戦国時代は、歴史ファンにとって「ミステリー」とか「謎」が多い時代です。その一つが「桶狭間の戦い」です。
今回は、「桶狭間の戦いでなぜ織田信長が勝利できたのか?」という謎について考えてみたいと思います。
私は、今年の大河ドラマ「麒麟がくる」で、この「桶狭間の戦い」がどのように描かれるかにも注目しています。というのは、明智光秀はこの戦いの当時は、越前の朝倉義景に仕えていたと思われますが、彼がこの戦いをどう見ていたかに興味があります。また木下藤吉郎が織田軍の一員として重要な役割を果たしたという説もあるからです。
1.「桶狭間の戦い」とは
「桶狭間の戦い」は「日本三代奇襲」と呼ばれるものの中で最も有名なものです。「日本三代奇襲」とは、戦国時代の特に有名あるいは特異奇抜な3つの合戦のことで、「河越城の戦い(1546年)」「厳島の戦い(1555年)」「桶狭間の戦い(1560年)」を指します。
「桶狭間の戦い」は「1560年6月5日に尾張国桶狭間で行われた織田信長による今川義元への奇襲」で、結果は織田信長が勝利し、今川義元は討ち死にし、今川氏の没落を招きました。
午後1時ごろ視界を妨げるほどの豪雨が降って来ます。太田牛一の著した「信長公記」には、「石水混じり」とあるので「雹(ひょう)」が降った可能性があります。「信長公記」によれば義元は輿を捨てて300騎の親衛隊に囲まれ、騎馬で退却しようとしますが、度重なる攻撃を受けて周囲の兵を失い、ついに信長の馬廻に追いつかれて討ち取られたということです。
総大将の今川義元が討ち死にしたことによって今川軍は戦意を喪失し、敗走します。
2.織田信長の勝利の要因についての様々な推理
しかし、2万5千人とも言われる大軍を率いて尾張国東部に侵攻した当時強大な勢力を誇り東海道に君臨した駿河国の戦国大名の今川義元が、なぜ少数の軍勢を率いた織田信長の今川本陣への「奇襲」「強襲」によって、易々と討ち取られたのかは、疑問が残るところです。
(1)今川義元の過信・油断
今川義元は大軍を率いていることを過信し、織田信長を過小評価していたため、桶狭間でいったん休息を取り、酒盛りなどをして油断しているところを奇襲されたので敗れたというものです。
今川義元は、丸根・鷲津両砦を陥落させ、緒戦の勝利に気を良くして油断していたようです。
総勢2万人以上の今川勢ではありますが、義元を守る兵力は5千人~6千人で、義元の本陣を奇襲した信長の方は2千人~3千人でした。
(2)悪天候の影響と緒戦による兵の疲労
奇襲当時の視界が見えないほどの雹混じりの豪雨と、緒戦に疲れた今川軍の兵が休息を取っていたところを奇襲されたため、応戦態勢が整わず兵が混乱して敗れたというものです。
(3)桶狭間の地形の関係による軍の陣形の乱れ
(4)信長が斥候(偵察隊)によって義元軍の動きや本陣の位置を的確に把握していたこと
(5)木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)による「綿密で用意周到な今川義元暗殺計画」
これは、加藤廣が小説「空白の桶狭間」で示した推理です。(1)~(4)は今川軍の油断や、信長の情勢判断能力・作戦能力・情報収集能力の高さを勝因とするものですが、この加藤廣の説は、木下藤吉郎が立役者だとするものです。
「空白の桶狭間」では、桶狭間の戦いは、「信長の奇跡的な奇襲作戦」ではなく、「木下藤吉郎(「山の民」出身)による、大勢の山の民を動員した陽動作戦と、今川義元側と織田方との降伏会見場での非常に訓練された猟犬による用意周到な今川義元暗殺計画」であったというものです。木下藤吉郎もなかなかの策略家だったようです。
確かに、いくら今川義元が油断していたとしても、厳重な警護の家臣もいることだし、そう簡単に討ち取られるわけはないので、この作家の仮説には説得力があります。
3.木下藤吉郎の「綿密で用意周到な今川義元暗殺計画」(「空白の桶狭間」の説の詳細)
(1)「山の民」とは
「山の民」は、平安時代中期の摂政関白藤原道隆(藤原道長の兄)が始祖です。藤原道長の栄華の陰で、道隆の庶子道宗は京の都を追われ、丹波山中に隠れ住みます。彼らは牛馬を放牧し、また灌漑や土木工事を生業とするようになります。
木下藤吉郎は山を下りて平地に溶け込んだ山の民の三代目なので、武術(目つぶし、投石、火を起こし保存する方法、馬の扱い方等)を集団訓練で習得しています。前野将右衛門や蜂須賀小六は四代目なので、灌漑や土木工事に精通しています。彼らは忍者顔負けの戦闘を繰り広げたり、人目に触れないように用心しながらの情報収集や諜報合戦も得意です。
また加藤廣氏によれば、藤吉郎は、城・砦の構造や数字等を、目をつぶれば映像化したように再現できる「直観像素質者」であったようです。
(2)藤吉郎の事前準備の「地下工作」
山の民出身の蜂須賀小六に命じて、多数の山の民を「道化師組」「農夫組」「旅人が休憩する茶屋の主人と住み込みの下僕組」に分けて、それぞれが身に付くように訓練させます。
道化師は諜報活動に役立ち、農夫は放牧をしていても不思議に思われません。茶屋は山の民の前線基地ですが、あってもおかしくない場所なので怪しまれません。
(3)信長に「今川義元への降伏状」を書くように進言
藤吉郎は、降伏の屈辱と引き換えに、降伏会見場として今川義元を戦に不向きな田楽狭間におびき出し、実際の暗殺行為は山の民と猟犬(軍用犬)にやらせて、手柄は織田信長と家臣団が取る筋書きを説明して信長の了解を取り付けます。
(4)山の民が今川勢の家来たちに酒や食べ物を献上
今川勢の戦勝を祝うように、地元民に化けた山の民が今川勢の家来たちに酒や餅などの食べ物を献上し、油断させます。
(5)降伏会見場に猟犬を放って今川義元を暗殺
田楽狭間の降伏会見場に両軍の武将が揃ったところで、藤吉郎の犬笛による合図で、会見場付近に潜んでいた山の民たちが訓練された猟犬たちを一斉に放って今川義元たちの喉笛に食らいつかせます。
織田方の武将は、あらかじめ猟犬よけの異臭の液体を鎧や顔に塗っていましたので、猟犬は今川方の武将のみを襲います。その結果、今川義元は討ち取られて今川勢は総崩れとなり、織田方の圧勝に終わります。