江戸時代の日本は理想的な「循環型社会」だった!?SDGsも参考にすべき知恵

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循環型社会

前に「江戸時代のトイレ事情」という記事を書きましたが、最近「SDGs」や「エコロジー」「循環型社会」の観点から、江戸時代の日本の社会や暮らし方が見直されています。

江戸時代の約250年間、日本は外国から侵攻されることもなく、海外とのやりとりを絶って鎖国をしていました。また、国内でもほとんど戦争のなかった平和な時代でした。そのため、この時代には、日本の経済や文化が独自の発展を遂げました。

当時の日本の総人口は、幕府が開かれてから幕末まで、ほぼ3,000万人ぐらいで、ほとんど変動がなかったといわれます。2世紀半ものあいだ、人口が安定していた国なのです。

江戸の人口は、約100~125万人と推定されており、当時、世界最大の都市でした。当時のロンドンの人口は約86万人(1801年)、パリが約67万人(1802年)です。

現在の日本は、エネルギーの78%、食糧(カロリーベース)の60%、木材の82%を海外からの輸入に頼っていますが、江戸時代の約250年間は鎖国をしていましたから、海外からは何も輸入せず、すべてを国内のエネルギーや資源でまかなっていました。

ところが、日本には石油などの化石燃料はほとんどありません。江戸時代の後期には塩を煮詰めるときに石炭を使っていたという記録がありますが、その量は微々たるものです。つまり、化石燃料をほとんど使わずに、戦争のない時代を作り、素晴らしい文化を発展させた時代だったのです。

江戸時代は、人口も安定し、国内だけの物質収支で成り立っていた循環型の持続可能な社会だったのです。

自給自足」や「地産地消」という言葉があります。現代では「鎖国」はあり得ませんが、サプライチェーンの中国への過度の依存を解消するための「製造業の国内回帰」や食糧安全保障のための「食糧自給率の向上」、ウッドショック回避のための「国産木材の活用」など考えるべきことはたくさんあります。

1.江戸時代の日本は理想的な「循環型社会」

江戸時代・循環型社会

太陽の恵みと植物を利用して、ほぼ全ての物資とエネルギーを賄っていた江戸時代。当時は、衣食住のあらゆる場面で「リサイクル・リユース(循環・再利用)」が行われる完全な「循環型社会」でした。

その後、日本では「大量消費社会」が発展し、循環型社会は損なわれ、我々は環境問題に直面してしまいました。環境問題を乗り越え、新しい形の循環型社会を構築するた めに、我々はもう一度江戸の暮らしに学ぶ必要がありそうです。

2.新しい「循環型社会」のヒントは江戸時代にある

江戸時代の日本は、「生活に使う物資やエネルギー」のほぼすべてを「植物資源に依存」していました。鎖国政策により資源の出入りがなかった日本では、さまざまな工夫を凝らして再生可能な植物資源を最大限に生かし、独自の循環型社会を築き上げるしかなかったのです。

植物は太陽エネルギーとCO2、水で成長することから、言い換えれば江戸時代は「太陽エネルギーに支えられていた時代」だということもできます。「大江戸えねるぎー事情」や「大江戸リサイクル事情」などの著書を持つ作家の石川英輔氏は「江戸時代の生活は、化石燃料に頼らずに生きるための知恵と経験の集積であり、太陽エネルギーだけで生きるとはどういうことなのかを知るために、これほど具体的でわかりやすい見本はない」と語っています。

「地球温暖化」という未曽有の事態に直面した人類は、大量消費社会から新しい循環型社会へ舵を切らざるを得ない状況にあると言われています。

今流行の「カーボンニュートラル」「地球温暖化対策」や「太陽光発電」や「風力発電」などの「再生可能エネルギー」や「電気自動車化」について、私は個人的には疑問を持っています。しかし、江戸時代の「循環型社会」には、学ぶ(あるいは見習う)べき点も多いと思っています。

新しい循環型社会を築く上で、江戸の暮らしから学ぶことは多いと思われます。先人が生み出した知恵や工夫をあらためて検証し、ITやナノテクノロジーなど現代の高度な技術と組み合わせれば、新しい循環型社会の姿が見えてくるに違いありません。

3.江戸時代に学ぶ新しい「循環型社会」のヒント

(1)江戸時代の暑さ対策

<エネルギーゼロで夏の涼をとる>

江戸の人々は、さまざまな工夫や知恵を働かせ生活の利便性を高めましたが、それでも夏の暑さには苦労したようです。冬の寒さは、衣服を着込んだり、火鉢や囲炉裏で炭を燃やせばやり過ごせますが、暑さをしのぐのは大変でした。

打ち水

衣服を脱ぐ、行水をするという方法もありますが、そればかりやっているわけにはいきません。そうした中で生まれた知恵の1つが、「打ち水」です。当時は、夕方になると打ち水をし、縁台を出して涼をとる人々の姿があちらこちらで見られました。科学的根拠に基づいて「気化冷却現象」を利用したわけではないでしょうが、打ち水をすれば過ごしやすくなることを当時の人は感覚的に知っていたのでしょう。

家の中に風を通す」ことも涼をとる工夫として取り入れられていました。当時の住宅は家の向きを十分に考慮し、大きな開口部を設けて、「家の中に風の道をつくる設計」がなされていました。さらに、日射による熱を防ぎながら風だけを通す「簾(すだれ)」や「よしず」も生活必需品として利用されていました。

私が子供の頃に住んでいた明治20年代に建てられた京町家でも、格子戸の玄関から裏庭まで続く「通り庭」(土間)があり、特に風が強い日でなくても北から南に涼しい風が吹き抜けていました。

また、江戸の町を巡る泥道が天然の空調機として働いていたという説もあります。江戸の道が泥道であることは当たり前だと思われるかもしれませんが、実は当時から舗装技術はあったのです。1800年代初期の江戸を書いた「江戸名所図会」という絵入りの地誌には、四谷大木戸(現在の四谷四丁目交差点)の先に立派な石畳の舗装がされた甲州街道が描かれています。

江戸名所図会・四谷大木戸

つまり、舗装技術はありましたがほとんど使われなかったことになります。労力や技術の問題で舗装を進めなかったのかもしれませんが、泥道だったおかげで暑い日には気化冷却が起こり、町全体を冷やす役割を果たしていました。

このように江戸時代は、水や風など自然の力を最大限に生かしながら、エネルギーゼロで生活の快適さを生み出す工夫をしていたのです。

(2)江戸時代の着物リサイクル

<着物は徹底的にリサイクルされ、灰になっても利用された>

当時の着物は一切無駄がありませんでした。たとえば大人用の着物は、細長い一反の布から前身ごろ、後ろ身ごろ、衿、共衿、袖、衽(おくみ)などの部分を切り出して仕立てますが、体に合わせて裁断する洋服とは異なり、半端な断ち落とし部分がないので端切れはほとんど出ません。さらに、着物は着付けの仕方によって調節できるし、すべてが直線縫いのため容易に仕立て直すことができます。

それゆえに背が伸びても、恰幅がよくなっても、一着の着物で賄えるのです。子どものいる家では、最初に大きく着物を仕立て、腰や肩の部分を縫い上げておくのが普通でした。こうしておけば、成長したとき縫い上げた部分をほどいて長くするだけでいいのです。長男が成長して着られなくなれば、次男に着せるのは当たり前です。

繕いの跡やすり切れた部分が目立つようになれば、寝間着、おむつ、雑巾などに転用し、徹底的に使い尽くされた。次々に形を変えて再利用されていく着物の一生は、雑巾で終わりではありません。ぼろぼろの布になった後は、かまどや風呂釜の燃料になるのです。さらに、燃え尽くした後のさえも、農業では肥料、酒造では麹菌の増殖、陶器の上薬として利用されるなど、徹底的に使い抜かれました。

捨てるところがないと言えば、魚の「鮟鱇(あんこう)」が真っ先に思い出されますが、「稲」も「お米」「藁(わら)」「籾殻(もみがら)」「灰」と最後まで利用できる植物です。

「お米」は食用ですが、古米(前年に収穫された米)や古古米(前々年に収穫された米)は家畜の飼料として利用される場合もあります。しかし寿司飯は、酢の浸透が良いという理由で古米を使用する(またはブレンドする)そうです。

「藁」は燃料・飼料・工芸品・生活用具などの原料として、古くから広く利用されて来ました。

焚き付けなどの燃料にしました。私が子供の頃、兼業農家だったので藁が納屋にたくさん積み上げられてあり、五右衛門風呂の焚き付けによく利用しました。

牛馬の飼い葉などの飼料としても利用されました。

日本の藁文化は多彩です。江戸時代までは、藁布団(綿の代わりに藁を詰めた布団)が用いられました。笠・蓑・草鞋・藁手袋や雪国の深沓(ふかぐつ)、注連縄(しめなわ)・藁馬・藁人形、箒や俵、藁苞(わらづと)なども作られました。

私が子供の頃住んでいた家もそうですが、昔の日本家屋の土壁には藁が塗り込められていました。また、余った藁や不要になった藁製品は堆肥として利用されました。

「籾殻」は、稲の穂から取った実の殻のことです。野菜を籾殻の中に保存していたことがあります。私が子供の頃は、卵やリンゴを箱詰めにする時の「緩衝材」としても使われていました。

農家では、畑の地表の保温対策や保湿対策として籾殻を撒きます。土を耕すときに籾殻を混ぜ込むと、パーライトと同じように通気性を高めます。籾殻燻炭にして肥料にすることもあります。

「灰」は私の家でも、昔は藁を燃やした後の灰を茶の間にある大きな火鉢に入れて利用しました。

江戸時代には「灰買い」という職業まであったそうで、染色の定着剤・焼き物の釉薬・土壌の改良剤として広く利用されたようです。

(3)江戸時代の住生活

<長く使い続けるための工夫と知恵と匠の技術>

江戸時代に家を建てることは、大仕事だったことはいうまでもありません。大量の資源と膨大な労力、そして匠の技が投入される家は何よりの財産でした。大切な財産だからこそ、何代にもわたって住み継いでいく工夫が随所に凝らされていました。

石場建て

建物の基礎は、礎石の上に柱を立てる石場立て」と呼ばれる方法が使われていました。この工法は、地面から吸収される水分で柱が腐るのを防ぎ床下の風通しをよくして湿気やシロアリの被害を防ぐ効果があります。その上、地震に対する耐久性にも優れていました。揺れを基礎から上部構造に伝えず逃す柔構造のため、免震効果が高く地震の多い日本に適していました。

家の構造は、金釘を一切使わない継手(つぎて)仕口(しぐち)と呼ばれる技法で柱や梁が組み合わされていました。継手仕口には、用途に応じて「腰掛け蟻継ぎ」「金輪継ぎ」「追掛大栓継ぎ」など、さまざまな技法があり、当時の大工はこれらを駆使して長く住み継げる家を建てました。

この技法は、金釘を使わないため時間がたっても錆・腐食が発生せず、接合部分を解体して組み直せるので増築や改築に適しています。また、木材は時間経過とともに内部の水分が抜け乾燥するため、使えば使うほど強度が高まっていくという特徴があります。

他にも、調湿機能に優れた土壁や漆喰を用いた壁材、狭い家の間取りを自由に変えられる引き戸など、家族の人数が変わっても住み続けられる工夫が随所になされていました。

(4)江戸時代の専門のリユース・リサイクル業者

①リユース(修理)専門業者

・鋳掛け(金属製品の修理専門業者)

上方落語の演目に「鋳掛屋(いかけ屋)」というのがあります。

桂春団冶『いかけ屋』

古い鍋や釜などの底に穴が開いて使えなくなったものを修理して、使えるようにしてくれます。炭火にふいごで空気を吹き付けて高温にし、穴の開いた部分に別の金属板を貼り付けたり、折れた部分を溶接する特殊な技術を持っていました。

・瀬戸物の焼き接ぎ

割れてしまった陶磁器を、白玉粉で接着してから加熱する焼き接ぎで修理してくれる専門職人。

・箍屋(たがや)

40~50年ほど前までは、液体を入れる容器は木製の桶や樽が普通でした。桶や樽は、木の板を竹で作った輪で円筒形に堅く締めて作ってあり、この箍が古くなって折れたりゆるんだりすると、新しい竹で締め直してくれました。

その他にも、提灯の貼り替え、錠前直し、朱肉の詰め替え、下駄の歯入れ、鏡研ぎ、臼の目立てなど、さまざまな修理専門業者がいて、どんなものも丁寧に修理しながら、長く使うことがあたりまえ、という時代を支えていました。

②リサイクル(回収)専門業者

・紙屑買い

不要になった帳簿などの製紙品を買い取り、仕分けをし、漉き返す業者に販売していました。当時の和紙は、10mm以上もの長い植物繊維でできていたので、漉き返しがしやすく、各種の古紙を集めてブレンドし、ちり紙から印刷用紙まで、さまざまな再生紙に漉き返すことができたそうです。

・紙屑拾い

古紙を集める専門業者ですが、買い入れるだけの資金を持っていないので、町中を歩き回っては落ちている紙を拾い、古紙問屋へ持っていって日銭を稼いでいました。

・古着屋

江戸時代までは、布はすべて手織だったので高級な貴重品でした。江戸の町には4,000軒もの古着商がいたともいわれています。

・古傘骨買い

当時の傘は竹の骨に紙を貼り付けたものでした。古傘買いが買い集めた古傘は、専門の古傘問屋が集めて油紙をはがして洗い、糸を繕ってから傘貼りの下請けに出しました。油紙も丁寧にはがし、特殊な包装用に売っていたそうです。

・古樽買い

液体容器として主に使われていた樽の中身がなくなると、古樽を専門に買い集める業者が買って、空樽専門の問屋へ持っていきました。いまでも日本では、ビールびんや清酒の一升びんはしっかりした民間の回収ルートがあって、高い回収・リサイクル率を誇っていますが、その仕事をしているびん商の祖先は、この空樽問屋だった人も多いそうです。

・取っけえべえ

「取っけえべえ、取っけえべえ」と歌いながら歩く子ども相手の行商人で、子どもが遊びながら拾い集めた古釘などを簡単なオモチャや飴などと交換し、古い金属製品などを集めました。

・ロウソクの流れ買い

ロウソクは貴重品でしたから、火を灯したロウソクのしずくを買い集める業者がいました。

・灰買い

薪などを燃やすと灰が出ます。この灰を買い集め、肥料として農村に売っていたのが灰買いです。民家では、箱などに灰をためておき、湯屋や大店など大量の灰が出るところでは灰小屋に灰をためて、灰買いに売りました。

・肥汲み

人間の排出物(下肥)は、1955年頃までの日本の農村では、もっとも重要な肥料でした。下水道のなかったころのヨーロッパでは、排泄物は窓から捨てており、衛生状態が非常に悪かったために、伝染病のペストが繰り返し大流行したほどですが、日本では、貴重な資源として扱われていたのでした。

農家では、下肥を肥料として使うため、契約した地域や家に定期的に汲み取りに行きました。農家がお金を払うか、農作物の現物と交換する形で買い取っていたのです。流通経路が整うにつれ、下肥問屋や下肥の小売商も出現しました。

排泄物まで?と驚かれるかもしれません。究極のリサイクルですが、近代農芸化学の父といわれるドイツの大化学者リービヒは、下肥使用について、「土地をいつまでも肥えたままに保ち、生産性を人口の増加に比例して高めるのに適した比類のない優れた農法」と激賞しました。江戸の町を初めて見た西洋人は「こんなにきれいな都市はない」と驚いたそうです。

4.先人の知恵と先進技術の融合の事例

(1)ゼロエネルギーで都市を冷やす

<打ち水効果を応用した「バイオスキン」>

江戸の人々は、暑さをしのぐために打ち水や簾を利用したと前段で紹介しました。こうした風習は、冷房機の普及によってすっかり影を潜めてしまいました。しかし、打ち水や簾のメカニズムを科学的に解明してみると、非常に合理的であり学ぶべきところが多いのも事実です。

実際、これらの風習が持つメカニズムを先進的技術と融合し、革新的なシステムを生み出した事例があります。それが、ゼロエネルギーでビルと街を冷やす「バイオスキン」である。

「バイオスキン」は、雨と風と太陽という自然エネルギーを使って高層ビルおよびその周辺の温度を下げる革新的なシステムです。株式会社日建設計によって設計されたバイオスキンは、東京・大崎に建設されたソニー株式会社の新オフィスビルに採用されています。

この地上24階の高層ビルの東側の壁面には、各階を縫うように手すり状のパイプが簾のように設置されており、これがバイオスキンの主要構成要素です。

この簾を構成するパイプは多孔質のセラミックで製造されており、その内部は中空構造になっています。パイプは外気にさらされているため、暑い夏には日射によって熱せられます。熱せられたパイプ内部に水を流すと、セラミック内の無数の小さな穴に水が浸透し、温度差によって気化冷却現象が発生するというのが、バイオスキンのメカニズムです。

内部に流れる水は屋上で取り込み、地下の貯水槽に貯められた雨水です。貯水槽の雨水はろ過・塩素殺菌され、同ビルに設置された太陽光パネルの電力でポンプアップされ、各階のパイプを流れる仕組みになっています。いわば高層ビル用打ち水システムです。

実物大模型を使った実験と気流解析シミュレーションによれば、バイオスキンを設置することでパイプの表面温度を最大約10℃下げる効果が期待できるそうです。また、南から吹き込む風がバイオスキンを通過する際に空気が冷やされ、周辺温度も約2℃低下させる効果が期待できます。さらに、ビル周辺の歩行域の平均放射温度も外壁面からの冷輻射によって低下し、快適性が向上するとの試算もなされています。

<バイオスキンの設計を担当した日建設計の山梨知彦氏の話>

バイオスキンは、単に空調コスト削減や省エネを実現するシステムではありません。そもそも開発の出発点は、アスファルトとコンクリートで固められて自然の力を封じられた都市問題に対する我々建築家としての思いにありました。

土地の狭い東京では、大型建築物が建つとビル風、日射量・気温の変化、反射光害など、周辺地域に大きな影響を及ぼす恐れがあります。ヒートアイランド現象やゲリラ豪雨などの問題も、環境への影響を十分に考慮せず街づくりを進めてきた過去の土木・建築に起因しているといわれています。

建築に携わる人間は、この事実を真摯に受け止め、その解決策を追究する責任があるというのが我々の考えです。そこで、我々が目指したのは、新しい建築物を建てることが自然の力を取り戻すことにつながり、街の環境を改善するという、従来とは逆の発想でした。さまざまな検討を重ねた結果、行き着いたのが今回のバイオスキンです。

バイオスキンは、建築物が建つことで周辺環境を改善しうる、かつてないソリューションです。しかし、バイオスキンを既存の建築物に設置すれば、街の環境改善ができるというわけではありません。バイオスキンは、この立地、建築条件、気象条件を考慮した上で生み出されたカスタムメイドなシステムであり、汎用的なものではありません。ですが、バイオスキンに込めた思想は、必ずこれからの街づくりに生かせると考えています。

バイオスキンを備えたオフィスビルは2011年に竣工しました。その効果がシミュレーション通り発揮されるかどうか、検証結果に大きな注目が集まっています。

(2)繊維to繊維のリサイクル

<循環型リサイクルシステム「エコサークル」>

江戸時代の着物は徹底したリサイクル・リユースが行われていました。現代においても、ファッションとしてのユーズドウェアの定着、リサイクルショップの浸透、フリーマーケットでの古着販売、企業やNPOによる古着の回収および途上国への寄付など、さまざまな形でリサイクル・リユースが行われています。

こうした実情をみると、衣服については江戸時代同様の「もったいない」精神が引き継がれているといえるかもしれません。いや、それどころか、現代では江戸時代の常識をはるかに超える進化した衣服リサイクルが実現しています。

それが帝人ファイバー株式会社のケミカルリサイクル技術を核にした循環型リサイクルシステム「エコサークル」です。同社はポリエステル衣料からポリエステル原料を取り出して、新たな衣料へ生まれ変わらせる技術を開発しました。

「従来のリサイクル技術では、再生可能な繊維が限定されたり、品質が安定しないなどの問題がありました。これに対し、帝人ファイバーのケミカルリサイクル技術は、古着などの使用済みポリエステル製品を分子レベルまで分解し、バージン原料と同品質の原料に再生することから何も制約がありません」と、帝人ファイバー株式会社 経営戦略チームの池田裕一郎氏は従来技術との違いを説明しています。

同技術の特徴は、ポリエステル以外の成分が混合された衣料でも、異物を取り除き、バージンポリエステルと同等の原料に再生できることにあります。しかも、リサイクル素材でありながらポリエステル本来の物性が損なわれず、マイクロファイバーや異型断面糸、特殊ポリマーなどさまざまな繊維に加工することができます。さらに、同社の技術を使えば、何度でも高品質のポリエステル原料を再生することができます。

「エコサークルというのは、帝人ファイバーのケミカルリサイクル技術を核にしたポリエステル製品の循環システムの総称です。繊維to繊維の衣料リサイクルは、エコサークルの一部に過ぎません。弊社では、ペットボトルや衣料、フィルムなどのポリエステル製品全般を回収して、新たなポリエステル製品として循環させる仕組みづくりを目指しています」(池田氏)。

エコサークルを利用すれば、石油からポリエステル原料を製造する場合と比較してエネルギー使用量を約84%、CO2排出量を約77%削減できると試算されています。どうやらポリエステル衣料に関しては、江戸時代より現代の方が先を進んでいるようです。

(3)100年、200年と家を住み継ぐ

<匠の技術と現代の快適性を両立させた古民家再生>

現代の日本の住宅の耐用年数はおよそ30年だと言われます。つまり、親が建てた家は子どもの代までもたないということです。何代にもわたって住み継ぐことを前提に設計された江戸時代の住宅とは、思想がまったく異なるといってよいでしょう。

しかし、環境意識が高まる中、住宅の在り方も見直すべきときに来ています。実際、近年では古き家の良さを見直し、改修しながら長く住み続けようという機運が高まっています。古民家再生もその一環といえます。

私が子供の頃に住んでいたのも明治20年代に建てられた京町家でしたが、築後100年を超える古民家には住み継ぐための知恵が数多く詰まっています。古民家の多くは、非常に太い無垢材柱や梁に用いられており、高い強度を誇っています。また、柱や梁というフレームで強度が保たれているため、窓や扉の増設、開口部の拡大、間取りの変更などを自由に行うことができます。

さらに、前段で紹介したように金釘を使わない継手仕口の技法が使われているため強度劣化の心配はありません。一方、現代の住宅は、構造部を接合金具で連結する工法が主流であるため、完成直後の強度は高いが、時間の経過とともに錆や腐食、ボルトの緩みが起きる可能性があります。また、壁と床を強固に一体化した構造が多く、金物の交換や破損箇所の修復が難しく、金物の寿命が住宅の寿命を決めるとの指摘もあります。

数々の古民家再生を手掛けてきた株式会社和田工芸の和田勝利氏は次のように話しています。

古民家の再生は住み手のニーズに合わせることが重要です。柱や梁など優れた構造材は最大限に生かすべきですが、100年前の生活習慣をすべて継承することはありません。「寒い」「暗い」「不便」といった古民家の弱点を解消し、生活スタイルに合う間取りに変えたり、断熱材を取り入れるなど、現代の技術をうまく融合させることが、長く快適に暮らすための秘訣です。

住み継ぐ文化は現代の住宅技術と融合して継承される傾向にありますが、その実現には、伝統的な継手仕口などの技を習得した職人が欠かせません。匠の技を継承する人材の育成が住宅業界の大きな課題となっています。



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