伊能忠敬 江戸時代の長寿の老人の老後の過ごし方(その17)

フォローする



伊能忠敬

前に「江戸時代も実は『高齢化社会』だった!?江戸のご隠居の生き方に学ぶ」という記事を書きましたが、前回に引き続いて江戸時代の長寿の老人(長寿者)の老後の過ごし方・生き方を具体的に辿ってみたいと思います。

第17回は「伊能忠敬」です。

彼については「伊能忠敬が55歳の老齢で日本地図を作ろうとしたのはなぜか?」「伊能忠敬はどうやって地球の大きさを測ったか?世界初の測定者はエラトステネス」という記事も書いていますので、ご興味をお持ちの方はこちらもご一読ください。

1.伊能忠敬の老後の過ごし方

老後人生に花を咲かせた測量家の伊能忠敬(いのうただたか)(1745年~1818年)は、商家の元主人で分限長者の私的年金者でした。

現代は「人生100年時代」と言われているように、55歳は働き盛りでまだまだ元気な年齢ですが、江戸時代は「楽隠居」をする年齢だったと思います。

しかし、その年齢から徒歩で日本各地を歩いて測量し、初めて精密な日本地図を完成させた伊能忠敬とは一体どのような人物だったのでしょうか?

(1)3人の妻

彼は宝暦12年(1762年)に最初の妻・ミチと結婚し、正式に伊能家を継ぎました。このとき彼は満17歳、ミチは21歳で、前の夫との間に残した3歳の男子が1人いました。

天明3年(1783年)に妻・ミチが42歳で死去してから間もなく、彼は内縁で2人目の妻を迎えました。この妻については詳しいことは分かっておらず、名前も定かではありません。天明6年(1786年)に次男・秀蔵、天明8年(1788年)に三男・順次、寛政元年(1789年)に三女・コト(琴)が生まれ、妻は寛政2年(1790年)に26歳で死去しました。一方、最初の妻・ミチとの間に生まれた次女・シノも、天明8年に19歳で死去しました。寛政2年(1790年)、45歳の彼は仙台藩医である桑原隆朝の娘・ノブを新たな妻として迎え入れました。

(2)45歳ごろから「隠居して新たな人生を歩みたい」と思い始める

45歳ごろから、彼は「隠居して新たな人生を歩みたい」と思うようになりますが、彼の名主や商人としての力が必要なためなかなか「隠居」の許しが下りません。そのころ彼が興味を持っていたのが「暦学」で、江戸や京都から暦学の本を取り寄せて勉強したり、天体観測を行ったりして日々を過ごし、商売は実質的に長男に任せていました。現代風に言えば「アマチュアの天文マニア」だったのですね。

48歳の時、久保木清淵らとともに、3カ月にわたって関西方面へ旅行しています。その時の旅行記には、各地で測った方位角や天体観測で求めた緯度などが記されており、測量への関心を窺わせます。

(3)49歳で長男に家督を譲り「隠居」となる

彼は49歳で家督を長男に譲って「隠居」となり、50歳の時、単身江戸へ出て本格的に天文・暦学の勉強を始めます。この時、彼が弟子入りした師匠は、19歳も年下の高橋至時(よしとき)(1764年~1804年)でした。

(4)「測量による日本地図作成」という難事業に挑む彼の決心に影響を与えた人物

一人は祖先の伊能景利で、隠居してから膨大な記録をまとめるという仕事に取り組んでいます。もう一人は彼の近所に住んでいた揖取魚彦で、隠居後に江戸へ出て国学者・歌人として活動しています。

彼はこの二人の人物に触発されて、自分が一番好きで興味のある天文や測量の仕事残された人生でチャレンジしてみようと思ったのでしょう。

彼は「地球の大きさを求めるプロセスの中で、「日本の正確な地図を作ることが必要という結論にたどり着いたのです。

このチャレンジ精神が、「測量による日本地図作成」という壮大な事業を彼に計画させ、成功まで導いたのでしょう。

(5)10次・17年間に及ぶ日本全国の徒歩による精密な測量

彼は1800年から1816年まで、17年間をかけて日本全国を徒歩で測量して回り、「大日本沿海輿地全図」を完成させ、日本の国土の正確な姿を明らかにしました。

第2次測量までの実績が認められて、第3次測量からは手当も大幅に増え、ようやく費用の収支が合うようになったそうですが、それまでは彼の「自腹」の部分が多かったようです。

(6)当時の幕府は伊能忠敬の「大日本沿海輿地全図」を正当に評価せず、死蔵

彼は73歳で亡くなりました。彼がこれほど苦労して作って幕府に献上した日本地図ですが、正当に評価され、実際に広く活用されたかというとそうではありませんでした。理由は、幕府がこの地図の正本を秘蔵して誰にも見せなかったからです。

ただ、この「正本」を元にして、何部かの「複製」が内密に作られました。しかしそれも、ごくわずかの大名などが秘蔵していたようです。

(7)「シーボルト事件」以降に彼の地図の正確性や有用性が明らかになる

彼の地図が世の中の人々に知れ渡るようになったのは、幕府天文方・書物奉行の高橋景保がこの地図をシーボルトに密かに渡し、シーボルトが「この日本地図を国外に持ち出すこと(国禁)」を計画した「シーボルト事件」(1828年)からです。

1855年に設けられた「長崎海軍伝習所」では、彼の地図が、「航海上、唯一の灯明台」として使用され、大いに役立ったとのことです。

1861年にイギリスが日本の海岸線を測量させるように要求した時、幕府は拒否できず役人を立ち会わせることにしましたが、幕府の役人が持っていた伊能忠敬の実測図を見て、それまでの実測結果と照合して極めて正確であることを知り、測量を中止したという話もあります。

2.伊能忠敬の名言

①人間は夢を持ち前へ歩き続ける限り、余生はいらない

②歩け、歩け。続ける事の大切さ

③後世の役に立つようしっかりした仕事がしたい

④天文暦学の勉強や国々を測量することで後世に名誉を残すつもりは一切ない。いずれも自然天命である

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村