1.家治の正室・五十宮倫子(心観院)とは
「五十宮倫子(いそのみやともこ)」(1738年~1771年)は、江戸時代後期の皇族で、閑院宮直仁親王(かんいんのみやなおひとしんのう)第六王女です。江戸幕府10代将軍徳川家治の正室(御台所)となりました。幼名は五十宮(いそのみや)。第113代東山天皇の孫、第119代光格天皇の叔母にあたります。
寛延元年(1748年)に徳川家治と婚約して江戸に下向し、宝暦4年(1754年)に輿入れしました。二女(千代姫と万寿姫)を儲けましたが、千代姫は2歳、万寿姫は13歳で夭折しています。五十宮倫子も33歳の若さで亡くなりました。院号は心観院(しんかんいん)。
家治との夫婦関係は仲睦まじいものだったようです。西の丸において家治が倫子に会う為に頻繁に大奥に訪れたところ、倫子付きの御年寄たちが拒んだため、家治付きの女中たちが憤慨し、倫子付きの女中たちとの間で不和が生じました。そこで家治の乳母である岩瀬が登城して、両者を和解させたということです。
2.家治の側室・お知保の方(蓮光院)とは
「お知保(ちほ)の方」こと「蓮光院(れんこういん)」(1737年~1791年)は、寛延2年(1749年)から大御所・徳川家重の「御次」として仕え、宝暦11年(1761年)に家治付の「御中臈」となりました。
宝暦12年(1762年)に長男・竹千代(後の家基)を出産しましたが、家治の正室・倫子に子がいなかったため、大奥の松島局の勧めもあり、竹千代は倫子の養子として育てられました。
明和8年(1771年)に倫子が死去して以降は、お知保の方は「御部屋様」となり、「将軍継嗣の生母」として君臨し、家基と共に暮らしました。
しかし、その期待の家基も安永8年(1779年)に18歳の若さで急死し、「将軍生母の夢」が破れるという凶運に見舞われました。寛政3年(1791年)3月8日、54歳で死去しました。
3.徳川家治とは
徳川家治(とくがわいえはる)(1737年~1786年、在職:1760年~1786年)は、江戸幕府10代将軍です。幼名竹千代。9代将軍徳川家重(いえしげ)の長子で、母は梅渓(うめたに)氏お幸(こう)です。
幼少時よりその聡明さから、8代将軍であった祖父・吉宗の期待を一心に受け寵愛されて育ちました。吉宗は亡くなるまで、家治に直接の教育・指導を行いました。それは、言語不明瞭だった家重に伝授できなかった、帝王学の類を教えるためでもありました。
家治が文武に明るかったのは、吉宗の影響が非常に大きいようです。父の遺言に従い、田沼意次を「側用人」に重用し、老中・松平武元らと共に政治に励みました。
しかし松平武元が亡くなると、田沼を老中に任命して幕政を任せ、次第に自らは将棋などの趣味に没頭することが多くなりました。
治政中は宝暦(ほうれき)~天明(てんめい)期(1751~89)の幕藩制転換期にあたり、しかも明和(めいわ)の江戸大火、天明の浅間山大噴火、大飢饉(だいききん)と百姓一揆(ひゃくしょういっき)、都市打毀(うちこわし)の大高揚と社会不安の激化した時期とぶつかっていました。
田沼は印旛沼・手賀沼干拓を実施し、蝦夷地開発や対ロシア貿易を計画しました。安永8年 (1779年) 、家治の世子・徳川家基が18歳で急死したため、天明元年(1781年)に一橋家当主・徳川治済の長男・豊千代(後の第11代将軍・徳川家斉)を自分の養子としました。
法号は浚明院(しゅんめいいん)。贈正一位太政大臣(だいじょうだいじん)。上野の東叡山(とうえいざん)寛永寺(かんえいじ)に葬られました。