今年はNHK大河ドラマで「鎌倉殿の13人」が放送されている関係で、にわかに鎌倉時代に注目が集まっているようです。
2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、小林 隆さんが「鎌倉幕府の初代問注所執事」となる「三善康信」を演じており、重要な役どころである予感がします。
彼はどのような人物だったのでしょうか?
ところで歴史上の人物で、肖像画などがある有名な人はイメージしやすいのですが、「三善康信」のように何もない場合は想像しにくいので、冒頭に小林 隆さんの画像を入れました。
1.三善康信とは
三善康信(みよし の やすのぶ)(1140年~1221年)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の公家です。後に鎌倉幕府の初代問注所執事(鎌倉幕府司法長官)となり、裁判事務を担当しました。入道後の法名は善信(ぜんしん)。
「13人の合議制」(「鎌倉殿の13人」)の1人にもなった彼は、源頼朝からも信頼されており、最後まで鎌倉幕府に仕えました。
2.三善康信の生涯
(1)生い立ち
父は三善康光です。(ただし、三善康久という説もあります)
三善家は代々、日本律令制の大学料で算術を研究する学科である「算道(さんどう)」の家柄で、大学寮では算博士(教授)などをしていました。また、律令制下の最高国家機関である太政官(だじょうかん)において、「書記官」を代々担ってきた下級貴族でもありました。
また、三善家は古代から学問の家として知られており、平安時代前期の公卿・漢学者の三善清行(みよし の きよゆき/きよつら)は、大学頭、参議宮内卿、文章博士という高い地位にまで登りつめました。
それ以降の子孫は法律の研究をする「明法(めいほう)」や「算道」を家職として繁栄していきました。
鎌倉幕府内で三善康信が重宝されるようになったのは、このように勉学に長けていたことが関係しています。
(2)頼朝の流人時代から密かに京の情勢を連絡・支援
母は「源頼朝の乳母」(*)の妹であり、その縁で源氏と平氏が争った「平治の乱(へいじのらん)」(1160年)で敗れて伊豆国(現在の静岡県伊豆半島)に流されていた頼朝に、月に3度京の情勢を知らせていました。
(*)「源頼朝の乳母」には比企尼(ひきのあま)、寒河尼(さむかわのあま)、山内尼(やまのうちのあま)といった人物がいますが、どの乳母の妹かはわかっていません。
しかし、源頼朝が伊豆にいる間におよそ20年間も経済的に支え続けた、比企尼の妹だとする説が最も有力です。
(3)「以仁王の挙兵」をいち早く頼朝に知らせる
治承4年(1180年)5月の「以仁王の挙兵」の2ヶ月後、康信は頼朝に使者を送り、諸国に源氏追討の計画が出されているので早く奥州へ逃げるように伝えるなど、頼朝の挙兵に大きな役割を果たしました(『吾妻鏡』)。
(4)頼朝が伊勢神宮に奉納した「諸国の平和を願う願文」の草案を作る
1182年(治承6年)、源頼朝は伊勢神宮に参拝し、「諸国の平和を願う願文」を奉納します。
三善康信はもともと公家だったため、京の儀式や作法、芸能に精通していました。源頼朝が奉納したこの願文の草案をつくり、送ったのも三善康信だったのです。
平氏を討つために挙兵する前から、源頼朝に大きな貢献をし続けていたため、三善康信は源頼朝が鎌倉幕府を開くために非常に重要な存在だったといえます。
(5)鎌倉幕府の初代問注所執事(司法長官)となる
元暦元年(1184年)4月、康信は頼朝から鎌倉に呼ばれ、鶴岡八幡宮の廻廊で対面し、鎌倉に住んで武家の政務の補佐をするよう依頼されると、これを承諾しました。この時は、「中宮大夫属入道善信」と呼ばれています。
同年10月には貴族の家政事務をつかさどる役所の名を取った「公文所」の建物が新築され、大江広元がその長官となり、康信は初代問注所執事(長官)として裁判事務の責任者となりました。
平安時代にも行われていた問注ですが、当時はまだ特定の場所で行っていたわけではありませんでした。では、なぜ鎌倉幕府はわざわざ場所を決めて問注所を設置したのでしょうか?
その理由は、当時の社会情勢にありました。当時はまだ「源平合戦」が行われていた最中です。さらに「源平合戦」は従来の内乱と比べても規模が大きいものであったため、各国の所領を巡って幕府では訴訟問題が頻発していました。
そこで、これらの問題を迅速かつ円滑に解決する必要がありました。そこで、鎌倉幕府のプレゼンスを増すためにも、三善康信は朝廷で培った文官としての実務能力を活かして問題を収束させたのです。
とはいえ当初、この問注所は訴訟に対して裁判事務を行うのではなく、源頼朝に対する訴訟事案を通達することがその主な役割だったといわれています。
なお、問注所の執事は鎌倉時代から室町時代になっても、三善氏が子孫代々受け継いでいきました。
(6)「十三人の合議制」(「鎌倉殿の13人」)の一人となる
源頼朝が1199年(建久10年/正治元年)に死去した後は、第2代将軍には頼朝の嫡男の源頼家が就任します。
しかし、源頼家は父・頼朝のような優れた政治スキルを持ち合わせておらず、また、まだ18歳と若かったため、独裁的な政治を行うようになります。
源頼家の独裁政治に危機感を抱いた御家人たちは、頼家が将軍に就任したわずか3ヶ月後、頼家を制御して支えるために「13人の合議制」(「鎌倉殿の13人」)を発足させました。
13人の合議制には北条時政や北条義時をはじめに梶原景時や和田義盛など有力御家人たちがメンバーとして名を連ねており、そのなかに三善康信も大江広元などとともに参加することになります。こうして三善康信は源頼朝が亡くなったあとも、鎌倉幕府を支える重要な存在となりました。
(7)「承久の乱」に際しては大江広元の即時出兵論を支持
承久3年(1221年)の「承久の乱」に際しては病身の身で会議に参加し、大江広元の即時出兵論を支持しました。同年、「承久の乱」後に亡くなりました。
なお、その他の登場人物については「NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主な登場人物・キャストと相関関係をわかりやすく紹介」に書いていますのでぜひご覧ください。