日本初の「なぞなぞ本」編纂者と「なぞなぞ遊び」考案者は天皇だった!?

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スフィンクス

今回は「なぞなぞ」にまつわる面白い話をご紹介します。

1.ギリシャ神話の「スフィンクスのなぞなぞ」

「なぞなぞ」と言えば、「スフィンクスのなぞなぞ」があまりにも有名です。

フェキオン山の「スフィンクス」が通りかかる人間に問いかけたという「朝は四本足、昼は二本足、夕は三本足。この生き物は何か?」というなぞなぞです。

ある旅人(オイディプース)が正解(人間)を答えると、崖から身を投げたとのことです。

この「スフィンクス」は本来エジプト神話が起源ですが、古くからギリシャ神話にも取り入れられたライオンの身体と人間の顔を持った神聖な怪物です。

2.日本初の「なぞなぞ本」の編纂者は後奈良天皇

後奈良天皇

日本初の「なぞなぞ本」の編纂者は後奈良天皇だと言われています。

その本は1516年に編纂された「後奈良院御撰何曽(ごならいんぎょせんなぞ)」です。

「嵐は山を去って軒のへんにあり」(正解は「風車」。二つの漢字の冠と扁に注目)、「十里の道を今朝帰る」(正解は「濁り酒」、十里は「二」五里で、「けさ」を逆にする)「廿十人木に登る」(正解は「茶」、漢字を分解するとわかります)、「紅の糸くさりて虫となる」(正解は「虹」、扁にご注目)など、古典的なぞなぞの多くの出題がこの本が初出とされています。

第105代の後奈良天皇(1497年~1557年、在位:1526年~1557年)はなぜ「歌集」などではなく「なぞなぞ本」を編纂したのでしょうか?

当時は戦国時代のため、戦乱続きで国は乱れ、皇室財政も窮乏を極めていました。天皇は宸筆(天皇の直筆)の書を売って収入の足しにする有様だったようです。

そのような社会情勢なので、従来のように優雅に歌合せなどをする余裕はなかったのでしょう。そんな中で「文字あそび」「字謎」のような「なぞなぞ」で気晴らしをしようとしたのかもしれません。

後奈良天皇より少し前の時代を生きた一休宗純(1394年~1481年)は、「後小松天皇の御落胤」と言われますが、頓智が巧みであったそうです。「門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」という和歌を詠んだ一休さんも、自分の境遇を悲観したり「応仁の乱」(1467年~1477年)を目の当たりに見たりして無常観というか虚無的な心境になり、頓智で憂さを晴らしていたのかもしれません。

3.日本初の「なぞなぞ遊び」は嵯峨天皇が最初?

嵯峨天皇

嵯峨天皇(786年~842年、在位:809年~823年)が小野篁(802年~853年)に対して「『子子子子子子子子子子子子』と書いて何と読む?」と謎かけした逸話が「宇治拾遺物語」に書かれています。

正解は「ねこのここねこ(子子子子子子) ししのここじし(子子子子子子)」(猫の子、子猫、獅子の子、子獅子)です。

これが文献にある日本初の「なぞなぞ遊び」だそうですが、平安時代にはなぞなぞは「なぞなぞ物語」と呼ばれており、貴族の間では「歌合せ」から派生した「なぞなぞ合せ」が盛んに行われたようです。

鎌倉時代に入ると、「なぞなぞ物語」は「なぞなぞ」「なぞたて」と呼ばれるようになり、連歌の技法の影響を受けるようになりました。

室町時代には宮中以外でも、文芸好きの僧侶や武士によってなぞなぞが楽しまれるようになり、後奈良天皇真筆と言われる宸翰本「後奈良院御撰何曽」というなぞなぞ集が作られるようになりました。

しかし江戸時代に入ると、なぞなぞは大衆化・演芸化し、連歌の流れを汲むなぞなぞは埋没してしまいました。一時人気の出た謎かけの「ねづっち」のような演芸が行われていたのでしょう。

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