

三菱と共同運輸との海運業をめぐる戦いは、1883年4月から2年間も続き、運賃が競争開始以前の10分の1にまで引き下げられるというすさまじさでした。

こうしたさなか、1885年に、幕末、維新の激動の中を風雲児として駆け抜けた弥太郎が病死します。死後、三菱、共同運輸の共倒れを恐れた政府が調停にたち、両社は合併して日本郵船を発足(1885年9月、資本金1,100万円、うち岩崎家出資金500万円)させて、この死闘に終止符を打ちました。

1885年に弥太郎が亡くなったあとは、三菱の重鎮として、岩崎一族には、弥太郎の従弟・豊川良平や近藤廉平(妻が豊川良平の妹)、弥太郎の姪姉妹を妻とした荘田平五郎・各務鎌吉などがいました。

この豊川良平、近藤廉平、荘田平五郎のほかに、末延道成を加えた4人が、弥太郎亡きあとの三菱発展に大いに貢献し、「三菱四天王」と呼ばれました。

弥太郎のあとを受けて三菱総帥となったのが弟の弥之助です。弥之助は三菱の事業を「海から陸へ」と方向転換し、それまで副業としていた高島炭鉱、吉岡鉱山、第百十九国立銀行、長崎造船所、地所、千川水道会社などの発展に力をそそぎ、そのための新組織として「三菱社」を創設しました。

いわばこれが後の財閥形成の基になりました。1893年に三菱合資会社を設立して岩崎家の家産と事業とを分離し、この時点で三菱総帥の地位は兄弥太郎の長男・岩崎久弥が継ぎ、さらに1916年に弥之助の長男・岩崎小弥太に引き継がれ終戦を迎えることになりました。

このように三菱財閥は弥太郎、弥之助の兄弟家系で世襲し、同族で発展したことから、「独裁政治」と言われます。ちなみに三井は「番頭政治」、住友は「法治主義」と言われています。

(2)三菱商会

1874年、三菱商会は本社を大阪から東京に移し、郵便汽船三菱会社と改名を重ねます。同年に勃発した台湾出兵では派遣船の運行会社として指名されたことで政府からの信頼を得ました。

主力事業である海運業においては外国勢力や中小の船会社を徹底的に駆逐して独占的な地位を得ました。

しかし三菱の独占と専横を快く思わない渋沢栄一・井上馨・品川弥二郎らが三菱に対抗できる海運会社の設立を画策、政府の出資も得、三井などの反三菱勢力も結集して1882年7月に共同運輸会社が設立され、翌1883年営業を開始しました。

三菱はいつも通りの値下げ攻勢で共同運輸も潰そうとしましたが、政府の後援のある共同運輸は更なる値下げで対抗。続く2年間はダンピング競争で海上運賃は大幅に安くなりましたが両社は完全に消耗し、守勢に回った三菱は路線や人員の削減で倒産寸前となりました。

さすがに過当競争を見かねた政府が間に入り、1885年に共同運輸との対等合併で日本郵船会社が設立されました。三菱は中心事業である海運業を一時的に失いましたが数年後には人的にも経営の実権を握ることとなりました。

1885年の弥太郎死去後、その弟・弥之助が後を継ぎました。岩崎弥之助は三菱社と改名し1881年に買収した高島炭鉱と1884年に借り受けた官営長崎造船所(後の三菱重工業)を中核として、事業の再興を図りました。

炭鉱、鉱山事業の拡充、1887年の長崎造船所の払い下げとその後の積極的な造船業の拡充、1885年に第百十九国立銀行の買収による銀行業務への本格展開をし、1887年に東京倉庫(後の三菱倉庫)を設立しました。

1893年に商法が施行され、三菱社は三菱合資会社へと改組。同時に弥太郎の長男・久弥が三菱合資の三代目社長に就任。総務、銀行、営業、炭坑、鉱山、地所の各部を設置して分権体制を敷き、長崎造船所の拡張と神戸、下関造船所の新設、麒麟麦酒の設立など、事業がいっそう拡大されました。

1916年に弥之助の長男・小弥太が四代目社長に就任。部長制を廃止し分野別に担当事務理事を置きました。

1917年に三菱造船、三菱製紙、1918年に三菱商事、三菱鉱業、1919年に三菱銀行、1920年に三菱内燃機製造、1921年に三菱電機と次々に分割化していきました。

そして、満州事変から第2次世界大戦にかけて軍需の膨張拡大を背景に三菱の事業は飛躍的に拡大しました。

三菱土佐山内家の家紋岩崎家の家紋

スリーダイヤマークの「三菱」の呼び名の由来は、土佐藩主山内家の家紋の「三つ柏」と岩崎家の家紋三階菱を組み合わせたものでした。

戦前の8大財閥(三菱財閥、三井財閥、住友財閥、安田財閥、浅野財閥、大倉財閥、古河財閥、川崎財閥)の中で唯一創業者の姓を冠さないものとなりましたが、これは新政権の明治政府に奉公するという岩崎の気持ちを表したものだったといわれます。

(3)財閥解体後の三菱

戦後、GHQによる財閥解体政策によって三菱本社、三菱商事は解散となり、三菱重工業、三菱化成が三分割に追い込まれました。

死の床にあった小弥太は「国民としてなすべき当然の義務に全力を尽くしたのであって、顧みて恥ずべき何ものもない」と反駁しましたが、時代の流れに抗う事は出来ませんでした。

当時の模様を三菱合資会社社長の久弥は「すっかり裸になった。土佐の郷里の土地と東京の墓地だけが残った。自分はこれまで長子以外は一族親戚の者も三菱本社に参加させなかったのに(11人もの指名を受けるとは)ヒドイものだ」(岩崎久弥伝)と憤懣やるかたない心情を吐露しています。

しかも下谷の茅町にあった本邸はアメリカ軍に接収され、ついで財産税のために手放したため、久弥は一時その一室を間借りしていました。なお、解体前の三菱財閥の総資産は、現在価値に換算して推定120兆円と考えられています。

「天下の三菱」の基幹産業の一つに不動産があります。「丸の内の大家さん」の如く世界的な超一等地のビジネス街の土地を管理しています。

財閥解体により三菱地所は関東不動産、陽和不動産の二つに分割されました。陽和不動産は丸ビルを中心に皇居と東京駅の間の土地のかなりの部分の所有者でした。1952年、藤網久二郎と田島将光(武部申策の子分)という二人の男が陽和不動産の乗っ取りを仕掛け、ほぼ成功しかけたという衝撃的な事件が起きました。

この「陽和不動産乗っ取り事件」もあって、三菱の再統合は促進されました。1954年に三菱商事が再合同、また、同年には三菱主要企業の会長・社長の親睦と情報交換を目的とした三菱金曜会が始められ、10年後の1964年には三菱重工業も再合同するなど再びグループ化しました。

金曜会は、戦前の三菱本社を頂点とした三菱財閥の復活ではなく、グループ各社による対等なグループ形成です。

ちなみに、住友グループは1949年(正式には、1951年4月)に白水会が設立され、三井グループは、1961年に二木会をそれぞれ設立しています。

三菱グループは、特に戦後の日本の高度経済成長期に、高度成長を担った重化学工業分野に中核有力企業が多いという強みを大いに発揮し、戦後も引き続き、日本を代表する企業グループの一つとして発展しました。

(4)財閥解体後から現在まで

1955年、鳩山一郎内閣は過度経済力集中排除法(昭和22年法律第207号)の廃止法案(内閣提出第42号)を提出しました。衆議院商工委員会委員長田中角栄のもとで審議が行われ、「過度経済力集中排除法等を廃止する法律(昭和30年法律第87号)」が成立しました。

21世紀現在の三菱グループ(金曜会)には三菱商事、三菱重工業、三菱UFJ銀行の「三菱グループ御三家」を筆頭に、多数の日本を代表する企業が名を連ねています。 一部の企業における自衛隊への納入実績の大きさなどから、かつての国防国策会社としてのイメージが現在でも残っています。

高度経済成長からバブル崩壊期までは、例えば、グループの製品を優先的に購入する、グループ内の問題の負担を各社で負担する、など、グループ同士での結束が他の財閥系グループと比べ大変強い面がありました。「「三菱」と名の付く会社の宴会では、キリンビールを出すのが慣例である」との飲食店業界でのジンクスもあった程です。

しかし、バブル崩壊、経済のグローバル化以降は、金融自由化の波の中、グループ間の結束力は外部から思われているほど強くはなくなってきています。むしろ、あまり表に出てこない新財閥グループの方がグループ企業間の結束が強いと見るべきです。従来は川上製品に強く、川下製品に弱いとされてきたイメージがありましたが、そのイメージを払拭すべく、各企業は製品開発および市場開拓に励んでいます。

5.三菱財閥系列の主要企業

・日本郵船

・三菱商事

・三菱重工業

・三菱UFJフィナンシャルグループ

三菱UFJ銀行、三菱UFJ信託銀行

・三菱地所

・三菱マテリアル

・三菱電機

・三菱ケミカルグループ

・三菱自動車工業

・三菱ふそうトラック・バス

・AGC

・明治安田生命保険

・東京海上日動火災保険

・キリンホールディングス

・ニコン