忠臣蔵の四十七士銘々伝(その9)奥田孫太夫重盛は刃傷事件・主家の断絶を二度体験した赤穂義士

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奥田孫太夫

「忠臣蔵」と言えば、日本人に最も馴染みが深く、かつ最も人気のあるお芝居です。

どんなに芝居人気が落ち込んだ時期でも、「忠臣蔵」(仮名手本忠臣蔵)をやれば必ず大入り満員になるという「当たり狂言」です。上演すれば必ず大入りになることから「芝居の独参湯(どくじんとう)(*)」とも呼ばれます。

(*)「独参湯」とは、人参の一種 を煎じてつくる気付け薬のことです 。転じて( 独参湯がよく効くところから) 歌舞伎で、いつ演じてもよく当たる狂言のことで、 普通「 仮名手本忠臣蔵 」を指します。

ところで、私も「忠臣蔵」が大好きで、以前にも「忠臣蔵」にまつわる次のような記事を書いています。

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しかし、上に挙げた有名な人物以外にも「赤穂義士(赤穂浪士)」は大勢います。

そこで今回からシリーズで、その他の赤穂義士(赤穂浪士)についてわかりやすくご紹介したいと思います。

1.奥田孫太夫重盛とは

奥田孫太夫重盛

奥田重盛(おくだ しげもり)(1647年~1703年)は、赤穂浪士四十七士の一人で、通称は孫太夫(まごだゆう)ですが、最初は兵右衛門を名乗りました。変名は、西村清右衛門。家紋は丸に洲浜

家紋・丸に洲浜
丸に洲浜

2.奥田孫太夫重盛の生涯

忠臣蔵・表門隊

正保4年(1647年)、志摩国鳥羽城主内藤和泉守忠勝の家臣・奥田孫太夫の子として誕生しました。母は久米半右衛門(相馬長胤家臣)の娘。

最初は志摩国鳥羽藩内藤家に仕えましたが、寛文2年(1662年)に内藤忠政の娘・波知が赤穂藩主・浅野長友(浅野長矩の父)に嫁したとき付人として赤穂藩に移り江戸藩邸で勤めました。寛文12年(1672年)に波知が没し、延宝3年(1675年)に長友が没した後も赤穂藩に留まりました。

延宝8年(1680年)長矩の叔父である鳥羽藩主・内藤忠勝が芝増上寺での江戸幕府4代将軍徳川家綱の葬儀の場で、怨恨から丹後国宮津城主・永井伊賀守尚長を殺害鳥羽藩は改易となりました。

永井家は弟・直圓を以て継承の一方、内藤家は断絶、父・孫太夫は浪人となったため、重盛は喧嘩両成敗なのに「片手落ち」だとして腹を立てました

長矩が連座で謹慎していたので軽挙は慎みそのまま赤穂藩に仕えました。旧主への忠義が篤いと認められ赤穂藩では武具奉行(150石)に取り立てられました

重盛は江戸で剣客として知られた堀内正春に学び、堀部武庸とともに高弟に数えられ、大太刀の使い手でした。また、重盛には男子がなかったため、近松勘六行重の弟・奥田貞右衛門行高を養子に迎えました。

元禄14年(1701年)3月14日、主君・浅野長矩が江戸城松之大廊下で吉良義央に刃傷に及び、浅野長矩は即日切腹、赤穂藩は改易と決まりました。

重盛は江戸詰の藩士の堀部武庸、高田郡兵衛とともに赤穂へ赴き、家老大石良雄に篭城を迫っています。

赤穂城開城後に江戸へ戻り、重盛は堀部、高田とともに強硬に仇討ちを主張する急進派の中心となります。

同年6月、浅野長矩の百カ日法要が行われ、重盛は高田、堀部と供に泉岳寺に参詣して仇討ちを誓いました。彼らはその帰りに元家老の安井彦右衛門を訪ねて仇討ちへの助力を談じ込みました。

安井は態度をあいまいにして言い逃れましたが、後で安井が陰口を言ったことを知り、重盛は大変に怒ったということです。

江戸の急進派を鎮撫するために大石良雄は原惣右衛門元辰・大高源吾忠雄らを送りますが、重盛たちは逆に彼らを説得して急進派に加えたため、大石自らが江戸へ下り、重盛たちを説得せねばなりませんでした。

元禄15年(1702年)3月頃に父の名を継いで孫太夫と改めました。深川八幡町続いて黒江町へ移り、医師・西村清右衛門を名乗って養子の行高と潜伏しました。

同年7月の円山会議で仇討ちが決定。12月14日の討ち入りでは表門隊に属し、二尺余の大太刀を持って屋内で奮戦しました。

武林隆重が吉良義央を斬殺し、一同がその首をあげたあとは、細川綱利屋敷にお預けとなりました。

元禄16年(1703年)2月3日、幕府は赤穂浪士46人へ切腹を申し付けました。藤沢長右衛門の介錯で切腹。享年57

戒名は、刃察周劔信士で、主君・浅野長矩と同じ高輪泉岳寺に葬られました。

3.奥田孫太夫重盛にまつわるエピソード

(1)細川家の接伴役の堀内伝右衛門をからかう

細川家にお預け中、対応する堀内伝右衛門重勝が無神経な成り上がり者だったので、これを馬鹿にしたりからかいともとれる言動を多くしています。

(2)切腹の稽古

重盛は切腹に際して、堀内に「切腹の稽古をしたことがなくどうすればよいのかご指南ください」と大真面目に尋ね堀内が戸惑うと、富森助右衛門正因が「ただ首を差し出せばよい(ただ首を打たれればよい)」と答えたという逸話が残っています。

4.奥田孫太夫重盛の辞世

辞世は無し。