ノーベル賞に数学がない理由は恋敵が数学者だったから!?恋文で大金を取られた?

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ノーベル

今年も「ノーベル賞の季節」がやって来ました。毎年村上春樹が「ノーベル文学賞」を受賞できるかどうかが話題になります。かつては川端康成三島由紀夫との「ノーベル文学賞」受賞を巡る確執もありましたね。

今年(2021年)の日程は、10月4日の医学・生理学賞を皮切りに、物理学賞が5日、化学賞が6日、文学賞が7日、平和賞が8日、経済学賞が11日となっています。各賞の授賞式は、創設者アルフレッド・ノーベルの命日に当たる12月10日に開かれる予定です。

なおノーベル賞を運営する「ノーベル財団」は、新型コロナウイルスの影響を考慮し、メダルなどの授与は去年に引き続き、受賞者が居住する国で行うことを明らかにしています。

1.ノーベルとは

(1)ノーベルとは

アルフレッド・ノーベル(1833年~1896年)は、スウェーデンの化学者、発明家、実業家で「ダイナマイトの発明者」です。

父の経営する鉄工所を単なる鉄工所から兵器メーカーへと発展させました。350もの特許を取得しましたが、中でもダイナマイトが最も有名です。ダイナマイトの開発で巨万の富を築いたことから、「ダイナマイト王」とも呼ばれました。

遺産を「ノーベル賞」の創設に使用させました。自然界には存在しない元素ノーベリウムはノーベルの名をとって名付けられました。ディナミット・ノーベルやアクゾノーベル(どちらもノーベルが創業した会社の後身)のように現代の企業名にも名を残しています。

(2)ノーベルの生涯

彼はストックホルムに生まれ、1841年生地の小学校に入学、1842年家族とともにサンクト・ペテルブルグに移住、以後正規の教育を受けることはありませんでした。

サンクト・ペテルブルグでは、彼の関心をニトログリセリンに向けた化学者ジーニンらに個人教授を受けました。17歳でスウェーデン、ドイツ、フランス、イタリア、アメリカへ2年間の修業に出て、化学や機械学、語学を学んでいます。

クリミア戦争(1853~1856)の間は父の軍需工場を手伝い、機雷の敷設など実際的な技術を学びました。1863年ストックホルムに戻り、黒色火薬や綿火薬に代わる、ニトログリセリンの研究を父とともに開始しました。

ニトログリセリン衝撃や摩擦で爆発しますが、普通の火薬のように点火しただけでは爆発しません。これを爆薬に使うには安全で確実な爆発方法の開発が必要でした。ノーベルはヘレーネボルグに建てた実験所で50回を超える慎重な実験を行い、ニトログリセリンの爆発には全量を急激に爆発温度(170~180℃)に熱する必要があることを確かめました。

1864年、密閉したニトログリセリンを起爆装置を使って爆発させることに成功、いわゆる「雷管」の特許を得ました。このときの起爆剤は黒色火薬でしたが、後に雷酸水銀を使いました。

1866年、扱いにくい液体のニトログリセリンを固体状にするために、それを吸収させる固形物の実験を開始、1867年、珪藻土(けいそうど)にニトログリセリンをしみ込ませたダイナマイトを開発しました。

この間、ニトログリセリンの普及で爆発事故が相次ぎ、ノーベル自身弟を事故で失うなど多くの犠牲者が出て国際的物議を醸しましたが、彼は科学的、系統的な実験を繰り返しました。

1876年、より爆発力の大きいダイナマイトゴムを、1887年には200回以上の実験のすえ無煙ニトログリセリン火薬「バリスタイト」を開発しました。

ダイナマイトは、産業資本を成立させた欧米諸国の帝国主義への飛躍の時代に、鉄道・土木ならびに軍事技術上の貴重なエネルギー源となりました。各国にダイナマイト工場が建設され、1886年世界最初の国際的特殊会社「ノーベル・ダイナマイト・トラスト」を創設、ノーベルは巨万の富を得ました。

彼自身は平和を愛し、科学の進歩に信頼を寄せていたと言われます。彼が生涯に各国でとった355の特許は広い分野にわたり、世界市民を自称し、1873年フランスに、1891年からはイタリアに居を構え、1896年12月サン・レモで死去しました。

彼の莫大な遺産は、平和思想の普及と科学進歩のためにとストックホルム科学アカデミーに寄贈され、ノーベル賞が設けられました

(3)ノーベル賞創設のきっかけ

なお、ノーベル賞創設のきっかけとなったという面白いエピソードがあります。

ある日、新聞に次のような記事が掲載されました。

「ノーベル博士:可能な限りの短い時間で、これまで例のないほど大勢の人間を殺害する方法を発明し、富を築いた人物が昨日、死亡した」

これを読んで驚いたのはノーベル自身でした。なにしろ自分はこうして生きているからです。これは「新聞の大誤報」で、「ノーベルの兄」の死を誤って報じたのです。

彼は、自分がこのまま死んだら「ダイナマイトを発明して多くの人命を奪った人間」として歴史に名が残ってしまうと思い、大きなショックを受けました。

この出来事がきっかけとなって、彼はノーベル賞の創設を決意したということです。

もう一つは、「ノーベルが若い女ゾフィー・ヘスに騙されたことがきっかけ」という説です。これについては3.「ノーベルが出した恋文で相手の女性から大金を搾り取られた話」で詳しくご紹介します。

2.ノーベル賞に「数学賞」がない理由

ノーベル賞に「数学賞」がない理由については、いくつかの説があります。

「ノーベルは数学に興味がなかったから」という説もありますが、もう一つの有力な説は、「アーサー・フォン・ズットナーという著名な数学者が、ノーベルと仲が悪かったから」というものです。

1876年にノーベルは女性秘書を募集しました。そして応募してきたベルタ・キンスキー(1843年~1914年)(下の画像)という女性に心を奪われました。彼女は33歳でオーストリア貴族の娘でした。ノーベルはこの時43歳で独身でした。

ベルタ・キンスキー

しかしベルタにはすでに婚約者がおり、すぐにノーベルの元を去りました。その婚約者こそ数学者のアーサー・フォン・ズットナー(1850年~1902年)だったのです。

ノーベルにとっては恋敵(こいがたき)が数学者だったため、「ノーベル数学賞」を設けなかったという説です。ただし、ズットナーは数学者ではなかったという話もあります。

余談ですが、ベルタはノーベルの死後の1905年に、「ノーベル平和賞」を女性として初めて受賞しています。

実はベルタは小説家で急進的な平和運動家でもあり、1889年に小説「Die Waffen nieder!(武器を捨てよ!)」を発表し、平和活動の先駆者となっています。

1891年にはオーストリア平和の友の会を設立しました。1892年には国際平和ビューローに加入し終身会員であり同副会長も務めました。彼女の活動は国際的なものとなり、平和運動誌「武器を捨てよ」(彼女の著書から取られた誌名)を発行しました。彼女の活動はヘンリー・トマス・バックル、ハーバート・スペンサー、チャールズ・ダーウィンらに大きな影響を受けたものでした。

ノーベルとの個人的関係は彼女が秘書をやめた後も続きましたが、ノーベルの晩年には対立もしていました。これは彼女が、平和への取り組みで平和会議や講演、出版などを主体とした平和協会の設立を訴えていたのに対し、ノーベルは国家間の安全保障条約の締結や現在の国連のような組織を目指していたためで、ノーベルとのやり取りは1896年にノーベルが死去するまで文通で続けられました。

そのためノーベルがノーベル賞に平和部門を創設したのは彼女の影響が大きかったとされ、自身も平和賞創設に貢献したことを主張していましたが、当時のノーベル財団側はこれを否定していました。

また、平和賞創設の際は初受賞は彼女であると噂されていましたが実際の受賞はノーベル死後9年後の1905年のことでした。(これは当時のスウェーデン国王オスカル2世が彼女を「過激な平和運動家」として嫌ったからとも言われています。)「武器を捨てよ!」は1914年に映画化されました。

3.ノーベルが出した恋文で相手の女性から大金を搾り取られた話

ベルタがノーベルのもとを去ってから2ヵ月後、43歳のノーベルは町の花屋の売り子で23歳も年下のゾフィー・ヘスと恋に落ちました。

ノーベル賞が創設されたのは、ノーベルが若い女ゾフィー・ヘスに騙されたことがきっかけとも言われています。

ノーベルの遺言執行人の1人、ソールマンが書いた「アルフレッド・ノーベルの遺産 ノーベル賞の背後の物語」に書かれています。

当時ノーベルが23歳も年下の庶民の娘と付き合えば、世間から白い目でみられるのは明らかなため、彼はゾフィーを自宅にこっそり呼び寄せ上流階級の知性と教養を教えました。

ゾフィーは贅沢な生活を覚えてしまい、どんどんわがままな女性になっていきましたが、彼は世間に知られないよう15年間もそのままの生活を続けました。

ゾフィーは彼が旅で不在の間に、複数の男と浮気し子供まで作りました。さすがの彼もゾフィーの妊娠を知り、別れる決心をしました。

ゾフィーは2人の交際の事実を公表すると、これまでのノーベルとの生活を書いた日記をネタに、ノーベルを脅迫し、延々と大金をもらい続けました。これではまるで「ゆすり・たかり」というか「恐喝」という犯罪行為ですね。

ゾフィーとの関係を反省したノーベルは財産を有意義に使うべく1985年にノーベル賞創設の遺言を書いて他界し、その後この遺言をもとに1901年にノーベル賞が創設されました。

しかしノーベルの死後、ゾフィーはノーベルからもらった216通のラブレターと写真を遺言執行人に法外な値段で売りつけ巨万の富を得ました。

ゾフィーが15年間に勝手気ままに使ったお金の額は、現在のお金で225億円以上、買い与えたパリの家、2億3千万円、別れたあとも日記をネタにゆすり、1年間に15億円、ノーベルが5年後に亡くなるまでに約75億円と、ノーベルがゾフィーに払った額の合計は、約302億円以上に上ります。

さらにノーベルが死んだあとも遺言にもとづき、毎年15億円をもらっていました。またノーベルの死後、ノーベルからのラブレターをノーベル財団に売却しています。

かつて日本人公務員に11億円を貢がせたチリ人女性のアニータさんの事件にも驚きましたが、それと比べ物にならない桁違いの貢がせっぷりですね。

4.「経済学賞」は当初にはなく、追加された特殊な存在

「ノーベル経済学賞」は、私の子供の頃はありませんでした。

1968年スウェーデン国立銀行設立300周年祝賀の一環として、ノーベル財団に働きかけ、設立された賞です。

私が大学生の頃、経済学の教授が「私もノーベル賞をめざして頑張ります」と話していたのが印象に残っています。1970年には、当時「経済学入門の教科書」として日本でも広く用いられた「経済学」の著者ポール・サミュエルソンが受賞しました。

「ノーベル経済学賞」は通称として広く用いられていますが、ノーベル財団は、同賞は「ノーベル賞ではない」 として後述の正式名称を用いるか、単に「経済学賞」と呼びます

しかしスウェーデン王立科学アカデミーにより選考され、ノーベル財団によって認定され、授賞式・その他一般はノーベル賞と同じように行われています。

王立科学アカデミーは新しいノーベル賞として設立を承認したものの、アルフレッド・ノーベルの子孫やノーベル文学賞の選考を行うスウェーデン・アカデミー賛成していません

「ノーベル賞を創設した故人の遺志に背く」という理由かもしれませんが、「賞が増えることによる資金不足の懸念」もあるのではないかと思います。

それにしてもノーベルの遺産(ノーベル財団)の運用によって、350年以上もノーベル賞の授与が続けられているのですから、ノーベルがダイナマイトの発明によっていかに莫大な利益を上げたかが想像できます。

5.「ノーベル製菓」の社名の由来(蛇足)

のど飴などでお馴染みの「ノーベル製菓」の社名の由来は、同社の創業者が湯川秀樹博士と知り合いだったため、湯川秀樹博士の「ノーベル物理学賞」受賞(1949年)と同時に「ノーベル」の商標登録を出願し、後に社名としたものです。

ノーベルが創業した会社とは何の関係もありません。

ノーベル製菓

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