<2021/7/31追記>2020年、日本人の平均寿命は過去最高を更新
2020年の日本人の平均寿命は、男性が81.64歳(2019年は81.41歳)で、スイスに次いで世界第2位、女性が87.74歳(2019年は87.45歳)で引き続き世界第1位です。
「人間五十年」(ただし、この言葉は本当は「人間の寿命は五十年にすぎない」という意味ではありません)という言葉もありますが、織田信長などの戦国武将が生きた時代は平均寿命は37~38歳だったようです。
もちろん、戦いの中で命を落とす人も多かったでしょうが、今とは比べ物にならないくらいの短命です。
そんな戦国武将の中で前田利家・豊臣秀吉・徳川家康はいずれも60歳以上の天寿を全うしました。
彼らの健康法は現代の我々にも参考になる点があると思いますので、ご紹介します。
1.前田利家の「能トレ」
天下人の信長と秀吉に仕え、秀吉亡き後は家康と並ぶ影響力を誇った前田利家(1538年~1599年)は61歳まで生きました。
彼は身長180cmの大男で、重い甲冑(かっちゅう)を身につけた上、「槍の又左衛門(槍の又左)」との異名もあったように三間半(6.4m)の長槍を持って大暴れしました。53歳の最後の出陣では、総大将として敵の城を3つも落とすという驚きの体力を示しました。
また私生活でも、妻まつとの間に2男9女11人もの子供を儲けました。
利家が晩年まで強い肉体を保てた理由は、歴史学者の小和田哲男静岡大学名誉教授によると、「ある年代から亡くなる直前まで『能(能楽)』を趣味にしていたから」だそうです。
「筋トレ(筋肉トレーニング)」ならぬ「能トレ(能トレーニング」ですね。今流行の「脳トレ」ではありません。
「能」はゆったりとした舞いや動きが特徴的な伝統芸能です。こんなゆっくりとした動きが強い体を保つトレーニングになるのでしょうか?
「日本舞踊」も、優雅に見えて実は体力が必要だと聞いたことがあります。中国の「太極拳」にも通じるものがあります。「少林寺拳法」のような激しく素早い動きの運動は、ボディービルダーや重量挙げ選手のような筋肉を鍛えるには有効だと思いますが、「能」「日本舞踊」「太極拳」も体力保持には役立つようです。
瞬発力が必要な「短距離走」と持久力が必要な「長距離走」の違いのようなものかもしれません。
「能」の基本姿勢である「構え」と呼ばれる中腰で肘(ひじ)を横に張る状態と、基本動作である「運び」と呼ばれる摺り足のような動作が体力保持に有効なようです。
「能の構え」は、筋肉のスペシャリスト・須藤教授によると、「老化の三条件」をクリアできる運動だそうです。「老化の三条件」とは、「肩甲骨周辺・腿(もも)の裏側・足の裏の筋肉が衰えること」です。
この三つは普段の生活ではあまり伸ばされていないため、血行が悪くなるそうです。すると筋肉に老廃物がたまってしなやかさを失い固くなります。その結果、肩こりや腰痛、バランスが悪くなって転倒などの原因になるそうです。
須藤教授によると、この姿勢に「呼吸法」を取り入れると、効果がさらにアップするそうです。
「能の運び」は、足の指で床をつかむように力を込めて歩きますので、通常の歩行に比べて下半身のトレーニングになっています。
2.豊臣秀吉の「茶リラックス」
農民出身ながら「天下統一」を果たした豊臣秀吉(1537年~1598年)は、前田利家と同じく61歳まで生きました。
日本一の出世男ですが、その裏には苦労続きの人生がありました。「魔王」と呼ばれた織田信長に18歳の頃から仕え、草履を懐で温めたという伝説があるほど主君を気遣い、35歳の時の「金ヶ崎の戦い」では、信長を逃がせるために「殿(しんがり)」という撤退の最後尾を務めるなど命を張りました。
このようなストレスの多い人生だったにもかかわらず、秀吉が61歳まで長生きできた理由は、歴史学者の小和田哲男静岡大学名誉教授によると、「茶室でリフレッシュ・リラックスしていたからではないか」ということです。
秀吉は「北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ)」や「黄金の茶室」でも有名な「大のお茶好き」でした。彼は「茶の湯は慰みじゃ」と自らも気晴らしに良いと語っています。
茶道(茶の湯)は、現代人には「敷居が高い」というイメージがありますが、もともとは「自分を見つめ直す時間」として日常的に行われていたものです。
秀吉が楽しんでいた茶会も、気楽で肩肘張らないものだったと言われています。
茶室は、現実から完全に解き放たれた自然光のみの薄暗い空間です。そのためよけいな情報が遮断され、自分自身に意識が集中しやすくなります。
さらに「お香」で嗅覚を刺激すると、自律神経を安定させ、心身をリラックスさせる効果があります。
抹茶に最も多く含まれているうまみ成分「テアニン」が脳内に入ると、神経伝達物質の濃度に変化が起き、記憶力や集中力アップに効果があるそうです。
さらにカテキン類の抗酸化作用が活性酸素を消去し、老化予防の効果があるそうです。
3.徳川家康の「粗食」
信長・秀吉亡き後、「天下統一」を果たし徳川幕府を開いた徳川家康(1543年~1616年)は、73歳の長命でした。
上の画像「徳川家康三方ヶ原戦役画像」(別称「顰像(しかみぞう)」)は「三方ヶ原の戦い」に敗れた後の家康の「顰(しか)め顔」を描いた絵です。彼はこの敗戦を肝に銘じ忘れないために、わざわざ絵師に顰(しか)め顔の自分を描かせたそうです。
「長命こそ勝ち残りの源である」と常々語っていた家康の健康と驚くべき長寿を支えていたのは、麦飯と豆味噌という粗食(質素な食事)でした。
麦にはビタミンB1やカルシウムなどが豊富に含まれています。さらに家康が食べていた麦飯は麦と胚芽の残った半搗き米を混ぜたものなので、何度も噛まなければなりませんでした。この咀嚼が脳や胃腸の働きを活性化させて、活力の源となったのです。
また家康は、大豆100%の豆味噌も味噌汁にして好んで食べ、雉(キジ)や鶴の焼き鳥など動物性たんぱく質も適度に摂っていました。
豆味噌には「アルギニン」という強壮効果のあるアミノ酸がたっぷり含まれています。その効用で、彼は生涯で16人の子をつくり、最後の子を儲けたのが66歳の時でした。
精力に満ち、直系の子供が多かったことが、徳川幕府を長続きさせる要因の一つにもなりました。
江戸幕府260余年の基礎を築けたのも、食生活に気を配り、晩年まで健康であったからにほかなりません。
三河地方の豪族松平氏の嫡男として生まれた家康は、幼い頃から麦飯を主食にして育ち、生涯その習慣を変えることはなかったそうです。
私は子供時代、家計が苦しい時期に「麦飯」や「サバの缶詰」を食べさせられ、辟易した経験がありますが、現代ではこれらは「健康食」としてもてはやされているのは皮肉なことです。
なお家康の死因については諸説ありますが、その一つに「当時高級品だった天ぷらの食べ過ぎ」というものがあります。一説では「鯛の天ぷらを食べて、食中毒を起こした」と言われています。「河豚にも当たれば鯛にも当たる」(毒のある河豚ばかりでなく、毒のない鯛でも中毒することはあるという意味)ということわざもあるくらいですから、「無きにしも非ず」です。
もしこれが真実だとすると、粗食を貫いたと言われている彼にとっては皮肉なことです。