「竜」にまつわる面白い熟語

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竜生九子

前に「竜を含む面白いことわざ・慣用句・熟語」の記事を書きましたが、「竜」に関してはほかにも面白い熟語があります。

1.「竜生九子(りゅうせいきゅうし)」

「竜生九子」とは、「中国の伝説上の生物の竜が生んだ九匹の子」です。それぞれ姿形も性格も異なっており、各々の性格に合わせた場所でそれぞれ活躍を見せますが、親である竜になることはできなかったということです。これを「竜生九子不成竜」と言います。

この言葉は、兄弟でも性格が違うことを指して用いる場合もあります。

「竜生九子」という言葉は古くからありましたが、それぞれの子については長らく語られませんでした。

しかし、明の時代になって、様々な書物に記載されるようになりました。その代表的なものは、「升庵外集」と「懐麓堂集」ですが、書物によって名前・順序が異なっています。

(1)「升庵外集」

明の文人の楊慎(1488年~1559年)が著した「升庵外集」では次のようになっています。

①贔屓(ひき):形状は亀に似ている。重きを負うことを好む

吻(ちふん):形状は獣に似ている。遠きを望むことを好む

③蒲牢(ほろう):形状は竜に似ている。吠えることを好む

④狴犴(へいかん):形状は虎に似ている。力を好む

饕餮(とうてつ):形状は獣に似ている。飲食を好む

⑥蚣蝮(はか):形状は魚に似ている。水を好む

⑦睚眦(がいさい):形状は竜に似ている。殺すことを好む

⑧狻猊(さんげい):形状は獅子に似ている。煙や火を好む

⑨椒図(しょうず):形状は貝にも蛙にも似ている。閉じることを好む

(2)「懐麓堂集」

明の政治家・詩人の李東陽(1447年~1516年)が著した「懐麓堂集」では次のようになっています。なお、「升庵外集」にない名前のものや同じ名前でも性格の異なる者についてだけ、性格のコメントを添えてあります。

①囚牛(しゅうぎゅう):音楽を好む

②睚眦(がいさい)

③嘲風(ちょうふう):遠きを望むを好む

④蒲牢(ほろう)

⑤狻猊(さんげい)

⑥覇下(はか):重きを負うを好む

⑦狴犴(へいかん):悪人を裁くを好む

⑧負屓(ふき)/贔屓(ひき):文章の読み書きを好む

⑨螭吻(ちふん)/鴟吻(しふん)

(3)滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」

里見義実が海岸の空に「白竜」の昇天する姿を見て、滔々と竜の講釈をする場面では次のようになっています。

①蒲牢(ほろう):鳴くことを好む。鐘の竜頭はこれをかたどって作る

②囚牛(しゅうぎゅう):音曲(なりもの)を好む。琴や鼓の飾りに付ける

③蚩物(せんぶつ):飲むことを好む。盃や飲器に描く

④嘲風(ちょうふう):険しさを好む。堂塔や楼閣の瓦にかたどる

⑤睚眦(こうせい):殺すことを好む。太刀の飾りに用いる

⑥負屭(ふき):文章を好む。印材の杻(つまみ)などに描く

⑦狴犴(ひかん):訴訟を好む

⑧狻猊(しゅんげい):獅子に似る。椅子や曲彔(きょくろく)にかたどる

⑨覇下(はか):重いものを負うのを好む。火鉢の脚や鼎(かなえ)の足に彫る

2.「逆鱗(げきりん)」

普通は「逆鱗に触れる」というふうに使い、「天子の激しい怒りを受けること」「目上の人を激しく怒らせること」です。

「逆鱗」とは、「竜のあごの下にある一枚のさかさまに生えた特別の鱗(うろこ)」のことです。この鱗に触れただけで普段はおとなしい竜が激怒し、必ず殺されるという伝説から、天子の怒りを買うことを「逆鱗に触れる」と言うようになったのです。

天子は「竜顔」「竜体」のように「竜」にたとえられていたので、天子の怒りに用いられたのです。

3.「荘子(そうじ)」の「屠竜の技(とりょうのぎ/とりょうのわざ)」

荘子

「屠竜の技」とは、「高価な犠牲を払って学んでも、実際には役に立たない技芸」「身につけても実際の役に立たない技術」のことです。竜を殺すわざを身につけるのに多くの費用と時間をかけたが、竜がいなかったのでそのわざが役に立たなかったという故事に由来する言葉です。

「荘子」列禦寇には次のようにあります。

朱評漫が支離益に竜を屠る技術を学んだ。千金に授業料を費やし、3年もかかってその術は完全に朱評漫のものとなった。ところが地上に竜という動物は実在しないので、彼の技術はどこにも用いるところがなかった。

これは奇想天外・奇妙奇天烈な「ありえない話」ですが、荘子は「寓話の大家」なので、もちろん「朱評漫」も「支離益」も、架空の人物です。

ただ翻って現代でも、「加持祈祷」や「除霊」「悪霊祓い」などが行われているのを見ると、効果があるとは思えない神仏への祈りをしたり、存在しない悪霊を退治しようというのですから、「屠竜の技」のような役に立たない技術と言えます。しかも、これらはお金を取っているのですから「詐欺」のようなもので、こちらの方がたちが悪いとも言えます。

余談ですが、ここで「使われなくなった言語」としての「ラテン語」にまつわる私の思い出話をご紹介します。

私は、大学1年の時、向学心に燃えていて、貪欲に多くの科目を履修しました。その中の一つに「ラテン語」があります。

その頃、漠然と「学者」になる夢を持っていて、「第二外国語」のドイツ語以外に、法律書などの専門書によく出てくる「ラテン語」も知っておく必要があるのではないか、と思い履修届を出した訳です。昆虫図鑑や植物図鑑の「学名」もラテン語で書かれていました。

第一日目の授業で、まず驚いたのは受講者数の少なさです。50人くらい入れる普通の広さの教室にたった3~4人しかいないのです。何だか寒々しい感じです。

そして、「文法」の説明が始まりましたが、私の心はもうラテン語から離れていました。今、英語に加えて第二外国語のドイツ語も習い始めた中で、「第三外国語」として「死語」のラテン語を勉強するのは「手張り過ぎ」で無理だと感じたのです。それで、先生には申し訳ないことですが、1回の受講だけで断念しました

4.「周処三害(しゅうしょさんがい)」

周処

これは中国三国時代から西晋の武将「周処」(236年~297年)にまつわる故事です。この話では、珍しく竜が「赤竜」という「悪役」になっています。

中国のある所に「周処」という凶暴な若者がありました。三日にあげず暴力を振るうので、村々一帯の悩みの種でした。

周処が問います。(相手が「村の古老」と「自分の母親」の2つのパターンがあります)古老に「豊作なのに村人たちはどうしてみんなふさぎ込んでいるのですか?」母親に「お母さん、大変心配そうな顔ですがどうしたのですか?」

答えはどちらも同じで、「この村には三害があるからだよ」そこで彼がそれは何かと尋ねると、「一つは南山に白額の虎が出没して人を食う、二つ目は長橋の下に赤竜が潜んで人を殺す、最後はお前、周処の凶暴だ」とのことでした。

これを聞いて周処は発奮しました。彼は南山に赴いて虎を刺し殺した後、次に長橋の下へ出かけて川に入って三日三晩格闘し、数十里も流された末ようやく悪竜を始末しました。郷里の人々は周処が死んだものと思い、大喜びしました。戻って来た彼は自分がどれほど人々に憎まれていたかを思い知りました。

そこで改めて自らの身を修めようとして、陸機・陸雲兄弟を訪ねました。陸機が留守だったため、陸雲に面会した彼は自分の事情を告げて「自らの行いを改めたいのですが、私はすでに歳を取っておりますので、もう手遅れでしょうか」と問いました。

陸雲は「古人は『朝に道を聞けば、夕べに死すとも可なり』と言いました。あなたはまだ前途の見込みがありますよ」と答えて励ましました。

こうして周処は行いを改めて学問に励みました。村にも平和が戻りました。

後に周処は、御史中丞という官職につき、寵臣・権力者であろうと憚ることなく不正を弾劾し、厳しくその職務を遂行しました。さらに西南地方の非漢民族との戦いに赴き、奮戦して戦死しました。死後、平西将軍の号を追贈されました。

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