今年はNHK大河ドラマで「鎌倉殿の13人」が放送されている関係で、にわかに鎌倉時代に注目が集まっているようです。
2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、鈴木京香さんが「後白河法皇の寵姫」の「丹後局」を演じており、重要な役どころである予感がします。
彼女は妖艶な魅力で、好色な後白河法皇を虜にしたようですが、どのような人物だったのでしょうか?
ところで歴史上の人物で、肖像画などがある有名な人はイメージしやすいのですが、「丹後局」のように何もない場合は想像しにくいので、冒頭に鈴木京香さんの画像を入れました。
1.丹後局とは
本名は高階 栄子(たかしな の えいし / よしこ)(1151年?~1216年)で、丹後局(たんごのつぼね)は通称です。
父は法印・澄雲とも上座・章尋とも言われており、母は、建春門院(平滋子)の乳母である平正盛の娘・政子(若狭局)とする説があります。
2.丹後局の生涯
最初、後白河法皇の側近であった平業房(たいらのなりふさ)(?~1180年)の妻となります。
夫の平業房は桓武平氏の一族で、平清盛とは別の家系です。平業房は「北面の武士」として後白河法皇に仕え。後白河法皇の女御・建春門院の護衛を行っていました。
そしてこの間に権中納言となる山科教成(藤原実教の猶子、山科家の祖)ら数名の子供を生みました。
しかし「治承三年の政変」(1179年)で平清盛によって後白河法皇が鳥羽殿に幽閉されると、法皇の側近であった業房も解官の上、伊豆国に流罪に処されました。しかし業房は脱走しようとしたため、怒った清盛の捜索によって捕らえられ、福原において処刑されました。
業房の死後、丹後局は鳥羽殿に幽閉された後白河法皇に近侍することになります。もともと美貌の持ち主だったらしく、たちまちのうちに法皇の寵愛を得ました。
養和元年(1181年)10月には法皇の皇女・覲子内親王(きんしないしんのう)(1181年~1252年)を産んでいます。同年閏2月の清盛の死去もあって、これを契機に丹後局は法皇の寵愛と信任を得た第一人者となり、政治にも介入するようになります。
『玉葉』では右大臣・九条兼実が丹後局のことを「朝務は偏(ひとえ)にかの唇吻にあり(この頃の政治は彼女の紅唇ひとつに左右される)」と言及しています。朝廷の公卿達には「楊貴妃に異ならない有り様」と例えられるほどでした。
寿永2年(1183年)7月、源義仲の攻勢の前に平氏は安徳天皇を奉じて都落ちしました。
同年8月、後白河法皇は安徳天皇を廃して新たな天皇を擁立しようとしましたが、このとき後鳥羽天皇を立てるように進言したのが丹後局であったと言われています。
平氏滅亡後の文治2年(1186年)からは鎌倉の源頼朝との交渉役となり、大江広元と何度も交渉に当たっています。文治3年(1187年)2月には従三位に叙されました。
建久2年(1191年)6月、覲子内親王に院号宣下があって「宣陽門院」となると、丹後局は従二位となっています。
建久3年(1192年)、後白河法皇が崩御すると、丹後局も出家します。しかし法皇の遺言により山科に所領(山科荘)を与えられた丹後局は、同じく遺言により長講堂領を与えられた宣陽門院と共に、なおも政治に介入します。
法皇の死後、朝廷では頼朝を後ろ盾とする九条兼実が権勢を誇りましたが、この兼実に反発する一派が土御門通親や丹後局らと手を結んで対立します。
丹後局は頼朝とも親密な関係にあったらしく、頼朝とは常に進物を贈り合いするというしたたかさもありました。
しかし頼朝が娘の大姫を後鳥羽天皇に入内させようとしたことには消極的であり、土御門通親と共に九条兼実を失脚させることに成功しました。これが「建久七年の政変」(1196年)です。
その後、朝廷の実権は若年の後鳥羽天皇に代わって丹後局と土御門通親が掌握しましたが、建仁2年(1202年)に土御門通親が死去し、さらに後鳥羽上皇が本格的に院政を開始すると、丹後局の威信は急速に失墜します。
その後、丹後局は朝廷から去り、亡き夫・業房の所領にあった浄土寺に住みました。このため、「浄土寺二位」と称されたということです。
没年は異説も多いですが、建保4年(1216年)2月(もしくは3月)が有力となっています。遺領の山科荘は次男の教成が相続し、これ以降教成の子孫は「山科家」の家名を名乗るようになりました。
なお、その他の登場人物については「NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主な登場人物・キャストと相関関係をわかりやすく紹介」に書いていますのでぜひご覧ください。