浅野内匠頭を取り押さえた梶川与惣兵衛とはどんな人物だったのか?

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梶川与惣兵衛

「忠臣蔵」と言えば、日本人に最も馴染みが深く、かつ最も人気のあるお芝居です。

どんなに芝居人気が落ち込んだ時期でも、「忠臣蔵」(仮名手本忠臣蔵)をやれば必ず大入り満員になるという「当たり狂言」です。上演すれば必ず大入りになることから「芝居の独参湯(どくじんとう)(*)」とも呼ばれます。

(*)「独参湯」とは、人参の一種 を煎じてつくる気付け薬のことです 。転じて( 独参湯がよく効くところから) 歌舞伎で、いつ演じてもよく当たる狂言のことで、 普通「 仮名手本忠臣蔵 」を指します。

ところで、私も「忠臣蔵」が大好きで、以前には「忠臣蔵」にまつわる次のような記事を書いており、個々の四十七士の紹介記事も書きました。

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また、討ち入り後の赤穂浪士が4つの大名家に分散して「お預け」となったことはよく知られていますが、待遇はどのようなものだったのかご存知でしょうか?

これについては「討ち入り後の赤穂浪士への待遇はお預け先の大名によって大違いだった!?」「細川家お預けの十七士の世話役・堀内伝右衛門とはどんな人物だったのか?」という記事に詳しく書きましたので、ぜひご覧下さい。

さらに、浅野長矩の取り調べと切腹の副検死役を務めた多門伝八郎については、「浅野長矩の取り調べと切腹の副検死役を務めた多門伝八郎とはどんな人物だったのか?」という記事に詳しく書いていますので、ぜひご覧下さい。

ところで、忠臣蔵でもう一人忘れてはならない人物がいます。それは刃傷事件を起こした浅野内匠頭を後ろから羽交い絞めして取り押さえて邪魔だてし、吉良上野介を討ち損じさせた梶川与惣兵衛です。

そこで今回は梶川与惣兵衛についてわかりやすくご紹介したいと思います。

1.梶川与惣兵衛とは

梶川与惣兵衛

梶川 頼照(かじかわ よりてる)(1647年~1723年)は、江戸時代前期の旗本で、通称は与惣兵衛(よそべえ)です。

「赤穂事件」で知られる赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央に江戸城大廊下において刃傷に及んだ際、偶然その場に居合わせ、浅野内匠頭を取り押さえたことで知られます。

ドラマなど『忠臣蔵』の創作物では「浅野殿、殿中でござる!」という台詞をよくあてられます。

2.梶川与惣兵衛の生涯

幕府旗本・土岐頼泰(切米600俵、土岐頼次の三男)の次男として生まれました。母は旗本山岡伝右衛門景重(400石)の娘です。

明暦3年(1657年)6月25日、将軍徳川家綱にはじめて拝謁しました。寛文3年(1663年)11月19日から御書院番として出仕。寛文4年(1664年)8月11日、姉が嫁いでいた梶川分重が嗣子なく没したため、その養子となって家督を継ぎました

貞享元年(1684年)8月28日に起こった若年寄稲葉正休による大老堀田正俊への殿中刃傷の際にも居合わせたといわれます。

元禄9年(1696年)4月25日、本所奉行に就任。元禄10年(1697年)正月22日、御腰物奉行頭。同年12月18日には布衣(六位相当になったことを意味する)の着用を許されました。元禄13年(1700年)7月18日、大奥御台所付き留守居番となりました。

元禄14年(1701年)3月14日、江戸城大廊下で浅野長矩が吉良義央に殿中刃傷に及んだ際に現場に居合わせ長矩を取り押さえました(取り押さえたのは高家の京極高規との説もあります)。

この手柄で3月19日、武蔵国足立郡に500石加増され、それまでの下総国葛飾郡の所領とあわせて都合1200石となりました。

この事件の仔細を『梶川与惣兵衛日記』に残しました。長矩が斬りかかる際に「この間の遺恨覚えたか」と叫んだ話もこの日記を根拠とするものです。

宝永4年(1707年)正月15日、西城持筒頭に就任し、正徳元年(1711年)4月1日、武勇の者が選ばれる槍奉行に選ばれました

享保4年(1719年)2月7日、職を辞し寄合(無役の旗本)に列しました。享保5年(1720年)5月23日、隠居して養老料として切米300俵を受けました。享保8年(1723年)8月8日に死去。享年77

3.『梶川与惣兵衛日記』(『梶川日記』)

梶川与惣兵衛

前述のとおり頼照は江戸城での浅野長矩の吉良義央への刃傷事件の現場に居合わせ、その事件の詳細を『梶川日記』に書き残しています。

事件に関する頼照の記述は現代語訳で見てみると次の通りです。

自分はいつもどおり登城して大奥にいった。その日の奉答の儀式で自分は、御台所信子様の使いの役目があった。しかし吉良上野介殿からの伝言を受けて勅使様の都合で儀式の刻限が早まったことを告げられたので、詳細を直接吉良殿にお伺いしようと思って吉良殿を探した。

松の廊下に面した下の御部屋にいた茶坊主に『吉良殿をお呼びせよ』と命じたが、その茶坊主は『吉良上野介様は御老中に呼び出されました』と答えた。そのとき勅使接待役の浅野内匠頭殿の姿が見えたので、自分はその茶坊主に『内匠頭殿をお呼びせよ』と命じた。

それを受けて内匠頭殿が自分の方へ参られたので、自分は『諸事よろしくお願いいたします』とご挨拶申し上げた。内匠頭殿は『心得ております』と答えられ、下の御部屋の自分の席に戻られた。

その後、大広間から白書院の方を見てみたら吉良上野介殿が白書院の方からこちらへ来られるのが見えた。そこで自分はふたたび茶坊主に『吉良殿をお呼びせよ』と命じた。茶坊主はすぐに吉良殿の方へ行き、その伝言を受けた吉良殿の様子はよかろうと言った感じで、すぐに自分のところへ向かって来られた。

なので自分も吉良殿に近づき、松の廊下がまがったところにある角柱から6間から7間ぐらいのところで吉良殿と自分は対面した。自分が『本日の勅使様の刻限が早まったのでしょうか』と吉良殿にお尋ねしていたところ、突然、誰だかはわからないが、吉良殿の後ろから『この間の遺恨を覚えているか』と声をかけてきて吉良殿に斬りかかった者がいた。

太刀の音はすごく大きく聞こえたが、のちに聞いたところでは傷はそれほど深くなくて浅手だったらしい。自分達も驚いてよく見れば、なんとそれは勅使御馳走役の浅野内匠頭殿であった。

上野介殿は後ろのほうへ逃げようとしたところをまた二回ほど斬られ、うつ向きに倒れられた。自分達は内匠頭殿に飛びかかった。内匠頭殿との間合いは二足か三足かという短いものであったので、すぐに組み付く形になったと記憶している。

自分達はまず内匠頭殿の刀を取り上げるとともに床に押し付けて動けなくした。そのうち近くにいた高家衆や院使御馳走役の伊達左京亮殿、また坊主どももやってきて次々と取り押さえに加わってくれた。上野介殿はいつの間にかいなくなっていた。誰かが運んでくれたのか、周りにも見えなかった。

のちに聞いたところでは高家の品川豊前守殿と畠山下総守殿が上野介殿を引き起こしたが、ご老齢での負傷であるので、吉良殿にはほとんど意識がなくなっていて、この両名で御医師の間へ運んだということだそうである。

それより内匠頭殿は大広間の後ろのほうへ大勢に連れて行かれた。そのとき内匠頭殿は『上野介には恨みがある。殿中であること、また今日は儀式であることに対して恐れ多いとは思ったが、仕方なく刃傷に及んだ。討ち果たさせてほしい』と幾度も繰り返して申しておられた。

しかしあまりにも大声であったので、高家衆をはじめ取り囲む人々から『もはや事は終わったのです。おだまりなさい。あまり大声では如何なものかと思いますよ』と言われたので、それ以降は内匠頭殿も何もいわなくなった。

なお、頼照は日記の最後には「此時の事共後ニ存出し候に、内匠殿心中察入候、吉良殿を討留不被申候事嘸々無念に有しならんと存候」としつつも、「誠に不慮の急変故前後の不及思慮右のことく取扱候事無是非候」と長矩を取り押さえたことを正当化しています

また幕末の旗本大谷木醇堂は自分の手記に「梶川半左衛門は、予が弓術の友なり。」と書き出し、先祖の頼照が刃傷事件で浅野内匠頭を取り押さえ500石加増されたことについて、浅野の気持ちは察するが「大事に至る前に浅野長矩を組み留めたのは、幕府ひいては将軍に対する忠誠にほかならぬ」(『醇堂叢稿』)と子孫らしい立場で語っています。

4.『赤穂義士外伝~梶川与惣兵衛』あらすじ

『梶川の屏風回し』などの演題が使われることもあります。

浅野内匠頭が積もる遺恨を晴らす機会を邪魔だてしたとして、講談ではよい人物とされていません。

元禄14年3月14日、場所は江戸城御本丸の『松の廊下』。積もる遺恨から、播州赤穂の城主5万3千石の浅野内匠頭が、高家筆頭の吉良上野介に刃傷に及ぶ。

斬りかかったものの、金輪の入っている烏帽子をかぶっていたので刃が頭に届かない。上野介はその場から逃げだそうとする。内匠頭は続いて背中をに斬りかかり鮮血が流れるが、上野介に致命傷は与えられない。

折しもこの松の廊下を通行していたのが700石を頂戴する旗本、梶川与惣兵衛(かじかわよそべえ)。大力無双の梶川は内匠頭の後ろへ廻り込み、がっちりと羽交い絞めにし「お場所柄であるぞ控え」と叫ぶ。

内匠頭は「どなた様かは存ぜぬが、武士の情け、その手をお放し下され」と涙を流して懇願するが、梶川は放さず、内匠頭はそのまま捕らえられる。内匠頭は即日のご切腹となり、赤穂のお家は断絶となる。一方、上野介への処分はない。

それから1年10ヶ月経った元禄15年12月14日、大石内蔵助(くらのすけ)をはじめとする赤穂浪士四十七士が本所松坂町吉良邸に討ち入りし、上野介の首を取って見事に本懐を遂げる。

江戸の町は興奮冷めやらぬ中、松の廊下にて吉良の命を救った廉で御公儀より梶川与惣兵衛は500石のご加増になる。与惣兵衛は大喜びである。このままいけば長崎奉行になれるかも知れない。与惣兵衛は世話を受けた老中の方々へお礼をしに出掛ける。

まず初めに訪ねたのが老中筆頭の秋元但馬守の邸である。奥の座敷に通され、但馬守が現われる。てっきり与惣兵衛は自らの武勇が褒められるのかと思ったが、但馬守は源頼朝公の富士の巻狩の屏風を見せる。

「この沢山の人物の中で、一人だけ花も実もある情けが分かる者がいるが誰か分かるか」と言う。与惣兵衛は言い当てられない。それは御所五郎丸(ごしょのごろうまる)であると但馬守は答える。

但馬守は『曽我物語』を滔々と語り始める。武士ならば当然に曽我物語くらいは知っている。まだこれから立ち寄る先があるのにと与惣兵衛は困り果てるが仕方なく聞いている。

曽我兄弟はいよいよ仇、工藤祐経(くどうすけつね)を討ち本懐を遂げようという夜、見回りの御所五郎丸と出会う。五郎丸は曽我兄弟のことを良く知っている。兄弟の目的を察知した五郎丸は2人を見逃して仇討ち大望を叶えさせる。

兄の十郎は討ち取られ、仇討ちを果たした曽我五郎はこの人に功名を立てさせようと五郎丸のお縄に掛かる。御所五郎丸こそ花も実もある武士ではないか。

それに引き換え、哀訴嘆願する浅野内匠頭を解き放たず、望みを叶えさせなかった梶川は人の情けがない、そのような奴は大嫌いだ、屋敷にはもう来るなと罵倒される。

長々と曽我物語を聞かされた上に出入留めになってしまった梶川与惣兵衛。しょんぼりして次の老中、土屋相模守の邸に向かう。ニコニコしながら相模守は出て来て、是非見て貰いたいものがあると言う。

次の間に秋元公の邸にあったのと全く同じ富士の巻狩の屏風がある。相模守もまた御所五郎丸こそ花も実もある武士ではないかと言い、お前のような奴は見たくもないと怒鳴りつける。ウヘッーと退散する与惣兵衛。

ひき続いて、与惣兵衛は同じく老中の稲葉丹後守の邸を訪ねる。恐る恐る見回すと、やはり次の間に同じ屏風がある。また同じお小言を食らうに違いない。帰ろうとすると丹波守の家来がつかつかと駆け寄ってきて与惣兵衛に組み付く。「お離しくだされ」「なぜ殿に会わないうちに帰りなさる」これでは話がアベコベである。

ふだんから自分のことを可愛がってくれた小笠原佐渡守なら大丈夫だろう。部屋に通されたが、いい具合に例の屏風は無い。「ああ、良かった」と安堵したが、いつまで経っても佐渡守が姿を現さない。

たまりかねて家来に聴くと、富士の巻狩の屏風が届くのを待っていると言う。ウワッーと驚いた与惣兵衛。どこの邸にも同じ屏風があると思ったら、グルグルと回っていたのだ。

こう方々から睨まれていては堪らない。与惣兵衛は倅に代を譲り、自らは隠居したという。