新大陸(アメリカ大陸)を発見したコロンブスとはどのような人物だったのか?

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コロンブス

新大陸(アメリカ大陸)を発見したことで有名なコロンブスとは、どのような人物でどんな生涯を送ったのでしょうか?

1.コロンブスの名にちなんだ都市名や国名などにまつわる話

コロンブスの名にちなんだ都市やコロンブスの銅像は各地にあります。

しかし、白人警官による黒人男性の暴行死事件をきっかけに世界中に広がった「人種差別への抗議運動」の影響で、各地で彼の銅像が引き倒されたり、彼の名にちなんだ都市コロンバス(アメリカオハイオ州)で名前を変えようという動きまで出てきています。

その理由は、彼が「奴隷商人」でもあり、「人身売買」や「原住民の大虐殺」を行ったことがあるためです。

コロンバス市長のアンドリュー・ギンサー氏も、市庁舎前のコロンブスの銅像に関して、「私たちの醜悪な過去の象徴」と批判し、「市の多様性と一体感のために撤去すべきだ」と主張しています。

コロンバスという名前の都市は、オハイオ州のほか、ジョージア州・インディアナ州・ミシシッピ州・ネブラスカ州にもあります。

なお、都市名のほか、アメリカ海軍の「原子力潜水艦」や欧州宇宙機関が「国際宇宙ステーションに設置している研究実験施設」にも「コロンバス」という名前が付けられています。

また、パナマと国境を接する南米で一番北にある国コロンビアも、コロンブスを記念して国名が付けられました。

コロンビアは「エルドラド(黄金郷)伝説」発祥の地でもあります。15世紀末には、そのきらびやかな話を聞きつけて、多くスペイン人がやって来ました。

スペースシャトルの名前にも「コロンビア号」というのがありましたが、コロンビアはコロンブスの女性名詞です。なお、この「コロンビア号」は2003年2月1日、帰還のための大気圏再突入中にテキサス州上空で空中分解し、乗員7名全員が死亡しました。

余談ですが、「アメリカ」という名前は、イタリアの探検家アメリゴ・ヴェスプッチ(1454年~1512年)にちなんだものです。彼は数回にわたって大西洋を航海して南北に連なる広大な陸地を探検し、コロンブスが到達したのはアジアの一部ではなく、「新大陸」であることを主張しました。

1507年にドイツ人地理学者ヴァルトゼーミューラーの作成した世界地図で、新大陸にアメリゴにちなんで「アメリカ」という呼称を与えたことから、「アメリカ大陸」と呼ばれるようになりました。

2.コロンブスとは

クリストファー・コロンブス(1451年~1506年)は、イタリア・ジェノバ生まれの探検家・航海者・コンキスタドール(侵略者、征服者)・奴隷商人で、新大陸(アメリカ大陸)の発見者です。

彼の西廻り航路開拓の功績とスペインの中南米での領土拡大への貢献により、その子孫はスペイン王室からベラグア公爵とラ・ベガ公爵に叙され、現在までスペイン貴族の公爵家として存続しています。

なお彼の名前の「コロンブス(Columbus)」は英語で、出身地のイタリア語では「コロンボ(Colombo)」です。

下の画像は、ジェノバにあるコロンブスのモニュメントです。

ジェノバにあるコロンブスのモニュメント

(1)生い立ち

彼は毛織物業者の子として生まれましたが、海とのかかわりは10代の頃から始まっていました。

(2)海とのかかわり

最初は毛織物業者の父の仕事を手伝って船に乗り、その後ジェノバの商人チェントリオーネ家に雇われてエーゲ海のヒオス島へ行き、「乳香(にゅうこう)」(*)取引に携わったりしました。

(*)「乳香」とは、ムクロジ目カンラン科ボスウェリア属の樹木から分泌される樹脂。乳香の名は、その乳白色の色に由来します。古くからこの樹脂の塊を焚いて香とし、または香水などに使用する香料の原料として利用されています。

1476年5月には、チェントリオーネ家やスピノラ家などのジェノバ商人団に雇われ、「乳香」をイギリスやフランドルへ運ぶ商船隊に参加しました。

しかし同年8月、この船団がブルゴーニュの旗を掲げていたため、ポルトガルのサン・ヴィセンテ岬沖で、当時敵対していたフランス艦船から攻撃を受け、船は沈没しました。

コロンブスは櫂に捕まって泳ぎ、ポルトガルのラゴスまでたどり着きました。

(3)ポルトガルに移る

1477年春以降に彼はジェノバ人共同体の助けを借りてリスボンに移りました。

そこには地図製作に従事する弟のバルトロメが住んでおり、彼は弟と一緒に地図作成や売買をしながら、たびたび航海にも加わっていました。

1477年2月に彼はイギリスのブリストルを経てアイルランドのゴールウェイ、そしてアイスランドまで向かいました。アイスランドには、かつてヴァイキングが北アメリカに植民地を築いたという「ヴィンランド伝説」がありました。

1479年末、彼は貴族階級の娘と結婚し、1480年に長男が生まれました。

1481年にディオゴ・デ・アザンプージャが西アフリカを南下してエルミナ城を築く航海を行った際に彼も加わり、ギニアと黄金海岸まで行きました。

(4)西廻り航海の着想

この当時ある事件がありました。スペインのドミニコ会宣教師ラス・カサス(1484年~1566年)の「インディアス史」によると、ポルトガル交易船員(白人)が西大西洋上のマデイラ島に漂着した事件です。彼らは嵐のためにキューバまで流されてしまい、船を修理して東へ出航しましたが、生きてマデイラ島にたどり着いた数名はほとんどすぐに亡くなり、最後の一人をコロンブスが保護しましたが、やがて彼も亡くなったというものです。

ラス・カサスは、この事件がコロンブスをして西廻り航路の発想に至らす原点になったと述べています。

ちなみにラス・カサスは、当時スペインが国家をあげて植民・征服事業を進めていた「新大陸」(中南米)における数々の不正行為と先住民(インディオ)に対する残虐行為を告発し、同地におけるスペイン支配の不当性を訴え続け、「エンコミエンダ制(原住民の実質的な奴隷制度)」の廃止をスペイン王カルロス1世に訴えた人物で、「インディオたちの保護者」と言われています。

(5)西回り航海の可能性を確信

この頃、コロンブスは積極的にスペイン語やラテン語などの言語や、天文学・地理・航海術の習得に努めています。

当時すでに「地球球体説」は一般に信じられていましたが、マルコ・ポーロの「東方見聞録」にある黄金の国・ジパングに惹かれていたコロンブスは西廻りでアジアに向かう計画に現実性を見出しました。

(6)ポルトガル王室への提案

1484年末、コロンブスはポルトガル王ジョアン2世に航海のための援助を求めました。国王は興味をそそられましたが、彼の要求が資金援助に加え成功報酬や高い地位や権利、そして収益の10%の要求という大きなものだったため、承諾を得られませんでした。

コロンブスの要求があまりにも法外で過大だと受け止められたのです。

そこで彼は諦めてポルトガルを去る決心をし、スペインに移ることにしました。

(7)スペインに移る

コロンブスはリスボンから海路、スペインのパロスに着きました。ラ・ラビダ修道院長を尋ねて、天文学者でもあるセビリアの神父を紹介してもらい、スペイン貴族と面会する機会を得ました。

メディナセリ公は興味を抱き、援助を約束しました。ただこのような計画は王室の許可を得るべきだと考えたメディナセリ公は、カスティーリャ女王のイサベル1世に計画を知らせました。

(8)スペイン王室への提案

イサベル1世はこれに興味を示し、1486年5月に夫のフェルナンド2世とともにコロンブスに会うことにしました。

そこでこの計画は、懺悔聴聞師の神父を中心とする委員会に諮られることになりましたが、結論は持ち越されました。その後、この提案の検討はカスティリャ枢機院に移されましたが、ここでも否決されました。

しかし、財務長官ルイス・デ・サンタンヘルが、「コロンブスの提示した条件は、見込める収入からすれば可能であり、必要な経費は自分が都合する」とイサベル1世を説得し、彼女も夫のフェルナンド2世を説き伏せ、コロンブスの計画は承認されました。

1492年1月に、ムーア人の最後の拠点であったグラナダが陥落し、スペインに財政上の余裕ができたことも追い風になりました。

(9)サンタフェ契約

1492年4月、グラナダ郊外のサンタ・フェで、コロンブスはスペイン王室と「サンタフェ契約」を締結しました。その内容は次の通りです。

①コロンブスは発見された土地の終身提督(アルーランテ)となり、この地位は相続される。

②コロンブスは発見された土地の副王(ピリレイ)および総督(コベルナドール・ヘネラール)の任に就く。各地の統治者は3名の候補をコロンブスが推挙し、この中から選ばれる。

③提督領から得られた全ての純益のうち10%はコロンブスの取り分とする。

④提督領から得られた物品の交易において生じた紛争は、コロンブスが裁判権を持つ。

⑤コロンブスが今後行う航海において費用の8分の1をコロンブスが負担する場合、利益の8分の1をコロンブスの取り分とする。

3.航海・新大陸発見・原住民大虐殺と晩年

コロンブスの航路

(1)船出

1492年8月3日に、コロンブスは大西洋をインドを目指してパロス港を出航しました。

サンタ・マリア号など3隻で乗組員総数は約90人でした。

(2)新大陸上陸

1492年10月11日に水夫が陸地を発見し、翌朝コロンブスはその島に上陸して占領し、サン・サルバドル島と名付けました。

コロンブス一行は、アラワク族インディアンたちの歓待を受け、水や食料、オウムや綿の玉、槍などを贈られ、コロンブス一行はそれをガラスのビーズや鷹の鈴と交換しました。しかしコロンブスの興味は黄金にしかありませんでした。

コロンブスはこの島で略奪を働き、次に現在のキューバ島を発見し、フアナ島と名付けました。

(3)インディアンに対する大虐殺

1493年9月に、17隻1500人で出発した二度目の航海は、その乗員の中に農民や坑夫を含み、「植民目的」でした。

11月にドミニカ島に到着すると、基地は原住民のインディアンに破壊されており、残してきた乗組員は全て殺されていました。

コロンブスはここを放棄して、「イサベル植民地」を築きました。しかし白人入植者の間では植民地での生活に不満の声が上がり、原住民のインディアンの間では白人の侵略行為に対して怒りが鬱積していました。

そこでコロンブス率いるスペイン軍は、インディアンに対して徹底的な虐殺・弾圧を行い、略奪や無差別殺戮を繰り返しました。

コロンブスがしばらく病に臥せると、彼の軍勢は凶暴性を増し、窃盗・殺人・強姦・放火を行ったり、拷問を駆使してインディアンたちに黄金の在処を白状させようとしました。

コロンブスが復帰すると、彼は略奪や虐殺を組織化し、非武装のインディアンの村々を徹底的ン攻撃し、数千人単位の虐殺を指揮しました。

彼の襲撃戦略は、以後10年間、スペイン人が繰り返した殺戮モデルとなりました。

(4)晩年

インディアンを殺戮し、コロンブスは捕らえたインディアンを奴隷として本国に送りました。しかしイサベル女王はこれを送り返し、コロンブスの統治に対する調査委員を派遣しました。

驚いたコロンブスは慌てて本国に戻って「先住民族への厳しい統治も、黄金をスペインに持ち帰るために仕方なくやったことだ」と釈明し、罪を免れました。

1498年5月、コロンブスは6隻の船で三度目の航海に出ました。今度は南寄りの航路をとり、現在のベネズエラのオリノコ川の河口に上陸しました。彼は最後まで自らが発見した島をアジアだと主張し続けたそうです。

その後、北上してサントドミンゴに着くと、後を任せていた弟バルトロメの統治の悪さから反乱が起きていました。その結果、1500年8月に、本国から来た査察官に逮捕され、本国に送還されました。罪は免れたものの、全ての地位を剥奪されました。

それでもコロンブスは四度目の航海を企画しました。しかし王からの援助は小型のボロ舟4隻だけでした。

1502年に出航したものの、イスパニョーラ島への寄港は禁じられており、パナマ周辺を六ヵ月さまよった挙句、最後は難破して救助され、1504年11月にスペインへ戻りました。

しかし、1504年末にイサベル女王が亡くなり、スペイン王室は彼に対してさらに冷淡になりました。

帰国後病気になり、1506年にスペインのバリャドリッドで亡くなりました。

4.「コロンブスの卵」とコロンブスの残した言葉

(1)コロンブスの卵

「コロンブスの卵」(Egg of Columbus または Columbus’ egg)とは、どんなに素晴らしいアイデアや発見も、ひとたび衆目に触れた後には、非常に単純あるいは簡単に見えることを指す成句です。

ある席で「誰でも西へ航海すればアメリカ大陸に行き当たるのだから、アメリカ大陸の発見は大した業績ではない」と言われたコロンブスは、相手に「では卵を立ててみよ」と応じ、相手が諦めると、コロンブスはテーブルに卵の先端を打ち付けて平らにすることで立ててみせたというのが語源とされる逸話です。

(2)コロンブスの残した言葉

Life has more imagination than We carry in our dreams.
人生は我々が夢見るものよりもっとイマジネーションに溢れている。

It’s presupposing to sail and it isn’t presupposing to live.
航海することが前提であり、生存することが前提ではない。

The sea will grant each man new hope, and sleep will bring dreams of home.
海は人に新しい希望を与え、眠りは家族の夢を与える。

It is easy to discover what another has discovered before.
誰かが過去に発見したものを発見するのは簡単さ。

The imagination is difficult and the imitation is easy.
想像はむずかしく、模倣は容易い。

Everyone needs a inspirations and the courage to try to do being made first.
誰にでもできることでも、最初にやろうとするには閃きと勇気が必要だ。

Have no fear of perfection – you’ll never reach it.
完璧を怖れる必要はない。決してそこには到達しないから。

Following the light of the sun, we left the Old World.
太陽の光を追って我々は旧世界を後にした。

The earth is a sphere and when advancing towards west, I arrive at the Eastern end.
地球は球体であり、西に進めば東端にたどりつく。

Their houses are all built in the shape of tents, with very high chimneys.
彼らの家はすべて非常に高い煙突を持つテントの形をしている。

For the execution of the voyage to the Indies, I did not make use of intelligence, mathematics or maps.
インドへの航海の実行には、知性も数学も地図も活用しなかった。

It’s presupposing to sail and it isn’t presupposing to live.
「我生きる」と言うことを前提にするのではない、「航海」するという事を前提にするのだ。

Gold is a treasure, and he who possesses it does all he wishes to in this world, and succeeds in helping souls into paradise.
金は宝である、金をを持つものはこの世界で望むことすべて可能にし、魂を楽園へ導く。

Tomorrow morning before we depart, I intend to land and see what can be found in the neighborhood.
明日の朝立ち去る前、このあたりで何がみいだされるか上陸するつもりだ。

Riches don’t make a man rich, they only make him busier.
富は人を豊かにはしない。それは人をより忙しくするだけだ。

Each day we understand better what the Indians say, and they us, so that very often we are intelligible to each other.
インディアンが何を言っているか日々理解できるようになっていったのでお互いの理解が進んでいった。

It’s difficult to create one from a zero. It’s easy to make two with one.
0から1を創るのは難しい。1から2を作ることは易しい。

No one should fear to undertake any task in the name of our Saviour, if it is just and if the intention is purely for His holy service.
救世主の名のもとで、もしそれがまさにその意図であり、純粋に神の奉仕のためであるならば、誰もその任務を遂行することを恐れるべきではありません。



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