漢字発祥の国だけあって、中国の「四字熟語」は、人生訓にもなるような含蓄に富んでおり、数千年の悠久の歴史を背景とした故事に由来するものも多く、人類の叡智の結晶とも言えます。
そこで今回は、「時間」を表す四字熟語をご紹介したいと思います。
1.長い時間
(1)永永無窮(えいえいむきゅう)
いつまでも永遠に果てることなく続くさまや、長く続いてきわまりないさまのことです。
また、終わりのない永遠に続く長い時間や、時の果てしなく長いたとえです。
「永永として窮(きわ)まり無なし」と訓読します。
(2)永遠偉大(えいえんいだい)
いつまでも立派なこと。いつまでも変わらずに、すぐれて大きいことです。
(3)永垂不朽(えいすいふきゅう)
名誉や名声、業績などが末長く伝えられ、決して滅びないことです。
「垂」はたれる意から、後世に示し伝えること。「不朽」は名声や業績が朽ち果てない、後世まで伝わり残る意です。
(4)往古来今(おうこらいこん)
綿々と続く時間の流れ。また、昔から今までのことです。
「往古」は過ぎ去った昔。「来今」は今から後。
『淮南子(えなんじ)』斉俗訓(せいぞくくん)では「往古来今、之(これ)を宙と謂(い)い、四方上下、之を宇と謂う」とあり、時間と空間の限りない広がりを述べています。
(5)河山帯礪(かざんたいれい)
永久に変わらない堅い誓約のたとえです。また、国が永遠に栄え安泰であるたとえです。
たとえ広い黄河が帯のように細くなり、高い泰山(たいざん)がすりへって砥石(といし)のように平らになるようなことがあっても、永久に変わることはない意から。
『史記』高祖功臣侯者年表に「封爵(ほうしゃく)の誓いに曰(いわ)く、河をして帯のごとくし泰山をして厲(れい)のごとくならしむるも、国以(もって)永寧にして爰(ここ)に苗裔(びょうえい)に及ぼさん」とあります。
(6)窮年累世(きゅうねんるいせい)
自分自身の一生から、孫子(まごこ)の代に至るまでいつまでもということです。
「窮年」は人の一生涯。「累世」は子々孫々の世代の意です。
「年を窮(きわ)め世を累(かさ)ぬ」と訓読します。
(7)古往今来(こおうこんらい/こおうきんらい)
昔から今に至るまで、昔からということです。
「古往」は昔、いにしえ。「今来」は今に至るまでの意です。
「今来古往(こんらいこおう)」ともいいます。
(8)尽未来際(じんみらいさい/じんみらいざい)
仏教語。未来の果てに至るまで、永遠・未来永劫 (えいごう) のことです。
誓いを立てるときなどに、「永久に」の意で副詞的に用いることがあります。
(9)千秋万古(せんしゅうばんこ)
永遠の歳月、長い長い年月のことです。
(10)兆載永劫(ちょうさいようごう)
限りなく長い時間のことです。
「兆載」は一兆年という意味で、「永劫」は仏教の言葉で、非常に長い時間という意味です。
(11)天長地久(てんちょうちきゅう)
天地の存在は永遠であること、また天地が永久であるように物事がいつまでも続くことのたとえです。平和や長寿、繁栄などがいつまでも続くことを願って使われる言葉です。
「天は長く地は久し」と訓読します。
(12)南山不落(なんざんふらく)
永遠に崩れ落ちないことです。城や要塞などが非常に堅固で、陥落しがたいことを述べた言葉です。
「南山」は中国の長安の南にある終南山(しゅうなんざん)のことです。堅固で崩壊しない物事のたとえに用いられます。「不落」は陥落しないことです。
(13)万古長青(ばんこちょうせい)
永久に変わらないことです(青々としていつまでも変わらない意から)。
「万古」はいつまでも、永久にということです。「長青」は松の葉がいつも青々として、とこしえに変わらないことです。
(14)万世不刊(ばんせいふかん)
長く伝わっていつまでも滅びないこと、永遠に残ることです。
「万世」は永遠・永久の意です。「刊」は削る意で、「不刊」は滅びないこと、磨滅しないことです。
昔は竹や木に漆で文字を書き、誤りや不要な部分は削り消したことからです。
(15)万世不朽(ばんせいふきゅう)
永久に滅びないことです。
「万世」は永遠や永久の意で、「不朽」は永遠に朽ちないことです。
(16)百載無窮(ひゃくさいむきゅう)
永久きわまりなく無限なこと、天地は永遠に不変きわまりないことです。
「百載」は「百歳」に同じで、百年のことです。転じて、永遠に、永久に、長くの意です。「無窮」はきわまりないさま、果てしがないことです。
(17)百世不磨(ひゃくせいふま)
永久に消えずに残ること、いつまでも消滅しないことです。
「百世」は世代が百代もの長い期間・年月の意で、「不磨」は擦り減ってなくなることがないことです。
(18)百代過客(ひゃくだいのかかく)
永久に止まらずに歩き続ける旅人のこと、または年月をたとえた言葉です。
「百代」は途絶えることなく何代も続いていくこと、またはいつまでも続くことのたとえです。
「過客」は旅人のことです。時間や年月をいつまでも歩き続け、帰ることのない旅人にたとえた言葉です。
(19)百古不磨(ひゃっこふま)
ずっと後の世まで滅びずに残ることです。
「百古」は後々の世、非常に長い年月のことです。「不磨」はすり減らない、永久になくならない意です。
(20)不刊之書(ふかんのしょ)
いつまでも伝わり続ける書物、不朽の名作のことです。
「刊」は削るという意味です。紙のない時代には、木や竹に文字を記し、必要の無い部分や誤った部分は削っていたということからです。
(21)不死不朽(ふしふきゅう)
永遠に滅びないことです。
「不死」は死ぬことがないことで、「不朽」はいつまでも滅びずに残ることです。
(22)万劫末代(まんごうまつだい)
仏教語。万世の後、長い長い後の世のことです。
「劫」は仏教語で終わりがないほどの長い時間のことで、「末代」は先の世や後世という意味です。
(23)未来永劫(みらいえいごう)
これから未来にわたる果てしなく長い年月、永遠のことです。
仏教語。「未来」は将来のことで、「永劫」は想像できないほど長い時間を表します。「未来」を添えて意味を強めた語です。仏教では「永」は「よう」とも読みます。
(24)無始曠劫(むしこうごう)
始めがわからないほどの遠い過去・昔のことです。
「無始」はいつが始まりだったかわからないことで、「曠劫」はとても長い過去の年月のことです。
(25)来来世世(らいらいせせ)
(「来世」のそれぞれの字を重ねて意味を強めた語)来世のまた次の来世。生まれかわり死にかわって繰り返される長い未来、または、何度でも繰り返す来世という意味です。
2.貴重な時間
(1)一刻千金(いっこくせんきん)
わずかな時間が千金にも相当する意、時間の貴重なことのたとえです。
貴重な時間、よい季節や楽しいひとときなどが過ぎ去りやすいのを惜しんでいう語です。また、時間を無駄に過ごすのを戒める語です。
「一刻」はわずかな時間。出典は「春宵一刻値千金(しゅんしょういっこくあたいせんきん)」という言葉で、春の夜のひとときが千金にも値するほどすばらしいという意味です。
「千金一刻」ともいいます。
(2)一寸光陰(いっすんのこういん)
ごくわずかな時間のこと、またはほんのわずかな時間も無駄にしてはいけないという戒めの語です。
「一寸」はちょっと・わずかの意で、ごく短いことのたとえです。「光陰」は時間や年月の意です。「光」は昼、「陰」は夜とも、また「光」は日、「陰」は月ともいわれます。
多くは「一寸の光陰軽んずべからず」という慣用句として用いられます。
(3)歳月不待(さいげつふたい)
時間や年月はあっという間に無情に過ぎていき、人の都合などでは待ってくれないので、時を大切にせよという戒めの語
一般に「歳月人を待たず」と用います。出典(陶潜「雑詩」)の「盛年重ねて来たらず、一日再び晨(あした)なり難(がた)し、時に及んで当(まさ)に勉励すべし」に続く句です。
(4)寸陰尺璧(すんいんせきへき)
少し前に進み、進んだよりも多く退くこと。または、利益よりも損害のほうが多いことのたとえです。
「寸」と「尺」は距離の単位で、一尺は十寸と同じです。
「寸陰」はほんの少しの時間、「尺璧」は一尺の大きさがある宝石のことで、一尺の宝石よりも、ほんの少しの時間のほうが大切という意味からです。
(5)尺璧非宝(せきへきひほう)
時間は非常に大切なものであるということのたとえです。
「尺璧」は直径が一尺ほどある宝石で、一尺の直径がある宝石も時間に比べると大した宝物ではないという意味からです。
「尺璧(せきへき)宝(たから)に非ず」と訓読します。
3.あわただしい・一瞬
(1)烏兎匆匆/烏兎怱怱(うとそうそう)
歳月のあわただしく過ぎ去るたとえです。
「烏兎」は歳月・月日の意です。太陽には三本足のからすが棲んでおり、月にはうさぎが棲んでいるという古代中国の伝説によります。「匆匆」は急ぐさま、あわただしいさまです。
(2)騏驥過隙(ききかげき)
一瞬の出来事のことです。または、時の経過が非常に速いことのたとえです。
「騏驥」は一日で千里を走りきるといわれる駿馬で、「過隙」は戸の隙間の向こう側をすっと走り抜けることです。
戸の隙間の向こう側を走り抜ける駿馬の姿を見ることができるわずかな時間という意味からです。
元は人の命のはかなさや短さを嘆いた言葉です。
(3)光陰如箭(こういんじょせん)
月日のたつのが早いことのたとえです。
「光陰」は、太陽と月のことから、月日・年月・長い時間の意で、「箭」は矢のことです。長い時間が矢のように通りすぎてしまうという意から。
「光陰箭(や)の如(ごと)し」と訓読します。
(4)光陰流転(こういんりゅうてん/こういんるてん)
あっという間に時間が過ぎていくことです。
「光陰」は太陽と月、昼や夜や月日などの時間のことで、「流転」は次から次へと移り変わることです。
(5)日月逾邁(じつげつゆまい)
月日が過ぎていくこと、または驚くほど早く老いていくことです。
「日月」は時、時間のことで、「逾邁」は経過するや、過ぎていくという意味です。
(6)兎走烏飛(とそううひ)
歳月のあわただしく過ぎ去るたとえ、月日の速く過ぎるたとえです。
「烏」は日(太陽)、「兎」は月を意味し、転じて、月日・歳月のたとえです。太陽に三本足のからすがすみ、月にうさぎがすむという中国古代の伝説に由来します。
「烏飛兎走」ともいいます。
(7)俯仰之間(ふぎょうのかん)
わずかな時間、つかのまのことです。
「俯」は、うつむくことで、「仰」は、あおむくことです。うつむいてあおむく間の時間の意で、ほんのわずかな時間のことです。
(8)露往霜来(ろおうそうらい)
露が降りる秋の季節が去って、霜の降りる冬の季節が到来する意で、転じて、時の過ぎるのが早いたとえです。
「露往(ゆ)き霜来(きた)る」と訓読します。
本来は、獣の肉付きがよくなる時期を表現した言葉です。
4.無常・はかない
(1)一栄一辱(いちえいいちじょく)
人は社会の状況などによって、栄えることもあれば、恥辱にまみれることもあることです。栄えているときは戒めとして、衰えているときは慰めの語として用います。また、人の世のはかなさをいいます。
「辱」ははずかしめを受けることで、「一」はあるときは、の意です。
(2)役夫之夢(えきふのゆめ)
人生の栄華や栄光は夢のように儚いということのたとえです。
「役夫」は使用人のことです。昼間は主人にこき使われている使用人が「夜は夢の中で王になって楽しんでいるから平気だ」と言ったという故事が由来です。
(3)薤露蒿里(かいろこうり)
「薤露」「蒿里」は葬送のときにうたわれた挽歌(ばんか)の名で、転じて、人の命のはかないことのたとえです。
「薤露」は、にらの上におりた朝露の意です。乾きやすく落ちやすいことから、人の命のはかなさのたとえです。
「蒿里」はもと中国山東省の泰山の南にある山の名で、人が死ぬとその魂がここに来るとされます。転じて、墓地の意です。
秦末の田横(でんおう)が漢の高祖劉邦に仕えるのを恥じて自殺したとき、悲しんだ門人が作ったという二編の楽府の詩に基づきます。
(4)華胥之国(かしょのくに)
良い夢のこと、または昼寝のことです。
「華胥」は夢の中にある理想郷です。
中国の伝説の聖天子の黄帝は、昼寝をしていると華胥という国に行く夢を見ました。
華胥では、人民に不満などが何も無く、理想的な政治が行われていました。
夢から覚めた黄帝は、その国を見習った政治をすると自国をうまく治めることができたという故事に由来します。
(5)華胥之夢(かしょのゆめ)
昼寝のこと。または、よい夢のことです。
(6)邯鄲の夢(かんたんのゆめ)
人生の栄枯盛衰のはかないことのたとえです。一炊 (いっすい) の夢。盧生の夢。邯鄲の枕。
盧生 (ろせい) という青年が、邯鄲で道士呂翁から枕を借りて眠ったところ、富貴を極めた五十余年を送る夢を見ましたが、目覚めてみると、炊きかけの黄粱 (こうりょう) もまだ炊き上がっていないわずかな時間であったという「枕中記」の故事に由来します。
(7)槿花一日(きんかいちじつ)
人の世の栄華のはかなさのたとえです。
「槿花」は、ムクゲの花のことです。ムクゲの花は朝に咲いて、夕方には散ってしまうことから、はかないことのたとえです。
白居易「放言」の「松樹(しょうじゅ)千年、終(つい)に是(こ)れ朽ち、槿花一日、自ら栄(えい)を為す」に由来します。
(8)枯魚銜索/故魚銜索(こぎょかんさく)
親が生きている間に孝行すべきであるという教えです。
「枯魚」は魚を干したもので、「銜索」は縄を通すことです。
魚の干物は腐らずに長く持ちそうに見えるが、すぐに虫に食われてしまうことから、一見元気に見える親も、いつ死んでしまうか分からないということです。
「枯魚索(なわ)を銜(ふく)む」と訓読します。
(9)生死不定(しょうじふじょう)
いつ生まれて、いつ死ぬのかは、わからないということです。
また、仏教の言葉としては、人生は、はかなくむなしいものだという意味です。
(10)生死無常(しょうじむじょう)
仏教語。人生ははかなく、無常であるということです。
(11)盛者必衰(じょうしゃひっすい)
この世は無常であり、勢いの盛んな者もついには衰え滅びるということです。この世が無常であることをいいます。
仏教語。「盛者」は「しょうじゃ」「しょうしゃ」とも読みます。『平家物語』の冒頭の「…沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらわす」の句は有名ですね。
(12)生者必滅(しょうじゃひつめつ)
この世に生を受けた者は、必ず滅び死ぬものであるということで、人生の無常をいいます。
仏教語。「生者必滅、会者定離(えしゃじょうり)は世の習い」(『平家物語』)のように、会者定離と対にして用いられることも多い言葉です。
(13)諸行無常(しょぎょうむじょう)
この世の万物は常に変化して、ほんのしばらくもとどまるものはないことで、人生の無常をいう仏教の根本的な考えです。
仏教語。「諸行」は因縁によって生じた、この世の一切の事物です。
(14)人生如夢(じんせいじょむ)
人の一生が儚いことのたとえです。人の一生は夢のように消えてしまいやすいということから。
「人生夢の如(ごと)し」と訓読します。
(15)人生朝露(じんせいちょうろ)
人の一生は、朝日が射せばすぐに消えてしまう露のようにはかないということです。
(16)雪泥鴻爪(せつでいこうそう)
行方がわからないこと、あとには何も残らないということです。また、はかない人生のたとえとしても使われます。
雪解けのぬかるみの道には、鴻(おおとり)の足跡も残らないという意味から。
「雪泥」は、雪解けのぬかるみで、「鴻爪」は、オオハクチョウの爪の跡のことです。
(17)川上之歎(せんじょうのたん)
無常に過ぎ行く時間への嘆きです。過ぎた歳月は、川の水と同じで、二度と元へは戻らないということです。
(18)朝盈夕虚(ちょうえいせききょ)
人の一生が儚いことのたとえです。
「盈」は満ちるという意味で、「虚」は「盈」の対語になる言葉で、空になるという意味です。朝に繁栄したものが夕方には滅びるという意味から。
(19)朝開暮落(ちょうかいぼらく)
人の一生は儚いということのたとえです。
朝に咲いた花が夕方に散るという意味から。
(20)朝生暮死(ちょうせいぼし)
生命のきわめて短いこと、人生のはかないことのたとえです。
かげろうの類などが朝に生まれて夕べには死ぬことから。
「朝(あした)生まれて暮れに死す」と訓読します。
(21)朝有紅顔(ちょうゆうこうがん)
人の一生は変わりやすく、儚いことのたとえです。
「紅顔」は色つやのよい顔ということから、若い人のたとえです。
「朝(あした)に紅顔有りて夕べに白骨となる」を略した言葉で、朝に若者だった人が、夕方には死んで白骨になるという意味から。
(22)東岱前後/東黛前後(とうたいぜんご)
人の命は儚いものであるということです。
「東岱」は中国の山の泰山の別名です。泰山は死者の魂が帰り着く場所とされていたことから、人が死ぬことのたとえです。
「前後」は前後が定まっていないことです。泰山に立ち上る煙のように不安定ということから、生き死にが定まっていないことのたとえです。
(23)南柯之夢(なんかのゆめ)
世の中の栄枯盛衰がはかないことのたとえです。
「柯」は、木の枝という意味で、「南柯」は、南側にある木の枝のことです。
「中国唐の時代、淳于棼(じゅんうふん)という人が酔って自宅にある槐(えんじゅ)の木の下で居眠りをし、次のような夢を見た。二人の使者に迎えられて大槐安国(だいかいあんこく)という国に行き、王から重用されてその娘と結婚し、やがて高官となり栄華をきわめた。目覚めてから調べてみると、大槐安国は実は槐の木に穴を開けた蟻の巣であった」という物語が由来です。
(24)飛花落葉(ひからくよう)
絶えず移り変わるこの世の、無常なことのたとえです。春に咲く花も風に吹かれて散り、青葉もやがて枯れ落ちる意から。
(25)浮雲朝露(ふうんちょうろ)
頼りなくはかないもののたとえ、または時の切迫していることの形容です。
「浮雲」は空に浮かぶ雲で、頼りなく定まらないたとえです。また、確かでないことのたとえです。「朝露」は朝おりる露で、すぐに消えるはかないもののたとえです。
(26)浮生若夢(ふせいじゃくむ)
人の一生は儚いということです。
「浮生」は儚い人の一生のことで、「浮生は夢の若(ごと)し」と訓読します。
(27)蜉蝣一期(ふゆうのいちご)
人生の短くはかないことのたとえです。
「蜉蝣」は虫の蜉蝣(かげろう)で、「一期」は一生のことです。蜉蝣は朝に成虫になり、夕方には寿命で死ぬといわれているということから、儚いもののたとえです。
(28)泡沫夢幻(ほうまつむげん)
人生のはかないたとえです。水のあわと夢まぼろしの意から。
「泡沫」はあわ・あぶくの意です。「夢幻泡沫」ともいいます。
(29)夢幻泡影(むげんほうよう)
人生や世の中の物事は実体がなく、非常にはかないことのたとえです。
仏教語。「夢」「幻」「泡」「影」はいずれも壊れやすく、はかないもののたとえです。「影」は「えい」とも読みます。
(30)無常迅速(むじょうじんそく)
現世の物事の移り変わりがきわめて速く、むなしいものであるさまです。転じて、人の一生は短く、死期が思い掛けず早く訪れることのたとえです。
仏教語。「無常」はあらゆるものは生死を繰り返し、永久不変のものは一切ないということで、「迅速」はきわめて素早いさまです。
(31)老少不定(ろうしょうふじょう)
人間の寿命がいつ尽きるかは、老若にかかわりなく、老人が先に死に、若者が後から死ぬとは限らないことです。人の生死は予測できないものだということです。
人生の無常をいう仏教語。「不定」は一定しないこと、決まった法則や規則がないことです。「少」は若い意。
5.時間に伴う変化
(1)往事渺茫(おうじびょうぼう)
過ぎていった昔のことは、遠くかすんではっきりとしないということです。
「往事」は過ぎ去った過去のことで、「渺茫」ははるか遠い様子や広くて果てしない様子のことです。
なお、混同しやすい言葉に「往事茫茫(おうじぼうぼう)」がありますが、これは過去を振り返ってみても、記憶がはっきりせずとりとめのないさまを表す言葉です。
(2)隔世之感(かくせいのかん)
時代がすっかり変わってしまったなという実感、世情が移り変わったという感慨を表す言葉です。
「隔世」は時代が異なることです。
(3)今昔之感(こんじゃくのかん)
今と昔を思い比べて、その変化の大きさをしみじみと感じることです。
(4)十年一昔(じゅうねんひとむかし)
世の中の移り変わりが激しいことのたとえです。十年という年月を区切りとして、それ以前は昔のように思われるということです。
(5)世運隆替(せうんりゅうたい)
世の中のなりゆきが、時代が移るに従い、盛んになったり衰えたりすることです。
「世運」は時代のなりゆき、世の回り合わせのことで、「隆」は盛んになること、「替」はすたれる、衰えることです。
(6)滄海桑田(そうかいそうでん)
世の中の変化が著しく激しいことです。青い海が桑の畑になるという意から。
(7)東海揚塵(とうかいようじん)
世の中の変化が激しいことのたとえです。
東にある大きな海が陸地になって、土ぼこりが立つという意味から。
「東海塵(ちり)を揚(あ)ぐ」と訓読します。
(8)念念生滅(ねんねんしょうめつ)
仏教語。一切の事象が時々刻々に、生じたり滅したりしていることです。
(9)万物流転(ばんぶつるてん)
この世にあるすべてのものは、絶え間なく変化してとどまることがないということです。
(10)物換星移(ぶっかんせいい)
世の中が移り変わることです。物事は変わり、歳月が過ぎゆく意から。
「物換」は物事が変わることで、「星移」は歳月が過ぎることです。「星」は歳月の意。
「物換(かわ)り星移る」と訓読します。
(11)物是人非(ぶつぜじんぴ)
自然の景色は変わっていなくても、同じ場所に住んでいる人は変わってしまうということです。
昔の知り合いがいなくなってしまったことをいう言葉です。
「物是にして人非なり」と訓読します。