1.家慶の正室・楽宮喬子(浄観院)とは
「そうせい様」とあだ名された家慶の正室「楽宮喬子(さざのみやたかこ)」(1795年~1840年)は、江戸幕府12代将軍・徳川家慶の正室(御台所)です。15代将軍・徳川慶喜の伯母にあたります。幼称は楽宮(さざのみや)、院号は浄観院(じょうかんいん)です。
有栖川宮織仁親王の第六王女で、母は側室の高木敦子(通称・常盤木、織仁親王の没後は落飾して常信院)。兄に有栖川宮韶仁親王・梶井宮承眞法親王・輪王寺宮舜仁入道親王・知恩院宮尊超入道親王など、妹に吉子女王(貞芳院、水戸藩主・徳川斉昭御簾中、15代将軍徳川慶喜母)などがいます。
享和3年(1803年)に家慶と婚約し、翌文化元年(1804年)、幕府の希望により喬子女王は数え10歳で江戸へ下向し、以後婚儀までの5年間を江戸城西ノ丸で過ごしました。文化6年(1810年)、正式に家慶と婚姻、「御簾中様」と称されました。
文化10年(1813年)に長男・竹千代を生みましたが、翌年に死去しました。文化12年(1815年)に次女・儔姫、文化13年(1816年)に三女・最玄院を生みましたが、いずれも夭折しました。
文政5年(1822年)に従三位に叙せられました。天保8年(1837年)、家慶の将軍就任により本丸大奥に移り、「御台所」となりました。
しかし、家慶の将軍就任から3年後に亡くなりました。
2.家慶の側室・お美津の方(本寿院)とは
「お美津の方」こと「本寿院(ほんじゅいん)」(1807年~1885年)は、江戸幕府12代将軍・徳川家慶の側室で、十三代将軍・徳川家定の生母です。他にも2人の男児を出産しましたが、いずれも早世しました。本寿院は落飾後の院号で、実名は美津、堅子とも言います。
父は幕臣の跡部正賢(跡部正寧とする説もあります)で、姉に、松平斉善の侍女となった浜尾(本立院)がいます。
文政5年(1822年)に西の丸大奥に出仕し、翌年に将軍家継嗣・徳川家慶のお手付き中臈となりました。文政7年(1824年)に西の丸大奥にて政之介(後の13代将軍家定)を出産しました。政之介のことは全て乳母の歌橋に任せていました。美津は西の丸大奥で「お部屋さま」と呼ばれるようになりました。文政9年(1826年)に春之丞、文政11年(1828年)に悦五郎を生んでいます。
天保8年(1837年)に11代将軍徳川家斉が将軍職を家慶に譲ると、家慶は家斉と入れ替わりで本丸に入り、お美津の方や他の側室、上臈御年寄り姉小路、万里小路らが本丸大奥に入りました。お美津の方の子・政之介が将軍家継嗣と定められ、お美津の方は次期将軍生母となり、それに相応しい身分「御年寄上座」を与えられました。
翌天保9年(1838年)に家慶の命により、政之介と共に二の丸大奥に居を移します。大御所・家斉が死去すると、美津と政之介は二の丸から西の丸大奥に居を移します。
嘉永6年(1853年)6月22日に家慶が亡くなると、美津は落飾し、本寿院と号しました。そして家定が13代将軍となり、将軍生母として本丸大奥に居を構えました。
3.徳川家慶とは
12代将軍・徳川家慶(1793年~1853年、在職:1837年~1853年)は、「オットセイ将軍」と呼ばれた11代将軍・徳川家斉(1773年~1841年)の次男です。
長兄である竹千代が早世したため将軍継嗣となり、1837年に45歳で父・家斉から将軍職を譲られましたが、家斉が大御所として強大な発言権を保持していました。
家斉の死後に、家慶は四男・家定を将軍継嗣に決定しています。
彼は老中首座の水野忠邦(1794年~1851年)を重用し、家斉派を粛清して綱紀粛正・質素倹約を掲げた「天保の改革」(1841年~843年)を行わせました。
しかし、この改革はあまりに性急であまりに厳しすぎたため、庶民からも大いに反感を買い、わずか2年で失敗に終わりました。
改革の失敗で水野忠邦が失脚した後の1843年、25歳の阿部正弘(1819年~1857年)を老中に抜擢しました。
阿部正弘は有力諸藩の改革派勢力に対して柔軟な路線を採用したため、結果的に幕末の雄藩連合運動の素地を作ることになりました。
父・家斉を反面教師にしていた家慶ですが、精力絶倫ぶりは父親譲りだったようで、彼も27人の子供を儲けました。しかし皮肉なことに、無事に成人したのは13代将軍となる家定(1824年~1858年、在職:1853年~1858年)だけという悲しい結果に終わりました。
さらに家定自身も病弱で実子を残さなかったため、家慶の血筋は断絶しました。