三島由紀夫の持論・思想について

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三島由紀夫

前に「三島由紀夫の生涯」についての記事を書きましたが、彼は独特の持論・思想を持っていました。

その中のいくつかについて、私の個人的な考えも交えてご紹介したいと思います。

1.死生観

江戸時代の武士である山本常朝が書いた「葉隠(はがくれ)」を、彼は戦時中から愛読していました。

彼はそこからさまざまな生きるヒントや活力源、哲学的なものを得られたとして、「毎日死を心に当てることは、毎日生を心に当てることと、いはば同じだといふこと」「われわれはけふ死ぬと思って仕事をするときに、その仕事が急にいきいきとした光を放ち出すのを認めざるをえない」という死生観を「葉隠入門」で述べています。

ただ私は個人的には、彼が「滅びの美学に陶酔している」ように感じられます。彼は同年代の若者たちが「特攻隊員」として華々しく散って行ったことへの負い目がいつまでもあったのでしょうか?

「葉隠」の著者の山本常朝は戦乱の世から50年以上後に生まれましたが、「命を懸けて戦った昔の武士への憧れに似たノスタルジー」を持っていたようです。

一方で常朝は、「上の者に都合の良い封建的で保守的な考え方」の持ち主だったようです。これは武士に理性的な判断を断念させる(「思考停止」を要求する)姿勢です。

太平洋戦争中、日本で「葉隠」が高く評価された理由は、この「思考停止」「判断中止(エポケー)」を国民に求めるのに好都合だったからでしょう。「集団催眠」というか一種の「マインドコントロール」であり、「プロパガンダ」に利用されました。

2.天皇論

彼の天皇についての基本的な考え方は、「日本を日本以外の国から、何が日本かということを弁別する最終的なメルクマール(指標)は、天皇しかない」ということです。

これは「菊と刀」を書いた文化人類学者ルース・ベネディクトの日本人観と一致します。

彼は「天皇の政治上の無答責は憲法上に明記されねばならない」とし、「軍事の最終的指揮権を天皇に帰属せしむべきでない」としています。

これは天皇が「日本の歴史の時間的連続性の象徴、祖先崇拝の象徴」であり、神道の祭祀を国事行為として行い、「神聖」と最終的につながっている存在ゆえに、「天皇は、自らの神聖を恢復すべき義務を国民に対して負う」というのが彼の考えです。

そのため、昭和天皇が戦後「人間宣言」をしたことに彼は憤慨しています。

彼の短編小説「英霊の聲」は、二・二六事件で銃殺刑に処せられた青年将校と、神風たらんと死んだ特攻隊員の霊が、天皇の人間宣言に憤り、呪詛する様子を描いた作品です。

「などてすめろぎ(天皇)は人間(ひと)となりたまひし」(なぜ天皇は人間となってしまわれたのか?)という哀切なリフレインは昭和天皇に向けられています。

二・二六事件の際の天皇の振る舞いと、敗戦後の1946年1月1日のいわゆる「人間宣言」で、天皇が「人間」になってしまったことを、兵士たちの『裏切られた霊』は悲しみ憤り、その英霊たちの声がこだまするのです。

あの暗い世に、一つかみの老臣どものほかには友とてなく、たつたお孤(ひと)りで、あらゆる辛苦をお忍びになりつつ、陛下は人間であらせられた。清らかに、小さく光る人間であらせられた。
それはよい。誰が陛下をお咎めすることができよう。
だが、昭和の歴史においてただ二度だけ、陛下は神であらせられるべきだつた。何と云はうか、人間としての義務(つとめ)において、神であらせられるべきだつた。この二度だけは、陛下は人間であらせられるその深度のきはみにおいて、正に、神であらせられるべきだつた。それを陛下は二度とも逸したまうた。もつとも神であらせられるべき時に、人間にましましたのだ。

— 三島由紀夫「英霊の聲」

しかし私は個人的には、「天皇は神聖でも何でもない」という意見を持っています。

天皇は神聖でも何でもなく、競合する豪族を倒してヤマト政権を樹立した豪族が起源ですが、連綿と万世一系の天皇家が続いて来たわけではなく、継体天皇の時に明らかに別系統となりました。

奇行と好色で有名な花山天皇や、奇行と病弱の冷泉天皇、素行不良で殺人に疑いもかけられた陽成天皇、寵愛した僧・道鏡に皇位を簒奪されそうになった女性天皇・孝謙天皇など、尊敬に値しない天皇もたくさんいます。

平安時代には貴族の藤原氏との勢力争いをし、鎌倉時代・南北朝時代にも武家との権力闘争を繰り返しましたが、後醍醐天皇以降は室町時代・戦国時代から江戸時代を通じて表立った勢力争いはせず、武家の「権威の象徴」的な存在、いわば「傀儡」となりました。

幕末から明治維新(薩摩藩と長州藩による徳川幕府に対するクーデター)にかけて孝明天皇が(病死ではなく)暗殺され明治天皇が長州出身者の大室寅之祐にすり替わったという話は信憑性があると思っています。

つまり「万世一系」でも何でもなくなっています。

戦後生まれの「団塊世代」である私は、もはや天皇は「日本人の精神的支柱」でも何でもないと感じており、天皇に幻想を抱いていません。私よりも若い世代はなおさらだと思います。

旧皇族男子の皇籍復帰や女性宮家創設など天皇家存続のための方策を「有識者会議」が検討しているようですが、明らかに時代錯誤で、大多数の国民は「女系天皇にすれば済む話」と思っているのではないでしょうか?

3.憲法改正論

彼は、GHQ占領下で作られた現行の日本国憲法は「国際政治の力関係によって、きはめて政治的に押し付けられた憲法」であるとし、この憲法が「政体」と「国体」を弁別していないとして問題視しています。

「国体」とは「日本民族・日本文化のアイデンティティ」であり、「政権交替に左右されない恒久性」がその本質で、「政体」はこの国体維持という国家目的・民族目的に最適の手段として国民によって選ばれるが、政体自体は国家目的追求の手段であって、「民主主義」とは「継受された外国の政治制度であり、あくまで政体以上のものを意味しない」と説いています。

憲法9条は、「国際連合憲章の理想主義と、左派の戦術的非戦論とが癒着した条項」であるとし、「一方では国際連合主義の仮面をかぶった米国のアジア軍事連略体制への組み入れを正当化し、他方では非武装平和主義の仮面の下に浸透した左翼革命勢力の抵抗の基盤をなした」とし、この条文は「敗戦国日本の戦勝国への詫び証文」だと述べています。

私は、何も「国体論」を振りかざすまでもなく、自衛隊の存在や現在の国際情勢を考えると、明らかに現実と合わなくなった現行憲法は、躊躇なく改正すべきものと考えています。

自衛権は国家固有の権利であり、日本国憲法の条文に左右されないとはいえ、「能天気な丸腰平和主義」のような現行憲法は早急に改正すべきだと思います。

4.国語教育論

彼は、戦後の政府によって1946年に改定された「現代かなづかい」を使わず、自身の原稿は終生「旧仮名遣い」を貫きました。彼は「言葉にちょっとでも実用的な原理や合理的な原理を導入したらもうダメだ」と主張し、「中国人は漢字を全部簡略化したために古典が読めなくなった」としています。

韓国が1948年に「公文書へのハングル文字の導入」を決めたことや、1970年代に当時の朴正熙大統領が漢字教育を廃止したため今の若い人は漢字が読めなくなり、古典や正しい歴史を知らないようになりました。「知らされなくなった」という方が正しいかもしれません。

これは愚かで偏狭なナショナリズムに基づくものだと私は思います。

中国でも、100年前の1921年の「中国共産党結党」以後の歴史しか教えなくなったため、日本を侵略しようとした「元寇」のことを知らない中国人がほとんどだという話を聞いたことがあります。

また、敗戦後に「日本語を廃止してフランス語を公用語にすべき」と発言した志賀直哉について、彼は「私は日本語を大切にする。これを失ったら、日本人は魂を失ふことになるのである。戦後、日本語をフランス語に変へよう、などと言った文学者があったことは、驚くにたへたことである」と批判しました。

国語教育についても、現代の教育で絶対に間違っていることの一つが「古典主義教育の完全放棄」だとし、「古典の暗誦は、決して捨ててならない教育の根本であるのに、戦後の教育はそれを捨ててしまった。ヨーロッパでもアメリカでも、古典の暗誦だけはちゃんとやってゐる。これだけは、どうでもかうでも、即刻復活すべし」と主張しています。

そして、中学生には原文でどんどん古典を読ませなければならないとし、古典の安易な現代語訳に反対を唱え、日本語の伝統や歴史的背景を無視した利便・実用第一主義を唾棄し、「美しからぬ現代語訳に精出してゐるさまは、アンチョコ製造よりもっと罪が深い。みづから進んで、日本人の語学力を弱めることに協力してゐる」と文部省の役人や教育学者を批判しています。

自身の提案として、「ただカナばかりの原本を、漢字まじりの読みやすい版に作り直すとか、ルビを入れるとか、おもしろいたのしい脚注を入れるとか、それで美しい本を作るとか」を先生たちにやってもらいたいと述べています。

彼は、日本人の古典教育が衰えて行ったのはすでに明治の官僚時代から始まっていたとし、文化が分からない人間(官僚)が日本語教育をいじり出して、「日本人が古典文学を本当に味わえないような教育をずっとやってきた」と述べ、意味が分からなくても「読書百遍意おのずから通ず」で、小学生から「源氏物語」を暗誦させるべきだとしています。

また、「論語」の暗誦、漢文を素読する本当の教え方が大事だとし、支那古典の教養がなくなってから日本人の文章がだらしなくなり、日本の文体も非常に弱くなったとしています。

私は前に「国語改革の愚」についての記事を書きましたが、彼の「国語教育論」には、私も全く同感です。

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