前に「ギリシャ喜劇とは何か?」という記事を書きましたが、古代ギリシャにはアリストパネスとメナンドロスという傑出した喜劇詩人(喜劇作者)がいました。
そこで今回は、アリストパネスについてわかりやすくご紹介したいと思います。
1.アリストパネスとは
アリストパネス(古代ギリシャ語:Ἀριστοφάνης/Aristophanēs、 紀元前446年頃~紀元前385年頃)は、古代アテナイの喜劇詩人・風刺詩人です。アリストファネス、あるいはアリストパネース、アリストファネースと長母音でも表記されます。なお現在のギリシア語ではアリストファニスのように発音されます。
その作品は市民たちの無節操や、デマゴーゴスたちの傲慢を笑い飛ばし、「ペロポネソス戦争」に国を導く為政者を厳しく批判しました。
代表作はソクラテスに仮託する形でソフィストの詭弁を風刺した『雲』(ソクラテスも実際その劇を見に行ったということです)、デマゴーグのクレオンを痛烈に面罵した『騎士』、アイスキュロスとエウリピデスの詩曲を材に採り、パロディーなどを織り交ぜて優れた文芸批評に仕上げた『蛙』などがあります。
このほか『女の平和』は、「ペロポネソス戦争」にうつつを抜かす男どもに対し、性的ストライキで戦争をやめさせようとする話で、『女の議会』は、当時参政権の無かった女性が、男装して議会を乗っ取るという話です。いずれも喜劇の中に鋭い現状批判を込めた作品でした。
2.アリストパネスの生涯
アリストパネスの著作以外の経歴はあまり詳細には伝わっていません。彼はアテナイ市内に生まれ、父はピリッポスといいました。
紀元前430年から428年頃に劇作家としての修行を始め、カリストラトスの指導により最初の3作を匿名で発表しました。
44の喜劇作品を書きましたが、うち現在まで完全に伝わっているものは11篇にとどまります。アリストパネスは大ディオニュシア祭の競演にたびたび入賞するなど、当時のアテナイを代表する喜劇作家でした。
また3人の息子、ピリッポス(ギリシア人は父の名を男子に付ける風習を持っていた)、アラロス、ニコストラトスも喜劇作家となりました。 なおアリストパネスはアテナイに近いアイギナ島に2回旅行しています。
3.アリストパネスの作風
「ペロポネソス戦争」に対しては一貫して批判的であり、『女の平和』のような直接に戦争に反対する内容の作品もあります。
アテナイの同時代の実在の人物、ソクラテスやエウリピデスなどを取り上げて風刺した作品も多くあります。特にエウリピデスは何度か登場し、彼の悲劇『ヒッポリュトス』でのセリフ「舌は誓ったが心は誓わない」は何度ももじって利用しています。
また、『女だけの祭』では女性蔑視が甚だしいが為に女性の敵と目され、何とか殺されることの無いように、あれこれ策を弄して立ち回ろうとする人物に戯画化されています。ソクラテスは、直接の批判の対象というよりは、ソフィストの代表として扱われています。
政治家の中ではデマゴーグのクレオンを特に標的とし、思いの丈の限りを尽くして痛烈に諷刺したため、『バビュロニア人』を競演した際(紀元前426年)には、クレオンによって言い掛かりとしか思えない罪状(国家転覆罪)によって告訴されています。
4.アリストパネスの現存する作品
(1)アカルナイの人々 (紀元前425年)
アリストパネスの喜劇作品として(またギリシア喜劇全体としても)、現存する最も古い作品です。
内容は、「ペロポネソス戦争」の継続する中で、1人の男が自分の家だけで単独和平を結んでしまう、というものです。題名は劇中でコロス(合唱隊)役を担っている「アカルナイ区の人々」にちなみます。
アリストパネスはこの作品を、紀元前425年のレーナイア祭に出品し、1等に当選したということです。この時の2等はクラティノスの『暴風の中の人々(ケイマッゾメノイ)』、3等はエウポリスの『新月(ヌーメーニアイ)』でした。
(2)騎士 (紀元前424年)
国家としてのアテナイもしくはアテナイ市民を擬したデーモスの下にやって来た、当時の扇動政治家クレオーンを擬したパプラゴーン(パプラゴニア人と表記されることも)という新参奴隷が、主人に言葉巧みに取り入り、将軍ニーキアースやデーモステネースを擬した奴隷たちをやり込めようとしているところで、もっと狡猾なアゴラの腸詰屋アゴラクリトスにやり込められるという風刺話が描かれます。
題名は劇中でコロス(合唱隊)役を担う「アテナイの騎士たち」にちなみます。
紀元前424年のレーナイア祭で上演され優勝しました。2等はクラティノスの『サテュロスたち(サテュロイ)』、3等はアリストメネスの『材木担ぎ屋たち(ヒューロポロイ)』でした。
(3)雲 (紀元前423年)
ソフィストたちを風刺した喜劇です。実在の哲学者ソクラテスが登場します。
オリジナル作品は紀元前423年の大ディオニューシア祭で上演されましたが、最下位の3等で終わりました。優勝はクラティノスの『酒壺(ピューティネー)』、2等はアメイプシアスの『コンノス』でした。その後、数年以内に手が加えられて改作され、現在の形になりましたが、上演されることはありませんでした。
余談ですが、宮本百合子の『人間性・政治・文学(1)―いかに生きるかの問題―』によると、岸田國士、三島由紀夫、福田恆存、木下順二らによって結成された『雲の会』の名の由来はこの喜劇だそうです。
(4)蜂 (紀元前422年)
扇動政治家クレオーンが好きな父ピロクレオーンと、嫌いな息子ブデリュクレオーン、そしてクレオーン自身を擬した犬(キュオーン)と、対立的な将軍ラケスを擬した犬ラベース等が絡みつつ、アテナイの裁判制度を揶揄する内容となっています。
題名は劇中でコロス(合唱隊)役を担う「裁判人の老人たち」の正体が「スズメバチ」であることにちなみます。
紀元前422年のレーナイア祭で上演され、2等になりました。優勝はピロニデスの『前披露(プロアゴーン)』、3等はレウコンの『使節たち』でした。
(5)平和 (第1稿、紀元前421年)
ポレモス(戦争の神)によって洞窟の奥深くに投げ込まれてしまったエイレーネー(平和の女神)とその侍女オポーラーとテオーラーを、葡萄農夫トリュガイオス等が救い出し、平和を回復するという物語を通して、戦争の悲惨さと平和の尊さを表現しています。
紀元前421年の大ディオニューシア祭で上演され、2等になりました。優勝はエウポリスの『追従者たち(コラケス)』、3等はレウコンの『兄弟団(プラートレス)』でした。
(6)鳥 (紀元前414年)
元トラキア王テーレウスの鳥ヤツガシラの森のすみかに、裁判に嫌気がさしたアテナイ人エウエルピデース(「楽観的な」の意)とペイセタイロス(「仲間を説得した者」の意)が訪ね、風刺的な物語が展開されていきます。
題名は、24種類の鳥から成るコロス(合唱隊)にちなみます。
紀元前414年の大ディオニューシア祭で上演され、2等になりました。優勝はアメイプシアスの『飲み騒ぐ人々(コーマスタイ)』、3等はプリュニコスの『孤独に暮らす男(モノトロポス)』でした。
(7)女の平和( リューシストラテー)(紀元前411年)
原題のリューシストラテー(「リュ(ー)シス λύσις」(解体)+「ストラトス στρατός」(軍隊)の合成語で、「軍隊解散者」の意)は登場人物の一人の名です。
紀元前411年に(おそらくレーナイア祭で)上演されました。当時の劇は数作品のコンクールの形式で上演されましたが、同時に上演された他作家の作品名やこの作品の受賞がどうであったかなどは伝わっていません。
(8)女だけの祭(テスモポリアズーサイ) (紀元前410年)
原題の「テスモポリアズーサイ」は、動詞「テスモポリアゾー」の現在分詞女性複数形で、「テスモポリア祭を営む女たち」を意味します。
テスモポリア祭とは、アテナイその他のポリスで行われた、女神デーメーテールとペルセポネー母子に捧げられた女だけの祭のことです。
アテナイではアッティカ暦のピュアネプシオーン月(現在のグレゴリオ暦の10月から11月)の11日から13日の3日間で行われました。
テスモポリア祭で女の敵として悲劇詩人エウリピデスを糾弾する女たちと、そこに潜入していたエウリピデスとアガトーンを含めた、その縁者のやり取りを滑稽に描いています。
紀元前411年の大ディオニューシア祭で上演されたと推定されます。
(9)蛙 (紀元前405年)
ギリシャの二大悲劇作家の批評合戦がテーマになっています。
この作品は紀元前405年のレーナイア祭の1等を取ったとされています。
内容はディオニューソスが地獄に行き、そこでアイスキュロスとエウリピデスに悲劇に関する競争をさせる、というものです。題名の由来は、コロスがアケローンの湖の蛙の合唱を演じる場面があることによります。
見所はアイスキュロスとエウリピデスという、古代ギリシャ悲劇の二大詩人が互いの作品を批判し、攻撃するシーンで、大胆な両者作品の批評と見ることができます。
(10)女の議会(エックレーシアズーサイ)(紀元前392年)
原題の「エックレーシアズーサイ」は、「エックレーシア(民会)に出る女たち」の意味です。
『女の平和』『女だけの祭』と並んでアリストパネスの「女もの3作」と称されます。
男子に限定されていた当時のアテナイの民会に、女性たちが男装して参加し、自分たちに有利な決定をしていくという風刺的な内容が描かれます。
上演時期は紀元前393年から紀元前390年の間と推定されます。
(11)福の神(プルートス)(紀元前388年)
原題の「プルートス」は、「富の神」(福の神)を意味すると同時に、「富」そのものも意味しました。
アテナイの老農夫クレミュロス、その召使カリオーン、富神プルートス、貧乏女神ペニアー、伝令・商売神ヘルメース等が絡みながら、貧富の問題を風刺する物語が展開されます。
紀元前388年に上演されました。アリストパネスによって生前に上演された最後の作品です。
アリストパネスはこの後に、『コーカロス』『アイオロシコーン』という2作品を書いていますが、これらは彼の死後に息子アラーロースによって上演されました。
紀元前408年にも同名の作品が上演されていますが、断片しか残っておらず、内容上の関連性は分かっていません。
5.アリストパネスにまつわるエピソード
プラトンの『饗宴』において、宴に集う人々の中の一人として登場しています。この中でアリストパネスが戯画化されたと思われるくだりがあり、それはプラトンが師であるソクラテスを揶揄されたことに対する仇討ちとしてアリストパネスを揶揄したとも取れますが、プラトン自身はアリストパネスを評価しており、これは話の流れを考えてのことと解されています。
また、愛の神エロースを讚美する即席演説において、男女両性者(アンドロギュノス)について言及しています。これは異性愛や同性愛、そして同性少年愛が何故人々の中に存しているかに関して、その由来となる譚を語る中で触れているものです。
更にはアリストデーモスの言によればとして、アリストパネスとアガトーンがソクラテスと大杯を回し飲みしつつ語り合っている時に、ソクラテスが「同一人が、喜劇悲劇二つの創作技術を修得しうること。および、しかるべき技術によって悲劇作者は喜劇作者でもありうることを、二人に同意させようとして、二人が答えに窮して寝たふりをしてやり過ごそうとして両人共に本当に寝入ってしまったとしています。
オクシリンコス・パピルスの断片に「賽は投げられた」との台詞がありました。
6.アリストパネスの言葉
今から4000年ほど前のエジプトの遺跡で見つかった手記に、「この頃の若い者は才智にまかせて、軽佻の風を悦び、古人の質実剛健なる流儀を、ないがしろにするのは嘆かわしい」と書かれていたという逸話があります。
また、今から2500年ほど前の古代ギリシャの三大悲劇詩人の言葉を見ても、「人間は今も昔も同じようなことを考えていた」ことがわかります。
フランスの哲学者・数学者デカルト(1596年~1650年)は、「我思う、ゆえに我あり」と述べ、同じくフランスの哲学者・数学者パスカル(1623年~1662年)は「人間は、自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない。しかしそれは考える葦である」と喝破しました。
大昔の名もなき物言わぬ庶民たちも、書き残していないだけで、いろいろと考えたり悩んだりして人生を生き抜いたのだろうと私は思います。
・悪から生ずる悪は波紋を画く。
・賢者は敵から多くを学ぶ。
・賢者は、すべての法が破棄されようとも同じ生き方をせん。
・真理も正義もわれとともに闘う。
・女ほど征服しがたい獣はなし。
・死とは、永遠の眠り以外の何者なりや?
生とは、眠りつつ、かつ喰らうことに存するにあらずや?
・人にそれぞれ自分の得意なことをやらせよ。
・良貨が流通から姿を消して悪貨が出回るように、良い人より悪い人が選ばれる。
・喜劇もまた真実と正義を守る。