前に「ギリシャ悲劇とは何か?」という記事を書きましたが、古代ギリシャには「三大悲劇詩人」(三大悲劇作者)と呼ばれる傑出した詩人(アイスキュロス・ソポクレス・エウリピデス)がいました。
そこで今回は、ソポクレスについてわかりやすくご紹介したいと思います。
1.ソポクレスとは
ソポクレス(ギリシャ語: Σοφοκλῆς, Sophoklēs, ソポクレース、紀元前497/6年頃~406/5年頃)は、現代まで作品が伝わる古代ギリシャの三大悲劇詩人の一人です。ソポクレスは生涯で120編もの戯曲を制作しましたが、殆どが散逸し、完全な形で残っているものは7作品にすぎません。
また、ソポクレスは、脇役を加えることにより、プロットを説明するにあたってコロスが担っていた重要性を低下させたという点で、作劇法の発展に影響を与えました。また、アイスキュロスなどの先行する詩人たちから、登場人物を大きく発展させました。
ソポクレスは、ソフォクレスと表記する場合もあります。
2.ソポクレスの生涯
ソピロスの息子、ソポクレスは、アッティカのヒッペイオス・コローノスという集落(デーモス)の富裕な一市民でした。この集落は後にソポクレスの劇作における舞台にもなりました。彼自身、この集落の生まれであると考えられています。
ソポクレスが生まれた年は紀元前490年の「マラトンの戦い」の少し前、紀元前497年か496年頃と推測されますが正確な年は不明です。
父のソピロスは防具製作の職人であり、一家は裕福でした。ソポクレスは高い教養を身につけ、紀元前468年のディオニューシア祭の悲劇コンテストで初めての優勝を手にしました。このときは当時のアテーナイの悲劇詩人の間で指導的立場にあったアイスキュロスを下しての栄冠でした。プルタルコスによると、このときの勝利は異様な雰囲気の中、もたらされたということです。
『対比列伝』中の「キモン伝」によると、籤で選ばれた市民が選考する慣習によらず、アルコン(執政官)がコンテストの勝者を決めるために集まったキモンとストラテゴイに諮りました。アイスキュロスはこのコンテストにおける敗北のすぐあとにシチリア島へ旅立ち、そこで客死したということです。しかし、少なくとも客死したというのは誤伝で、彼はその後10年間はアテーナイで悲劇を制作し続けました。
また、プルタルコスの伝えるエピソードにかかる作品が処女作であったということも現代では疑問が呈されています。ソポクレスの処女作は、おそらく紀元前470年のディオニューシア祭で上演された悲劇(その中の一つは『トリプトレモス』)のどれかです。
紀元前480年、「サラミスの海戦」におけるギリシアのペルシアに対する勝利を祝う際に、ソポクレスは神に祈りの歌を捧げる合唱隊パイオンの先導者に選ばれました。
ソポクレスの創作活動の初期においては、政治家のキモンがパトロンについていた可能性があります。しかし、キモンのライバルだったペリクレスがソポクレスに悪意を抱いたことは一度もありませんでした。キモンが紀元前461年に陶片追放を受けたときもソポクレスに影響はありませんでした。
紀元前443年から442年にかけて、ソポクレスは「アテーナイの宝」とも呼ばれるヘッレーノタミアイという役職(デロス同盟の財務職)に就き、ペリクレスが政治的に絶頂期にあった時期のポリスの財政運営を手伝いました。
『ウィタ・ソポクリス』(Vita Sophoclis、ソポクレスの生涯)という書物によると、ソポクレスは紀元前441年にアテーナイの行政をつかさどる十人の将軍の一人に選ばれ、ペリクレスの若き同僚になり、アテーナイ軍のサモス島への遠征に従軍したということです。
この地位は、ソポクレスの制作した『アンティゴネー』上演の成功がもたらしたものと考えられています。
紀元前420年にソポクレスは自分の家にアスクレーピオス神の祭壇を整え、同神を迎えました。この儀式により、医神アスクレーピオスはアテーナイに導かれたため、アテーナイ市民はソポクレスが亡くなると彼贈りましたに「デクシオン」(Dexion)、「迎え入れる者」という諡号を贈りました。
ソポクレスはまた、紀元前413年に、「ペロポネソス戦争」期間中に、シチリア島へ向かったアテーナイの遠征軍が壊滅したことに対応する事務官(プローブロイの一人)に選ばれました。
ソポクレスはレーナイア祭やディオニューシア祭の期間中にアテーナイで開催される悲劇のコンテストで、50年近くのあいだ最も賞賛された作家でした。コンテスト参加30回のうち、1位の栄冠を手にしたのが18回、残りはすべて次点です。3位以下には一度もなりませんでした。
ソポクレスは紀元前406年から405年にかけての冬の時期に、90歳か91歳で亡くなりました。対「ペルシア戦争」におけるギリシアの勝利と、ペロポネソス戦争における悲惨な流血とを、その目で見てきた生涯でした。
3.ソポクレスにまつわるエピソード
高齢になったソポクレスについては、次のようなエピソードがあります。
ソポクレスは非常な高齢になっても悲劇を作り続けました。劇作に熱中するあまり、家政を疎かにするように見えたので、息子たちは彼を「呆(ぼ)け老人」(認知症)として家政から引き離してもらおうとしました。当時ギリシアのアテネでは、ちゃんと家の管理ができない父親は、「禁治産者宣告」を受けることになっていたので、息子たちは裁判所に訴え出ました。
しかし息子たちのこの仕打ちに対し、ソポクレスは最近書き終えたばかりで未提出だった作品『コロノスのオイディプス』を裁判官に向かって朗読し、この詩(劇)が呆け老人の作と見えるか?と尋ねたそうです。
この朗読の結果、裁判長の判決によって彼は禁治産者にならずに済みました。この話は、ローマのキケロの書いた『老年について』に出てきます。
古典古代の有名人の死の多くがそうであるように、ソポクレスの死にも数多くの、真偽不詳の尾ひれ羽ひれがつけられました。
ソポクレスは自作『アンティゴネー』中の長いセリフを、息継ぎせずに朗誦しようとして絶命したという説がその最たるものです。
その他にも、ソポクレスは、アテーナイでアンテステーリア祭が行われているさなか、食事中に葡萄をのどに詰まらせて亡くなったとも、ディオニューシア祭において最優秀の誉れを受けたところ、あまりの幸福ゆえに亡くなったとも言い伝えられています。
ソポクレスが亡くなった数ヵ月後、ある喜劇詩人は『詩神たち(ムーサイ)』と名づけた自作の中で、次のような口上を述べてソポクレスの死を悼みました。
ソポクレスに祝福あれ!かの御仁は長生きし、幸せと才能に恵まれ、多くのよき悲劇を書いた。不運に苦しむことなく、首尾よく人生を終えた。
一方で、ソポクレスは晩年に耄碌したとして、後見人を必要とする宣言をするよう息子たちから迫られたとも伝えられています。老詩人はこれに対して、法廷で当時未発表の自作『コローノスのオイディプース』の一節をそらんじてみせることによって反駁したと言われています。
キケロはこのエピソードを『老年論』の中で詳しく語っています。なお、ソポクレスの息子の一人イオポーンや、孫のソポクレス(祖父と同名)もまた、劇詩人になりました。
4.ソポクレスの現存する作品
三大悲劇詩人の残りの二人はアイスキュロスとエウリピデスですが、ソポクレスの処女作はアイスキュロスのそれよりも遅くに書かれ、エウリピデスのものより早く、もしくは同時代に書かれました。
完全な形で現存している作品は、次の7作です。
(1)『アイアース』
文字通り、トロイア戦争におけるギリシア側の武将の一人であるサラミス王アイアースを題材とした作品であり、オデュッセウスと共にアキレウスの遺体を確保した彼が、アキレウスの武具分配の審判でオデュッセウスに敗れ、正気を失って家畜を屠り、挙句に自死する様、そして従兄弟のテウクロスやオデュッセウス等がそれを弔う様を描いています。
上演年代は分かっていませんが、現存するソポクレスの7作品の中では最古のものであるという見解が一般的です。
(2)『アンティゴネー』
オイディプスの娘でテーバイの王女であるアンティゴネーを題材としています。
内容はソポクレスがテーバイ王家を題材に書いたほかの2作(『オイディプス王』『コロノスのオイディプス』)の後、アイスキュロスの『テーバイ攻めの七将』に続く時間軸の物語です。
(3)『トラキスの女たち』
題材はヘーラクレースの最後についてです。ヘーラクレースの妻デーイアネイラが待つトラーキースの屋敷に、ヘーラクレースに滅ぼされたオイカリヤの女たちが捕虜として連れてこられますが、ある男がデーイアネイラに事の真相(ヘーラクレースがオイカリヤ王の娘イオレーに恋をし、彼女を手に入れるためにオイカリヤを滅ぼし、彼女を家に住まわせるために捕虜という体裁を採っている)を暴露し、伝令のリカースもそれを認めます。事態を憂いたデーイアネイラは、浮気防止薬と教えられていた「ネッソスの血」を塗った晴れ着をヘーラクレースに届けさせますが、「ネッソスの血」は実際は「ヒュドラー(水蛇)の猛毒」であり、ケーナイオン岬の戦勝感謝の供犠で晴れ着を着たヘーラクレースは死の病に倒れます。事の成り行きを息子ヒュロスから聞いたデーイアネイラは自死し、ヒュロスは父ヘーラクレースに自分の代わりにイオレーを娶ることを命令されつつ、その最後を看取る様を描いています。
表題の「トラキスの女たち」は、舞台となっているヘーラクレースの屋敷があるトラーキースの女たちであり、舞台進行ではコロス(合唱隊)の役割を担います。
上演年代は分かっていませんが、『アイアース』『アンティゴネー』と共に、初期の作品だと考えられます。
(4)『オイディプス王』
テーバイの王オイディプスの物語を題材としています。ギリシャ悲劇の最高傑作であるのみならず、古代文学史における最も著名な作品であり、後世に多方面にわたって絶大な影響をもたらしました。
ソポクレスにはテーバイ王家に材をとった作品が他に2つ現存しています。すなわちオイディプスの娘が登場する『アンティゴネー』と最晩年の作品である『コロノスのオイディプス』です。
これらを総称して「テーバイ三部作」と言いますが、これらは本来の意味での三部作ではなく、別々の機会に書かれたと現在の研究では一般に考えられています。
テーバイの王オイディプスは国に災いをもたらした先王殺害犯を追及しますが、それが実は自分であり、しかも産みの母と交わって子を儲けていたことを知るに至って自ら目を潰し、王位を退くまでを描いています。
その包み隠すことなき直線的な演劇手法は、アリストテレスの『詩学』をはじめ古くからさまざまな演劇論で悲劇の傑作として評価されてきました。
男子が父親を殺し、母親と性的関係を持つというオイディプス王の悲劇は、フロイトが提唱した「エディプスコンプレックス」の語源にもなりました。
本作の初演時の題名は単に『オイディプス』で、「王」は後に別作『コロノスのオイディプス』と区別するために付けられたか、あるいは本作がギリシア悲劇の最高傑作だという評価から特に付けられたする説が多くの研究者によって支持されています。
しかし本作が初演されたディオニューシア祭では優勝を逃し2位に終わっています。その理由としては、『オイディプス』は4部作の一部として上演されたが全体としてのまとまりを欠いた、あるいは何らかの理由で台本に相応しい上演ができなかったなどの説が古来提唱されていますが、このとき上演された他の作品はことごとく散逸していますので推測に留まります。
(5)『エレクトラ』
執筆された年は不明ですが、『ピロクテテス』(紀元前409年)や『コロノスのオイディプス』(紀元前401年)と様々な文体上の共通点を有しており、このため後期の作品ではないかと考えられています。
トロイア戦争後のアルゴスの街を舞台とし、エレクトラとその弟オレステースが、母であるクリュタイムネストラと継父アイギストスに対して父アガメムノン殺害の復讐を果たす物語です。
本作の他に同じくミケーネの王アガメムノンの娘エレクトラを主役にしたエウリピデスの作品と、同じ伝説を扱っていますがアガメムノンの息子のオレステースを主役に据えたアイスキュロスの作品があります。
王であるアガメムノンがトロイア戦争から帰還し、側女としてカッサンドラーを連れて帰ってきました。アガメムノンの妻クリュタイムネストラは夫のいとこであるアイギストスを恋人としており、アガメムノンを殺害します。クリュタイムネストラは戦争がはじまる前にアガメムノンが娘のイーピゲネイアを神々の命に応じて生け贄として殺したため、その復讐として夫殺しは正当であると信じていました。アガメムノンとクリュタイムネストラの娘エレクトラはまだ小さい弟オレステスを母の手から救い、フォキスのストロフィオスのところに預けます。この芝居は、大人の男性となったオレステスが復讐を行い、王位を要求するつもりで数年後に帰ってくるところから始まります。
トロイア戦争から帰還したアガメムノンは妻のクリュタイムネストラとその情夫アイギストスによって暗殺されました。劇は暗殺されたアガメムノンの墓前にアガメムノンの遺児オレステスが現れるところから始まります。オレステスは従者に、デルフォイの神託所でアポロンから授けられた策を説明し、二人はそれを実行に向かいます。
オレステスが退場するのに代わってエレクトラが登場。アガメムノンの死やオレステスの不在を嘆きます。そこにエレクトラの妹クリュソテミスや母クリュタイムネストラが現れる。エレクトラと彼女らが口論したのち、使者がオレステスが競技中に事故死したとの知らせを持ってきます。知らせを聞いたクリュタイムネストラやクリュソテミスは勝ち誇りながらその場を去ります。残されたエレクトラが嘆いていると、そこにオレステスが現れ、先の知らせがアポロンの策による偽報なのだと説明します。
策を知らされたエレクトラはオレステスと協力してクリュタイムネストラを殺害。さらに偽報を聞いてやってきたアイギストスも捕らえて屋敷の中に引き立てていきます。コロスが二人の勝利を称えながら劇は終わります。
(6)『ピロクテテス』
文字どおり、トロイア戦争期のピロクテテスを題材としています。
ヘーラクレースの弓の持ち主であるメーリスの王の子ピロクテテスは、トロイアへ向かう途中、レムノス島付近で毒蛇にかまれ、その悪臭と悲鳴を嫌がったオデュッセウスらによって、レムノス島に置き去りにされてしまいました。しかしトロイア戦争が始まって10年目、オデュッセウスが捕まえたトロイア王子ヘレノスが、
- スキロス島にいるアキレウスの子ネオプトレモスが、アキレウスの鎧をまとって戦う
- レムノス島にいるピロクテテスが、自ら進んでヘーラクレースの弓で戦う
という2つの条件が満たされれば、トロイアは陥落し、ギリシア側が勝利すると予言しました。この予言を成就すべく、オデュッセウスがネオプトレモスを伴ってレムノス島に赴き、ネオプトレモスにピロクテテスの説得を行わせる場面が、本作で描かれます。コロス(合唱隊)はそれに付き従うネオプトレモスの部下で構成されます。
紀元前409年の大ディオニューシア祭で上演され優勝しています。
(7)『コロノスのオイディプス』
テーバイのかつての王オイディプスが放浪の末アテナイ近郊のコロノスの森にたどり着いたところから始まり、オイディプスの死に到るまでを描きます。
運命に翻弄されたオイディプスは予言に従って復讐の女神エウメニデスの聖林に導かれ、そこを自らの墓所として望み、アテナイ王テセウスもこれを認めました。そしてこれを阻もうとする息子ポリュネイケスやテーバイの現在の王クレオンにもかかわらず、オイディプスはテセウスのみが見守る中、コロノスの地中深く飲み込まれていきます。
なお、ソポクレスの現存作品では、
- 『オイディプス王』(紀元前429年 – 紀元前425年ごろ)
- 『コロノスのオイディプス』(紀元前401年)
- 『アンティゴネー』(紀元前441年ごろ)
の3作品がテーバイ王家の悲劇として密接な関連があり、時に三部作として扱われますが、上記のように成立年代からして話の順序とは一致せず、アイスキュロスが好んだとされる三部作形式とは異なるものです。
5.ソポクレスの断片のみが残る作品
ソポクレスに関連付けられている詩劇の数は、120作品を越えますが、いつごろ制作されたものであるかわかっている作品はほとんどありません。
『ピロクテテス』は前409年に書かれたことが知られています。また、『コロノスのオイディプス』は前401年に上演されたことがあることだけがわかっています。上演時にソポクレスは既に亡くなっており、その上演はソポクレスの孫の成人の儀式における出来事でした。
古代ギリシアの祭祀のために詩劇を書く場合、三つの悲劇に一つのサテュロス劇(*)を添えて一組の四部作として奉呈するのが慣わしでした。
(*)「サテュロス劇」とは、ギリシア神話の神ディオニューソスの従者といわれるサテュロスから成るコロス(合唱隊)を伴う滑稽な劇のことです。
大多数の作品の制作年代が不明であることに伴い、それらが、どの作品と組み合わされて一組となっていたのかがわからなくなっています。もっとも、テーバイに関する三作品が、ソポクレスの生前まとめて上演されたことはないことは確実です。
『イクネウタイ』(追いかけるサテュロスたち)の断片は、エジプトで1907年に発見されました。オクシュリュンコス・パピュロスと呼ばれる古文書群から見つかった『イクネウタイ』の断片を集めると全体の半分程度になりました。
サテュロス劇はほとんどすべてが失われ、完全な形で残っているのはエウリピデスの『キュクロープス』だけです。新発見のソポクレスの作品の断片は、『キュクロープス』に次いで、最も多くの詩句が伝わるサテュロス劇です。
オクシュリュンコス・パピュロスからは悲劇『エピーゴノイ』の断片も見つかりました。肉眼では読めなくなっていたパピュロスに赤外線を照射し、その反射スペクトラムを得るという衛星写真など宇宙技術で培われた技術を利用して失われた数行を再現することに成功しました。
『エピーゴノイ』の内容は、二度目のテーバイ攻めの物語です。
6.ソポクレスの作風
ソポクレスは、全般的には悲劇の形式的伝統の忠実な継承者でしたが、数々の作劇上の新機軸を演劇にもたらしました。
彼が最初に試みたことは、三人目の演者の導入でした。この発明はギリシア演劇におけるコロス(合唱隊)の役割を大幅に減じ、物語の展開と登場人物同士のぶつかり合いの表現の可能性を開く大きなきっかけとなりました。
ソポクレスが脚本を書き始めたころアテーナイの劇作界に大きな影響を及ぼしていたアイスキュロスでさえもソポクレスの後に続き、晩年に向けて自作に三人目の演者を登場させる構成になっていきました。
また、三部作形式による劇の構成法を実質的に捨てて、同時上演の三つの劇をそれぞれ完結した独立の作品としました。
これによって、劇中の出来事のテンポを早め、構成を緊密化し、劇中でのコロス(合唱隊)の占める割合を減少させました。しかし合唱隊は、割合が少なくなった分、内容が凝縮され、踊り場における歌舞のコントラストを鮮明にし、劇全体の効果を高めることが期待されました。
アリストテレスは「スケノグラピア(skenographia)」(書割り)と呼ばれる背景美術ないし舞台美術を最初に導入した人物がソポクレスであるとしています。
巨匠アイスキュロスが紀元前456年に亡くなった後、ソポクレスはアテーナイで最も卓越した悲劇詩人となりました。
これ以後、ソポクレスは悲劇コンテストで勝利を重ね、ディオニューシア祭で18回、レーナイア祭で6回、優勝しました。
ソポクレスの作品は構成上の革新に加え、登場人物たちの掘り下げ方に、従来の悲劇詩人たちよりも深いものがあることが知られています。
ソポクレスの名声は遠く異国にまで聞こえ、宮廷への出仕の誘いが一再ならずありましたが、シチリアで亡くなったアイスキュロスやマケドニアで暮らしたエウリピデスとは異なり、ソポクレスはこの種の誘いをすべて断りました。
ソポクレスの作品『オイディプス王』は、アリストテレスが『詩学』の中で、悲劇における最高傑作の一例として挙げており、ソポクレス作品が後世のギリシア人にも高く評価され続けていたことがわかります。
現代まで伝わる7作のうち、制作年代がわかっているのは、『ピロクテテス』(前409年)と『コロノスのオイディプス』(前401年、ソポクレスの孫が亡くなった後に上演された)の2作だけです。
その他の作品については、『エレクトラ』が上記二作と様式上の類似を見せていることから、おそらく同時期、ソポクレス晩年の作でしょう。同様に様式上の要素を検討したところによると、『アイアース』、『アンティゴネー』、『トラキスの女たち』の三作が初期作品であり、『オイディプス王』が中期に位置づけられる作品であると一般的に考えられています。
ソポクレスの詩劇のほとんどには、その奥底に宿命論が一貫して流れる(人間の残酷な運命を凝視している)と共に、ソクラテス的な論理の運び方の萌芽も見られます。これらはギリシア悲劇に長く続く伝統として受け継がれていきました。
7.ソポクレスの言葉
今から4000年ほど前のエジプトの遺跡で見つかった手記に、「この頃の若い者は才智にまかせて、軽佻の風を悦び、古人の質実剛健なる流儀を、ないがしろにするのは嘆かわしい」と書かれていたという逸話があります。
また、今から2500年ほど前の古代ギリシャの三大悲劇詩人の言葉を見ても、「人間は今も昔も同じようなことを考えていた」ことがわかります。
フランスの哲学者・数学者デカルト(1596年~1650年)は、「我思う、ゆえに我あり」と述べ、同じくフランスの哲学者・数学者パスカル(1623年~1662年)は「人間は、自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない。しかしそれは考える葦である」と喝破しました。
大昔の名もなき物言わぬ庶民たちも、書き残していないだけで、いろいろと考えたり悩んだりして人生を生き抜いたのだろうと私は思います。
(1)運は勇気のない者にはめぐってこない。
(2)怒りの静まる時後悔がやってくる。
(3)たとえ身体は奴隷なるも、精神は自由なり。
(4)徳が獲得したもののみが、不動なり。
(5)理性…それは神から賦与された選良の贈物。
(6)自分で招いた苦しみが最もつらい。
(7)機会はあらゆる努力の最上の船長なり。
(8)苦難に耐えるということがなければ、成功なんていうことは、決してあり得ない。
(9)自らを助けない者にはチャンスはめぐってこない。
(10)努力なくして、高みへいくことは出来ない。
(11)短い言葉に、多くの知恵を蔵(ぞう)す。
(12)気立ての良い人間に、突き刺さる言葉はない。
(13)人はたとえ富を持たずとも、栄誉を受けることがあろう。
(14)老年と、時の経過は、全てを教える。
(15)あらゆる場合に勝るのは言葉であって、行いではないのが人の世なのだ。
(16)欺瞞(ぎまん)し、裏切るが、これ人間生来の心根なり。
(17)人間は、神々によって与えられたる運命を、忍ばねばならず。
(18)模作は文学の基礎である。
(19)絶えず明日の日は、目にも止まらずに忍び寄る。
(20)神の一撃を、死すべき人間はかわせない。
(21)不思議なものは多い。しかし、人間ほど不思議なものはない。
(22)理論上、正しいことよりも、世間で通用することの方が真実である。
(23)良からぬ行いからは、良い言葉は生じ得ない。
(24)人間は、息と影に過ぎない。
(25)時は全てを闇に覆い尽くし、忘却へと導く。
(26)愚かさはまさしく、邪悪さの姉妹である。
(27)思慮ある者は、過去の出来事によりて、現在を判断す。
(28)事は他人を援助することによりて、己れ自身を益す。
(29)大方の人間をよくよく見ると、恥ずかしいことが見つかるでしょう。
(30)不幸のうちにあっては、心は平静になって、初めて多くのことを見るものだ。
(31)己の家族を立派に治める者は、国家の出来事についても、価値ある人物にならん。
(32)強情が失策を生む。
(33)人間の病気のうちで、必要ほど辛いものはない。
(34)数ある不幸の中でも、自ら招いた不幸ほど、心を痛めるものはない。
(35)多数の愚者がいるところでは、一人の賢者は破滅へ追いやられる。
(36)思慮の徳こそ、幸福のためには、何もまして備えるべきものなり。
(37)まことの友を捨てるのは、一番大切な自分の命を捨てるのと変わらない。
(38)苦労の種のない人は誰もいない。苦労の一番少ない人が最も幸せである。
(39)時は全てのものの覆いを取り除いて、いつかそれを明るみに出す。何事をも隠すな。時は全てを見、全てを聞き、全てを明らかにする。
(40)愚者は、自分の手の中に持っているものを手放したときに初めて、その素晴らしさに気がつく。
(41)ひとつの言葉が、私たちを人生のあらゆる重荷と苦痛から開放してくれる。その言葉は、愛という。
(42)喜びも、悲しみも、それが生じるのは人の心の中の同じ場所です。それでどちらに出会っても、涙が溢れてくるのです。
(43)悩みの最上の薬は運動である。悩みの解決には、脳の代わりに筋肉を多く使うことに限る。効果はたちどころ表れる。
(44)どんな仕事も、それに適った始め方をすれば、仕上がり具合もそれに見合ったものになるのだ。
(45)決して羽振りの良い男の運命を、幸せと考えてはならない。その一生がつつがなく過ぎて、その道程を終えるまでは。
(46)敵もいつかは友となりうると思いながら敵を憎み、友も敵になるかもしれぬと思いながら友を愛すべきである。