1.皇極天皇(斉明天皇)とは
前に「白村江の戦い」の記事を書きましたが、百済からの救援依頼を受けたこの戦いに、大軍を朝鮮半島に派遣したのが第35代皇極(こうぎょく)天皇(594年~661年、在位:642年~645年)という女性天皇です。
彼女は一旦「譲位」した後に、「重祚(ちょうそ)」して第37代斉明天皇(在位:655年~661年)となった女性天皇です。この「譲位」も「重祚」も、「史上初の出来事」です。
斉明天皇の祖母は漢王の妹で、父の茅渟王(ちぬのおおきみ/ちぬのみこ)は百済王(百済親王)と同一人物という説もあるようなので、渡来人系のようです。
彼女は、初め高向王(用明天皇の孫)と結婚して漢皇子を産みました。後に36歳で舒明天皇の皇后となり、中大兄皇子(後の天智天皇)、間人皇女(孝徳天皇の皇后)、大海人皇子(後の天武天皇)を産んでいます。
聖徳太子(574年~622年)の死後、大豪族の蘇我氏を抑える者がいなくなり、蘇我氏の専横が甚だしくなりました。これが後に中大兄皇子が「乙巳の変」というクーデターを引き起こす原因となります。
舒明天皇が崩御した後、後嗣が定まらなかったため、彼女は48歳で皇極天皇として即位しました。舒明天皇は蘇我蝦夷の妹の法堤郎女を娶る(皇后ではない)など蘇我氏と強い結びつきがあり、蘇我氏の傀儡のような存在でした。そのため、彼女も、蘇我氏の後ろ盾によって天皇に即位したのです。
皇極天皇在位中は、蘇我蝦夷が大臣として重用され、息子の蘇我入鹿が国政の実務を執りました。
2.史上初の「譲位」
2019年に上皇さま(平成天皇)が「生前退位」(譲位)されましたが、最初の譲位がこの皇極天皇です。
彼女は、蘇我蝦夷(そがのえみし)(586年?~645年)と蘇我入鹿(そがのいるか)(611年?~645年)父子に擁立されて即位したため、当然のように蘇我氏を重用しました。
しかし、645年に起こった「乙巳の変(いっしのへん)」で蘇我氏が滅亡したため、後ろ盾を失った彼女は皇位を孝徳(こうとく)天皇(596年~654年、在位:645年~654年)に譲り、政治の表舞台から退いたのです。
彼女は最初、「乙巳の変」というクーデターの首謀者である息子の中大兄皇子(後の天智天皇)に譲位しようとしましたが、彼は辞退して彼女の同母弟の軽皇子(後の孝徳天皇)を推薦したのです。
中大兄皇子がすぐ天皇になると、露骨な権力奪取のためのクーデターと見られる恐れがあるため、政治的思惑による時間稼ぎですぐにはならず、皇太子として実権を握ったうえで「大化の改新」を断行しようとしたためです。
3.史上初の「重祚」
しかし、654年に孝徳天皇が崩御したため、61歳の時に「重祚」して、「飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)」で即位し斉明天皇となりました。実権は引き続き中大兄皇子が握っていました。
ちなみに、現在までに「重祚」した天皇は二人だけで、もう一人は第46代孝謙天皇(718年~770年、在位:749年~758年)で、重祚して第48代称徳天皇(在位:764年~770年)となった女性天皇です。
孝謙天皇は、寵愛した僧(弓削道鏡)に皇位を簒奪されそうになったことで有名です。孝徳天皇の場合は自身の政治的思惑から、一度皇位を譲った相手(淳仁天皇)を廃位して重祚しています。
4.宮殿のための大土木工事、特に「巨大運河建設」で庶民から怨嗟(えんさ)の声
彼女は宮殿造営の大土木工事などの土木工事をたびたび行いました。特に有名なのは宮殿のための「巨大運河建設」です。
彼女は宮殿の東の山に石垣を築くため、石材運搬用の運河を建設し、この運河を築くために3万人を動員しました。
そしてこの運河を使って200隻の船で石材を運び、のべ7万人を使役して宮殿の石垣を築造しました。
これらの土木工事によって、灌漑や水道技術が急速に進歩し、そのノウハウはその後の藤原京や平城京の建設に活かされました。
ただし庶民にとっては、苦役だけの迷惑千万な話であったため、彼らはこの狂気じみた運河を「狂心の渠(たぶれごころのみぞ)」と呼んで非難し、怨嗟の声は天下に満ちたということです。
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