「パレスチナ問題」とは何か?なぜパレスチナとイスラエルは争い続けるのか?

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パレスチナ問題・地図

中東と言えば、イスラエル・イラン・イラク・シリア・トルコ・レバノン・ヨルダン・クウェート・エジプト・サウジアラビアなど、何かと紛争や武力衝突が頻繁に起き政情不安が続いている印象があります。

イスラエルの「テルアビブ」と言えば、1972年5月30日に「パレスチナ解放人民戦線」(PFLP)が計画し3人(奥平剛士・安田安之・岡本公三)の赤軍派(後の日本赤軍グループ)が実行した「テルアビブ空港乱射事件」(26人が死亡、73人が負傷)がありました。

実行犯の奥平と安田は死亡し、岡本はイスラエルで終身刑となりましたが捕虜交換で釈放され、現在はイスラエルと敵対する勢力の庇護を受けてレバノンで暮らしているそうです。

この年に私は社会人になったので、生々しい記憶として残っています。

また2018年には、トランプ前大統領がエルサレムをイスラエルの首都と認め、在イスラエル米大使館を「テルアビブ」から「エルサレム」に移転しました。

その結果、パレスチナ自治区の「ガザ地区」のイスラエル境界線付近では、流血の抗議デモが起きました。

パレスチナ自治政府のアッバス議長は、「このエルサレムへの大使館移転措置は『侮辱』であり、イスラエルとの和平交渉において、アメリカをもはや誠実な仲介役とみなすことはできない」と非難しました。

「エルサレム」が、ユダヤ教・イスラム教・キリスト教の全ての「聖地」となっていることも大きく関係しています。

最近またイスラエルとパレスチナとの武力攻撃の応酬が激しくなりました。

攻撃の応酬、死者50人超 イスラエル・パレスチナ「全面戦争」の懸念

「パレスチナ問題」とは何なのでしょうか?また、なぜパレスチナとイスラエルは争い続けるのでしょうか?

1.パレスチナ問題

中東和平関連地図

「パレスチナ問題」とは、「パレスチナ地方の帰属をめぐるイスラエル人とパレスチナ人との間の長年にわたる暴力的な紛争」です。

イスラエルが「ヨルダン川西岸地区」と「ガザ地区」を54年間にわたって占領し続けていることから、「世界で最も手に負えない紛争」とも呼ばれています。

2014年6月に「ヨルダン川西岸地区」でユダヤ人少年3人の遺体が発見されました。その後、7月上旬に今度は東エルサレムでアラブ人(パレスチナ人)の16歳の少年が殺害されました。

これにより、「ユダヤ人少年の殺害にはパレスチナ人が関わっている!」「パレスチナ人少年の殺害はユダヤ人による報復だ!」と怒りが連鎖し、対立が起こりました、

「ガザ地区」を支配している「イスラム原理主義組織ハマス」は、イスラエルへのロケット弾攻撃を急拡大し、イスラエルもこのハマスの拠点である「ガザ地区」への報復攻撃に出ました。

しかし、紛争の本当の理由は経済的な不満のようです。ハマスと友好的な関係にあったエジプトのモルシ政権がクーデターで倒れ、それによってガザ地区の経済は一気に追い詰められたようです。

ハマスは停戦の見返りに、何らかの経済的利益を得ようとしているようです。北朝鮮がミサイル発射などで威嚇・挑発し、核開発をやめる見返りに経済制裁解除などの経済的利益を得ようとするのと似ていますね

イスラエルも、ハマスへの攻撃と言いながら、ガザ地区への空爆や地上戦によって多くの民間人を巻き添えにしています。

ただし歴史を振り返ると、第二次大戦中のアメリカによる日本本土への空襲(民間人も巻き添えにする無差別爆撃)や原爆投下という戦争犯罪を犯していますので、イスラエルよりひどいとも言えます。

この「パレスチナ問題」には、次に述べるような長い長い歴史的経緯があります。

2.パレスチナとイスラエルの歴史

(1)イスラエル王国

約3000年前、現在のイスラエル地域には「イスラエル王国」があり、ユダヤ人が治めていました。ダビデ王やソロモン王などが有名ですね。

(2)いろいろな国や民族の支配下に置かれる

ところでこの地域は、アジア・ヨーロッパ・北アフリカを結ぶ重要な場所であるため、多くの国や民族がこの地域を支配下に置くことを狙っていました。

その結果、いろいろな国や民族による支配が行われることになりました。

B.C.586年には「新バビロニア」のネブカドネザルによって征服されます。

その後、勢力を伸ばしてきた「ローマ帝国」によって征服されます。そうすると、もともと住んでいた「ユダヤ教」のユダヤ人たちはここに住んでいられなくなり、世界各地に散らばって行くようになります。そのかわり、この地に「キリスト教」が生まれることになります。

そして614年には「ペルシャ」による侵攻があり、636年には「イスラム帝国」が占拠します。この7世紀ごろからは、「アラブ人」も入ってくるようになり、彼らは「イスラム教徒」になって行きます。

(3)エルサレムがユダヤ教・イスラム教・キリスト教の全ての「聖地」となる

この地域の「エルサレム」という場所が、ユダヤ教・イスラム教・キリスト教の全ての「聖地」となっているのは、このような歴史的経緯からです。

これがイスラエル・パレスチナ問題の出発点です。

キリスト教徒は11世紀後半から15世紀中頃にかけて「十字軍」を遠征させて「聖地奪還」を目指しましたが失敗に終わります。

(4)オスマン帝国の支配で長い戦いの歴史に終止符

そして16世紀にはイスラム教の「オスマン帝国」という強大な国がこの地域を支配することによって、長い戦いの歴史にも終止符が打たれることになります。

その後400年余り続く「オスマン帝国」では、この地域を「パレスチナ」と呼ぶようになります。この地域にはイスラエル王国のダビデ王が戦った相手の「ペリシテ人」が住んでおり、この「ペリシテ」が訛ったものと考えられています。

(5)ユダヤ人とアラブ人の平和的共存

一方、世界各地に散らばって行ったユダヤ人たちは勤勉で極めて優秀なので、成功する人も多かったのですが、やっかみや迫害を受けてパレスチナの地域に戻って来る人も出てきました。

パレスチナにはアラブ人たちがすでに住んでいましたが、パレスチナに戻ったユダヤ人たちとアラブ人たちの間には、多少のいざこざはあったにせよ、比較的穏やかに平和的共存で暮らしていたようです。

(6)パレスチナ問題の発端となったイギリスの「三枚舌外交」

そんな中、1914年に「第一次大戦」が勃発し、「オスマン帝国」はイギリス・フランス・ロシアと対立します。

この時、イギリスがアラブ人とユダヤ人に対して「三枚舌外交」と呼ばれるとんでもない約束をします。

まずイギリスはアラブ人に対して、「イギリス軍に協力するなら、君たちの国家を作るのに協力するよ」と持ち掛けます。これが「フサイン・マクマホン協定(1915年)」です。

一方で、イギリスはユダヤ人の金融資本家から資金提供を受けるために、「お金を出してくれるなら、ユダヤ人の国家を 作るのに協力しますよ」と明らかに矛盾した約束をします。これが「バルフォア宣言(1917年)」です。

つまりイギリスはユダヤ人、アラブ人両方に独立国家を作るという約束をしてしまったのです。

これが現在に至るまでユダヤ人とアラブ人との関係がこじれる「パレスチナ問題」の発端となりました。

そしてもう一つ、帝国主義列強の恐るべき謀略とも言うべき「サイクス・ピコ協定(1916年)」という秘密協定がイギリス・フランス・ロシアの間でむすばれていました。

これは英仏による中東分割の秘密協定です。

イギリスが「ユダヤ人、アラブ人、フランス人の三者と矛盾した約束をした」という意味で、「三枚舌外交」と呼ばれています。

結局イギリスはいずれも裏切って、パレスチナを「委任統治領」とします。

(7)ナチスドイツによるユダヤ人迫害でユダヤ人の移住が急増

1920年代には少しずつユダヤ人が増えて行きましたが、1930年代になるとユダヤ人の移住が急増します。これはナチスドイツがユダヤ人を迫害したことが大きな要因です。

この地域は日本の四国程度の面積なので、ユダヤ人がどんどん入ってくるとアラブ人が怒り出し、対立が深まって行くことになったわけです。

(8)第二次大戦後、イギリスは撤退して国連に丸投げ

第二次大戦後の1947年、イギリスはこの地の治安維持能力を失って撤退し、無責任にも国連の決定に委ねることにしました。

もうユダヤ人とアラブ人の対立が激化し過ぎて、イギリスも手に負えなくなったようです。一応イギリスは、「ユダヤ人とアラブ人とで仲良く分けましょうよ」と提案はしましたが、両者から無視され、結局国連に下駄を預けたのです。

そしてイギリスに丸投げされた国連の結論は、やはりイギリスと同じ「パレスチナ分割案」でしたが、この国連の分割案はユダヤ人にかなり有利なものでした。

水利が整っている地域はユダヤ人に、荒れ地はアラブ人にということで、これはアメリカの強い後押しがあったからと言われています。

当時アメリカの大統領はトルーマン(1884年~1972年、在任:1945年~1953年)で、1948年の二期目の大統領選挙を控えて、ニューヨークなどに多く住んでいるユダヤ人の支持を獲得したいと考えていたためです。「アメリカファースト」は何もトランプ大統領が初めてではありません。

(9)イスラエル国の建国と第一次中東戦争

この国連分割案に沿って、1948年にイスラエル国が建国されました。しかしアラブ人は黙っていず、近隣のアラブ諸国の力を借りてイスラエルに乗り込みます。これが「第一次中東戦争」(1948年~1949年)です。

この時、エジプトが攻め込んだのが今の「ガザ地区」で、ヨルダンが攻め込んだのがヨルダン川西岸地区」です。現在の「パレスチナ自治区」とされている場所です。

この「第一次中東戦争」はアメリカの支援もあってイスラエルが勝利します。ではもともとパレスチナに住んでいたアラブ人(パレスチナ人)はどうなったのでしょうか?

国連分割案ではパレスチナ人の領土となるはずだった場所もイスラエルが領土拡大で持って行き、「ガザ地区」はエジプトがちゃっかり支配し、「ヨルダン川西岸地区」はヨルダンが占領することになり、パレスチナ人は踏んだり蹴ったりです。

しかし、この「ガザ地区」も「ヨルダン川西岸地区」も1967年の戦闘(第三次中東戦争)によってイスラエルに占領されてしまいます。

(10)パレスチナ暫定自治協定

このイスラエル占領から20年後の1987年、「ガザ地区」「ヨルダン川西岸地区」のパレスチナ人の青年たちが立ち上がる出来事が起きました。

武装したイスラエル軍に対して何と石を投げて戦ったのです。ダビデがペリシテ人の戦士ゴリアテを倒したひそみに倣ったのでしょうか?

常識的には勝てるはずもない戦い方ですが、彼らの映像が世界中に配信されて同情が集まることになり、1993年に「パレスチナ暫定自治協定」が結ばれました。

これは、「ガザ地区・ヨルダン川西岸地区からイスラエル軍は出ていけ」という命令です。しかしユダヤ人からは当然のように反発の声が上がり、調印したイスラエルのラビン首相は暗殺されました。

その後、イスラエル軍とユダヤ人の多くは「ガザ地区」から出て行きましたが、「ヨルダン川西岸地区」では現在もユダヤ人の人口が増加傾向にあります。



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