1.「ペスト」とは
「ペスト」(黒死病)は、「ペスト菌」という細菌によって起こる病気です。「ペスト菌」は1894年に、「日本細菌学の父」と呼ばれる北里柴三郎(1852年~1931年)とフランスの細菌学者のエルサン(1863年~1943年)によってほぼ同時期に香港で発見されました。
元来はクマネズミ、タルバカンなどの「齧歯類(げっしるい)」の病気ですが、ノミの媒介で人にも感染し、高熱とリンパ節炎、あるいは肺炎、敗血症などを起こす悪性の病気です。
症状は、ペスト菌が体内に入って2~5日経つと、全身倦怠感が起こって、悪寒がします。「腺ペスト」「肺ペスト」「ペスト敗血症」の3種類があります。
治療には、「ストレプトマイシン」や「サイクリン」系の抗生物質が有効です。
2.「ペスト」の大流行の歴史
(1)中世ヨーロッパでの大流行
14世紀の中頃、ヨーロッパで「黒死病」と呼ばれる疫病が大流行し、人々に恐れられました。これが「ペスト」です。「ペスト(ドイツ語:Pest、英語:plague)」という名前は、ラテン語で「伝染病」を意味する「pestis」に由来します。
「百年戦争」(1337年~1453年)の最中であった西ヨーロッパでは全人口の3分の1が死んだと言われ、人口減少から封建社会変質(農奴・農民人口の激減と農奴解放の動き)の一つの要因となりました。
人類史上最大の疫病の世界的な爆発的発生(パンデミック)で、その後もたびたび世界的な流行がありました。
1346年から47年にかけて、コンスタンティノープルから地中海各地に広がったペストの流行は、マルセイユ、ヴェネツィアに上陸し、1348年にはアビニョン、フィレンツェ、ロンドンへと西ヨーロッパ各地に広まり、1349年には北欧からポーランドに、1351年にはロシアに達しました。
クマネズミは元々ヨーロッパにはいませんでしたが、十字軍の船に紛れ込んで、西アジアからヨーロッパに移り住んできたようです。
大流行は1370年頃まで続きましたが、当時の人々は疫病流行の原因がわからず、一部では「ユダヤ人が井戸に毒をまいたからだ」という噂から、ユダヤ人に対する虐殺が起こったりしました。
中世の医師たちは、ペストが「空気感染」すると考えて、窓を閉め切って空気の入れ替えを遮断し、肌を空気にさらす入浴も禁じたそうです。ペスト医師のカラスの顔のようなマスクも、空気感染を防ぐためのものです。
そして「感染対策」は、「感染者」および「感染が疑われる人」の「隔離」でした。1374年のヴェネツィア共和国では、ペストが流行している地域からの船舶の入港を30日間押しとどめ、その間に感染者が出なければ入港できるようにする政策が取られました。1377年にはラグーサ共和国(現在のドゥブロヴニク)でも同様の措置が取られました。1383年に同様の政策を始めたマルセイユでは入港停止期間を40日間としました。
また陸上の交易でも、商品の移動を管理する「検疫」が行われるようになり、商人たちは各都市が発行する「衛生通行証」を持ち歩くようになりました。この「衛生通行証」がパスポート(passport)の元になったということです。「passport」の「port」は、海の港(port)だけでなく、都市城壁の門(porte)を通過する(pass)ために要求された文書の意味だったのです。
現在世界遺産に登録されているクロアチアの「ドゥブロヴニクの旧市街」には、かつてラグーサ共和国がありました。
交易で栄え、城壁で囲まれたこの都市は、城壁で閉ざされているがゆえに、感染症が持ち込まれると大きな被害を受けるため、城壁の外に検疫所を兼ねた隔離施設「ラザレット」を1590年に築きました。これは二度目のペストが猛威を振るっていた時期です。「ラザレット」での隔離期間は1377年から続けられた30日間ではなく、マルセイユと同じ40日間に延ばされました。
この「40」という数字は、ラグーサ共和国で使われていたイタリア語で「クアランタ」(quaranta)と言います。そして「検疫」はイタリア語で「クアランテーナ」(quarantena)、英語で「 クアランティーン」( quarantine)ですが、その語源はペストの時期にラグーサ共和国が行った隔離政策の日数に由来しているのです。
(2)17世紀の大流行
14世紀の大流行の後、17世紀にもヨーロッパ全域に大流行しました。特に1665年にロンドンで大流行し、「ロビンソン・クルーソー」で有名なイギリスの作家デフォー(1660年~1731年)が「疫病流行記」という記録を残しています。またニュートン(1642年~1727年)もケンブリッジ大学が閉鎖されて長期休校となったため、感染の流行を避けてロンドンから故郷の田舎に疎開し、思索を重ねて「万有引力の法則」を発見しました。
(3)19世紀末の最後の大流行
19世紀末の最後の大流行は、中国から始まり、アジアで急激に広がって日本にも伝わりました。1894年、流行の中心地香港に派遣された北里柴三郎がペスト菌を発見し、ノミがネズミから病原菌をヒトに感染させることが判明しました。
この流行は1910年代に収束しましたが、この時の北アフリカ・アルジェリアでの流行を題材にした小説が、カミュ(1913年~1960年)の「ペスト」です。
1894年~1926年までの日本の感染者は2,905名で、死者は2,420名でした。北里柴三郎は、1897年に「伝染病予防法」、1899年に「開港検疫法」の法整備に努め、日本でのペスト大流行の阻止に貢献しました。
3.ペストはどのようにして収束あるいは終息したのか?
19世紀末の大流行が「最後の大流行」でしたが、現在でもペストに感染するリスクはあり、2017年にはアフリカ・マダガスカルでの感染流行(感染者2,348名、死者202名)が確認されていますので、完全に「終息」したわけではありません。
かつてペストが大流行した時に多くの人が命を落としましたが、一応「収束」したのは、感染した患者を山奥に収容したり、船の入港を30日~40日間一時停止する「隔離」を実施したこと、および「検疫所」を設けて感染症が持ち込まれるのを予防したことも一因のようです。
「19世紀末の最後の大流行」の時は、「抗生物質」の登場によって治療できるようになり、かつては罹患すると「ほぼ確実に死ぬ」病気であったものが、死亡率が一気に20%以下まで下がったことが「終息」の要因です。
4.ペスト医師
「ペスト医師」とは、ペスト患者を専門的に治療した医師のことです。ペスト医師は主に瀉血を中心に、腫れたリンパ節に蛭(ひる)をあてがうなどの「体液の均衡を取り戻す」治療法を標準的な手順としてこなしていたようです。
有名なペスト医師に「ノストラダムスの大予言」のノストラダムス(1503年~1566年)がいます。彼は1546年にエクス・アン・プロヴァンスで大流行が起きた時に市当局に雇われて治療に当たりました。彼は瀉血も強壮剤も賛美歌も効果がなかったと述べる一方、バラ・ショウブなどを混ぜた自身の丸薬は効果があったと述べています。
ペスト医師の代表的な衣装は、「できるだけ肌を露出させないように全身を覆う表面に蝋を引いた重布か革製のガウン」、「つば広帽子」、「くちばし状をした円錐形の筒に強い香りのするハーブや香料、藁などを詰めた鳥のくちばしのようなマスク(ペストマスク)」、「木の杖」の一式です。
これは1619年にシャルル・ド・ロルムが考案した一種の「防護服」です。最初パリで用いられ、その後ヨーロッパ全土に広まりました。