鮎川財閥の創業者鮎川義介とは?日立製作所・日産自動車などを擁する日産コンツェルンを創始。

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鮎川義介

韓流ドラマを見ていると、よく「財閥」の話が出てきますが、日本にも戦前は「財閥」が存在しました。

1.日本の財閥

(1)財閥とは

「財閥」とは、第2次世界大戦終結までの日本における同族支配によるコンツェルン型の巨大な独占企業集団のことです。

つまり、一族の独占的出資による資本を中心に結合した経営形態のことです。

簡単に言うと、大きな財力を持ち、一族・系列でさまざまな分野の企業を独占するような大企業ということになります。

第2次世界大戦後、財閥は解体されましたが、実質的には三井系、三菱系、住友系、安田系などが存続しています。

(2)日本の財閥

日本の財閥の中でも特に規模が大きい3つの財閥(三井・三菱・住友)を、「三大財閥」と呼び、三大財閥に安田財閥を加え、「四大財閥」と分類します。

「四大財閥」を含めて「十大財閥」(*)「十五大財閥(**))と呼ばれる財閥もあります。

(*)十大財閥(「四大財閥」を除く)

・鮎川財閥(創業者: 鮎川義介)

・浅野財閥(創業者: 浅野総一郎)

・古河財閥(創業者: 古河市兵衛)

・大倉財閥(創業者: 大倉喜八郎)

・中島財閥(創業者: 中島知久平)

・野村財閥(創業者: 野村徳七)

(**)十五大財閥(「十大財閥」を除く)

・渋沢財閥(創業者: 渋沢栄一)

・神戸川崎財閥(創業者: 川崎正蔵)

・理研コンツェルン(創業者: 大河内正敏)

・日窒コンツェルン(創業者: 野口遵)

・日曹コンツェルン(創業者: 中野友禮)

2.鮎川財閥の創業者鮎川義介とは

鮎川義介(あゆかわ よしすけ/あいかわ よしすけ)( 1880年~1967年)は、日産自動車・日立製作所などを傘下に収める日産コンツェルンを創始した実業家・政治家です。満洲重工業開発(株)総裁、貴族院議員、帝国石油(株)社長、石油資源開発(株)社長、参議院議員などを歴任しました。

(1)生い立ち

明治13年(1880年)、旧長州藩士・鮎川弥八(第10代当主)をとし、明治の元勲・井上馨の姪として山口県吉敷郡大内村(現在の山口市大内地区)に生まれました。

山口県立山口尋常中学校、旧制山口高等学校を経て、1903年(明治36年)に東京帝国大学工科大学機械科を卒業し、芝浦製作所に入社しました。

出自と学歴を隠して日給48銭の職工(*)となり、現場で2年間、機械製造の基礎となる鋳物作りを学ぶうち、あらゆる技術が西洋の模倣であることに気付き、「日本で学んでいても仕方がない」と移民向けの4等船室で渡米し、約1年強を可鍛鋳鉄工場(グルド・カプラー社)で見習い工として働きました。

(*)当時、東大出の“学士さま”なら、日給40~70円の働き口があったということです。

(2)実業家として

1910年(明治43年)、井上馨の支援を受けて福岡県遠賀郡戸畑町(現・北九州市戸畑区)に戸畑鋳物(株)(現日立金属)を創立し、マレブル(黒芯可鍛鋳鉄)継手を製造しました。 継手の表面が瓢箪のように滑らかであってほしいという思いを込めて「瓢箪印」をトレードマークにし、ヒット製品となりました。

瓢箪印継手瓢箪印・継手

1921年(大正10年)、当時としては珍しい電気炉による可鍛鋳鉄製造開始。1922年(大正11年)、大阪に(株)木津川製作所(桑名)を設立(現在の日立金属三重県桑名工場の前身)しました。

戸畑鋳物から継手営業・商標権、「瓢箪印」の商標を戸畑鋳物(株)から譲渡し、継手を製造。その後、先端的な国産初の電気製鋼に成功していた安来製鋼所(現在の日立金属安来製作所)を吸収合併しました。

1924年(大正13年)には農業用・工業用・船舶用石油発動機の製造販売を開始しました。

1926年(大正15年)、(株)木津川製作所・帝国鋳物(株)(福岡県若松市(現・北九州市若松区))を吸収合併しました。合併後、「東洋一のロール工場」と言われました。

1928年(昭和3年)、義弟・久原房之助の経営する久原鉱業の社長に就任し、同社を日本産業(日産)と改称しました。

久原鉱業は、当時は、第1次世界大戦後の恐慌と久原の政界入りで経営破綻に瀕していました。立憲政友会の田中義一(元陸軍大将)らの再建の懇請に鮎川は渋々応じました。

会社を持株会社に変更し、公開持株会社として傘下に、日産自動車・日本鉱業(同年12月、日本産業に社名変更)・日立製作所・日産化学・日本油脂・日本冷蔵・日本炭鉱・日産火災・日産生命など多数の企業を収め日産コンツェルンを形成しました

1929年(昭和4年) 戸畑鋳物東京製作所(深川)を新設し、自動車用マレブル鋳鉄製造開始しました。同年4月24日、日本産業の鉱業部門が分離独立、日本鉱業(株)を設立しました。

1933年(昭和8年)、自動車工業(株)(現在のいすゞ自動車)よりダットサンの製造権を無償で譲り受け、同年12月ダットサンの製造のために自動車製造株式会社を設立しました。

1934年(昭和9年)、安来製鋼所を吸収合併しました。

(3)満州国へ

1934年(昭和9年)、自動車製造(株)を日産自動車(株)と改称しました。同年『ドイツ系ユダヤ人五万人の満洲移住計画について』と題する論文を発表しました。

「5万人のドイツ系ユダヤ人を満洲国に受け入れ、同時にユダヤ系アメリカ資本の誘致を行うことにより、満洲の開発を促進させると共に、同地を仮想敵国であるソビエト連邦(ソ連)に対する防壁とする構想」を、ユダヤ専門家として知られる陸軍大佐・安江仙弘、海軍大佐・犬塚惟重、関東軍のいわゆる「大陸派」(満洲進出を求めた多くの軍閥)に提案しました(のち「河豚計画」(*)へと展開)。

(*)河豚計画(ふぐけいかく)とは、1930年代に日本で進められた、ユダヤ難民の移住計画のことです。

この計画名は、1938年7月に行われた海軍大佐・犬塚惟重の演説に由来します。ユダヤ人の経済力や政治力を評価した犬塚は、「ユダヤ人の受け入れは、日本にとって非常に有益だが一歩間違えば破滅の引き金ともなりうる」と考えました。犬塚はこの二面性を、美味だが猛毒を持つ河豚に擬えて、「これは河豚を料理するようなものだ」と語ったのです。

これにより、関東軍の後ろ盾を得ました南満洲鉄道(満鉄)の理事だった松岡洋右も、のちに「河豚計画」に参加しました。

1935年(昭和10年)、戸畑鋳物を国産工業(株)に社名変更しました(事業活動の拡大に社名が相応しくなくなったため)。

同年、東京市民に憩の場を提供する目的で伊豆大島に私財を投じて公園を設立しました(後に東京都が買い上げて都立大島公園となりました)。

1937年(昭和12年)、野口遵、森矗昶など当時の「財界新人三羽烏」の一人として、満洲国の経済運営で巨大な満鉄が影響力を持つことを嫌った関東軍の求めに応じ、日本産業を満洲国に移し、満洲重工業開発(株)(満業)として初代総裁・相談役に就任しました。

同時に満洲国顧問・貴族院勅選議員・内閣顧問を兼務しました。当時の満洲国の軍・官・財界の実力者弐キ参スケ」の1人とされました。弐キ参スケとは東條英(関東軍参謀長)・星野直(国務院総務長官)、鮎川義岸信(総務庁次長)、松岡洋(満鉄総裁)です。

鮎川・岸・松岡の3人は「満洲三角同盟」とも称されました。

同年、国産工業と日立製作所が対等合併しました。鮎川が満業立ち上げのため、 以前から関係のあった日立製作所の小平浪平に国産工業の経営を頼んだのです

1939年(昭和14年)頃には白洲次郎らと世界情勢を語り合いドイツと英仏間の戦争は、英仏の勝利との結論を得ました。

関東軍との関係悪化から日産グループの満洲撤退を検討し、1942年(昭和17年)頃に満業の総裁を辞任して副総裁の高碕達之助に交代しました。

1943年(昭和18年)11月17日に藤原銀次郎が東條内閣に入閣すると、五島慶太・鈴木貞一らと内閣顧問に就任しました。

(4)太平洋戦争後

終戦後、日産コンツェルンGHQ(連合国軍総司令部)による「財閥解体」の対象となり、前満洲重工業総裁の肩書を有する鮎川自身準A級戦犯容疑者として20カ月間、巣鴨拘置所に収監されました。

獄中、鮎川は日本の復興策について考えを巡らせ、「カギを握るのは中小企業である」との結論に至りました。

そして容疑が晴れて出獄すると、一転して中小企業の指南役を買って出ました。

1952年(昭和27年)、日産グループ各社の出資を得て中小企業助成会を設立し、会長に就任しました。

以後、中小企業の振興に尽力しました。1953年(昭和28年)、帝国石油社長、石油資源開発社長となり、参議院議員にも当選しました。

1956年(昭和31年)、日本中小企業政治連盟(中政連)を創立し、総裁に就任しました。その後は、主に政治家としての晩年を送りました。

また、同年設立された全国中小企業団体中央会の会長にも就きました。この間、岸内閣経済最高顧問、東洋大学名誉総長や、産業計画会議委員(議長・松永安左エ門)にも就任しました。

1959年(昭和34年)、全国区から参議院に再度当選しましたが、同時に当選した次男金次郎派運動員の選挙違反容疑が高まり、12月に責任をとり議員辞職しました。

(5)死去

1966年(昭和41年)、持病の胆嚢炎を日本医科大学付属病院で手術しましたが、高齢により回復がはかどらず入院が長引きました。

1967年(昭和42年)2月13日、合併症となった急性肺炎のため転院先の駿河台杏雲堂病院にて86歳で死去しました。死没日をもって勲一等瑞宝章追贈、従五位から従三位に叙されました。墓所は多磨霊園にあります。

3.鮎川義介の名言・語録

・事業は創作であり、自分は一個の創作家である

・経験は蓄積されて自分の資本になる

・人生設計の変態方程式

・俺は絶対に金持ちになるまい。だが大きな仕事はしてやろう。願わくは人のよく行いえないで、しかも社会公益に役立つ方向を切り開いていこう

・金持ちが決して幸福なもんではない事を知ってからは、むしろ金持ちにならないで、彼ら以上に羽翼を伸ばしてみたい。その方策はあるまいかと考えるようになったのです

・日本人は労働能率において少しも西洋人に劣るものではない。それどころか、手先の器用さと動作の機敏さそれに頭の良さも加えれば、日本の国土の狭さと人口過密それに天然資源の乏しさを考えれば、農業立国よりも加工工業が向いている。世界無比の万能工業人の趣旨を余るほど授かっている

・努力だけで過去の事業が成功してきたか、というとそうでない。やはりこれに運がプラスされている。しかし、努力のないところには絶対に幸運は来ない

・古来事業をなすには、天の時、人の和といい伝えられているが、これを貫くに至誠をもってしなくては、事業の成功を期することはできない

・適者生存の法則はどこまでも真理である。人類の長い歴史は、ケモノの時代の方が幾万倍長かったであろうから、境遇次第で動物の本性が首をもたげるのも自然の現象と考えなくてはならない

・元来、生物だけが意識を持っていると思うのは人間の錯覚で、神は万物にそれを与えている。それを善用できるのは、愛のつながり以外にはない。金は金を愛する人を慕って集まるが、粗末に扱ったり、貧乏神にまつわられた人には近寄りつかない、たんに紛れ込んでもすぐ逃げていく。それは金に精があるからだ

・ひとつ見込みをつけて事業をやろうとするからには、何事にもまず思い切って調査費を出さなければならぬ。調査費というものは決して無駄にはならぬ。調査費にドッと掛けるその勢いで、できない仕事もついできあがってしまうものだ

・「至誠は天地を揺るがす」ということわざがありますが、人間、至誠に終始すれば、絶体絶命の時にも、必ず強力な支持者が背後に現れ起死回生となるものです。どんな新事業でも創業から数年の間には、必ず危機に遭遇するものでこれは避けられません。危局を打開していくには、経営者の手腕や努力だけで乗り切れると思うのは間違いです

・人間は反発心が大切である。神様はよくしたもので、貧乏人がいつまでも貧乏でないのはこの反発心があるからだ。また金持ちがいつまでも金持ちであり得ないのはなに不自由のない生活が反発心を失わすのである。その点で、世の親というものは、子供の教育を考えなければならない

・人を非難する場合、「お前がこれこれするのは、はなはだ面白くない」という批評家はたくさんある。しかし「それならどうしたらよいか」という対策を用意して、親切に教え得る識者は千人に一人あるかないかである

・日産の場合はデモクラシィを基盤とする独裁であったというのが正しい見方であろう

・民主主義を財界に現す方法として、一番適切なものは公衆株だと思う、、、理想は全株を民主化することによって企業運営の公正化を期すことにある

4.鮎川財閥とは

鮎川財閥は、別名「日産コンツェルン」(「日本産業コンツェルン」の略称)とも呼ばれます。

鮎川財閥は、コンツェルン化した「十大財閥」の一つです。鮎川義介が創設した戸畑鋳物(株)を祖とし、久原鉱業を改組した日本産業(株)を持ち株会社としました

日本産業の主な傘下には、日本鉱業(日立鉱山)グループ、日立製作所グループ、日産自動車グループなどがありました。

戦前では後発の財閥ながら、製造業に関しては三菱、三井などの先行財閥を凌駕する規模の資本を築き上げましたが、金融・商事部門は弱体でした。

終戦後、GHQによる財閥解体の対象となり、そのまま資本の再結集は行われていませんが、春光グループを形成しています

(1)沿革について

井上馨の甥である鮎川義介が、第1次世界大戦後の不況により経営危機になった久原財閥を1920年に引き継いで誕生しました。

軍部の懇願により、鮎川は久原鉱業を中心とした事業再編を断行します。1928年に久原鉱業を「日本産業(株)」に改組しました。この会社は株式公開企業であり、公開にあたって得た資金を元に事業拡大を進めました。

子会社も積極的な株式公開戦略を行い、その資金を元にさらなる事業拡大という戦略を進め、巨大化しました。

中核企業である日本鉱業(現在のENEOSホールディングス)・日立製作所のほか、鮎川が最初に設立していた国産工業(のちの日立金属)やそこから派生した日産自動車などの企業群が持株会社である日本産業の下にぶら下がる構造となりました。

1938年、 政府の要請により日本産業を満洲に移転し、満洲重工業開発(株)に改組しましたが、関東軍との対立のため、国内部門と満洲部門にグループを分割再編します。

国内産業は日本鉱業(のちのENEOSホールディングス)、日産グループ、日立グループなどの企業が並存しました。

第2次世界大戦後、満洲重工業は財閥解体により解散しました。GHQの占領が終了して日本の独立主権が回復し、日本経済立て直しの気運が高まるとともに、当時の日立製作所会長・倉田主税によって旧日産コンツェルン系企業が再結集し、春光グループと呼ばれる企業グループを形成しています。

(2)呼称について

今日「日産」と略される日産自動車は、かつて「日産」と略された日本産業の自動車部門から発足したものです。

このため、元の日本産業と混同が生じています。今日、単に「日産グループ」という場合は日産自動車系列の企業グループのみを指します。

SOMPOホールディングス、ENEOSホールディングス、ニチレイ、日本水産などのように、「日産」「日立」が含まれない社名のグループ企業も多く存在します。

旧日産コンツェルン系企業の主要23社で構成される社長会春光会」(しゅんこうかい)や、グループ会社も含めた春光会の拡大版春光懇話会」が存在します。これらに属する企業を「春光グループ」とも総称します。

春光」とは、元日本鉱業社長(日本産業取締役)で、伊藤博文の養子である伊藤文吉(1885年~1951年)の雅号です。

歴代会長と事務局は伊藤文吉の出身企業である日本鉱業→ジャパンエナジー→新日鉱ホールディングスが発足以来長く担当していましたが、ENEOSホールディングスへの合併の数年後、純血後継企業ではなくなったこともあり、メンバー最大企業の日立製作所へその座を譲っています。

5.鮎川財閥系列の主要企業

・日立製作所

・日本鉱業(現在のENEOSホールディングス)

・日産自動車

・日立金属

・SOMPOホールディングス

・ニチレイ

・日本水産