佐原鞠塢(さはらきくう) 江戸時代の長寿の老人の老後の過ごし方(その14)

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佐原鞠塢

前に「江戸時代も実は『高齢化社会』だった!?江戸のご隠居の生き方に学ぶ」という記事を書きましたが、前回に引き続いて江戸時代の長寿の老人(長寿者)の老後の過ごし方・生き方を具体的に辿ってみたいと思います。

第14回は「佐原鞠塢」です。

1.佐原鞠塢とは

佐原鞠塢(さはらきくう)(1762年~1831年)は、仙台生まれの江戸後期の骨董商・文人・本草家です。姓は佐原、幼名は平八。北野屋平兵衛、北野宇兵衛、菊屋宇兵衛のち剃髪して鞠塢などと称しました。

天明年間(1781年~1789年)に江戸に出て、「江戸三座」の一つである「中村座」の芝居茶屋に奉公しました。10年ほど働いて蓄えた財産を元手にして、日本橋住吉町(現・中央区日本橋人形町)に北野屋平兵衛と名乗って骨董屋を開きました。

商才・鑑識眼に優れ、加藤千景・亀田鵬斎・大田南畝(蜀山人)ら多くの文人から愛顧を受けて商売は繁盛し、文化の華開く時代に一代で財をなしました。しかし、商売上の問題で咎めを受け隠居、さらに剃髪して佐原鞠塢と称しました。

文化元年(1804年)「所払い」(*)となり、向島寺島村に約3,000坪(約1万㎡)の土地を買い、花木や草花を集めて「向島百花園」を開き、「文人墨客のサロン」となりました。

(*)「所払い」とは、江戸時代の追放刑の一つ。罪人に対し、居住していた地域(居村・居町)へ立ち入りすることを禁止した刑。年貢未納などの場合を除いては、「財産の没収(闕所:けっしょ)」が付加されることもなく、追放刑のなかではもっとも軽いものでした。この刑に該当する罪は、関八州(かんはっしゅう)外で発砲した場合、人別(にんべつ)帳に記載せず寄留したりさせたりした場合、妻に離縁状を与えずに再婚した場合、などです。

加藤千蔭・村田春海・大田南畝・亀田鵬斎・大窪詩仏ら著名な文人の協力によって、梅樹を植え文人趣味の作庭の名園としました

向島百花園

向島百花園と東京スカイツリー

当初は360本の梅が主体で、「亀戸梅屋敷」に対して、「新梅屋敷」とも呼ばれました。現在は都営庭園となり、国の史跡・名勝に指定されています。

百花園には早い時期から、身分の高い武家や僧侶の休憩場所として、数寄屋造りの「御成座敷」の一棟がありました。この御成座敷は松尾芭蕉のファンであった酒井抱一の設計と伝えられています。

創建当時の「御成座敷」は戦災によって焼失してしまいましたが、1958年に現在の集会施設として再建されました。

『都鳥考』で墨田川の都鳥は鴎の一種と説いています。著作としてはほかに、『春野七草考』『秋野七草考』『群芳暦』『墨水遊覧誌』などがあります。

天保2年(1831年)に69歳で亡くなりました。

2.佐原鞠塢の老後の過ごし方

骨董屋をやめて隠居した先が中之郷(現・向島1丁目付近)でした。やがて向島墨堤のほとりにあった旗本・多賀氏の屋敷3,000坪を購入し、庭園を開きました。

この庭園に骨董屋時代のなじみであった文人たちが集まりはじめ、文学や芸術を語る文化サロンとして利用されるようになりました。当初は「新梅屋敷」、「花屋敷」などと呼ばれていましたが、「梅は百花に魁(さきが)けて咲く」という画家の酒井抱一の言葉から「百花園」と名付けたと伝わっています。

文政2年(1819年)に園内に窯を築き、隅田川周辺の土を使った焼き物をつくり、「隅(角)田川焼」と名付けて好評を博しました。また、墨堤の桜の補植にも尽力しました。

彼の老後は趣味を貫きつつ、利益を出すという理想的な人生だったのではないかと思います。

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