江戸時代の笑い話と怖い話(その8)。上方落語「まめだ」の原話

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まめだ・落語

1.上方落語「まめだ」とは

(1)上方落語「まめだ」

「まめだ」 は、 上方落語 の演目の一つで、落語作家の三田純市(1923年~1994年)原作の 新作落語 です。

「まめだ」とは関西における妖怪・ 豆狸 (まめだぬき)の呼び名で、 子ダヌキ の意味でもあります。人を化かすタヌキで、悪さはするが愛すべき存在でもあります。

秋を舞台にした落語が少ないことに気づいた三田が、 道頓堀 界隈の芝居小屋に伝わっていた伝承をもとに、 1966年( 昭和 41年)に三代目桂米朝 (1925年~2015年)のために書き下ろしました。

ちなみに三田純市は、大阪道頓堀芝居茶屋「稲照」の長男に生まれ、慶應義塾大学卒業後、朝日新聞社販売部に勤務しました。1951年に退社後は、放送・演芸作家となっています。曽我廼家十吾・渋谷天外に師事し、放送・演芸・劇作評論を業とし、桂米朝とも親交がありました。

桂米朝は、「上方(落語)四天王」と呼ばれた戦後の上方落語を代表する落語家で、後に人間国宝になり文化勲章も受賞しました。

ちなみに「上方(落語)四天王」とは、戦後、関西の落語界の復興に貢献した「六代目笑福亭松鶴」「三代目桂米朝」「三代目桂春團治」「五代目桂文枝」のことです。

(2)上方落語「まめだ」のあらすじ

歌舞伎役者・市川右團次の弟子に、三津寺の門前の膏薬屋「本家びっくり膏」の息子・右三郎がいたという。右三郎は、母が作る膏薬を塗りながらのトンボ返り(宙返り)の猛練習の甲斐あって、いい役がつくようになっていた。

右三郎は、ある雨の夜、芝居茶屋で傘を借りて帰宅する途中、傘が急に重くなったので、傘をつぼめてみるが、何もない、という怪異にくり返し襲われる。「こら『まめだ』のせいやな。しょうもないテンゴ(=いたずら)しやがって。ようし、ひとつ懲らしめたれ」と傘を差したままでトンボを切ってみせると、何かが地面にたたきつけられて悲鳴が聞こえ、黒い犬のようなものが逃げて行った。

ある朝、右三郎は自宅の店で母から「どうもけったい(=変)や。このごろ、色の黒い陰気な丁稚が膏薬を買いに来るのやが、それが買いに来てからというもの、あとで勘定が合わんねん。1銭足らいで(=足りなくて)、代わりに銀杏の葉ァが1枚入ってんねん」と言われる。それを聞いた右三郎は、「アホ言いな。落ち葉の時期や。三津寺(みってら)さんの前、銀杏の葉ァだらけや」と笑ってすましてしまう。

そのうち、勘定は元通り合うようになり、丁稚も店に来なくなる。

ある朝、右三郎が芝居小屋に出かけようとすると、三津寺に人だかりがしている。皆が「境内に、体一杯に貝殻つけた『まめだ』が死んどンで」というので見てみれば、その貝殻は「本家びっくり膏」の容器に使用しているものであった。右三郎は、あのトンボを切った雨の夜に「まめだ」が強く体を痛めたために、丁稚の姿に化け、銀杏の葉を金に変えて膏薬を買いに来ていたことを悟る。

「お前な、言わんかい、教(お)せたンねやがな。紙かキレ(=布)に伸ばしてあてがわなんだら(=あてがわないと)いかんのに、貝のままベタベタ毛ェの生えた体に付けて、何が効くかいな……」

右三郎がそう言うなり絶句すると、母親と町内の者はいたく同情し、三津寺に頼んで簡単な葬儀を取り計らってもらう。住職が読経を始めると、突如、秋風が吹いて、銀杏の落ち葉が「まめだ」の死骸を覆った。

「あ、お母はん見てみ。タヌキの仲間から仰山(ぎょうさん=沢山)、香典が届いたがな」

2.上方落語「まめだ」の原話

『実説奇談紫陽花著聞(あじさいちょもん)』という幕末に書かれた奇談集で、詳細は不明ですが歌舞伎関係者による著述のようです。

その中巻にある「割下水(わりげすい)の傘」が上方落語「まめだ」の原話です。

こちらは江戸の話で、七代目市川海老蔵の門弟、二代目市川宗兵衛は「跡返りの名人」として知られていました。

ある夜、本所(東京都墨田区)に住む贔屓客の家で馳走になり、降り出した春雨に小田原提灯と傘を借りて、ぶらぶらと帰って来ました。

途中、北割下水の辺で急に傘がずっしりと重くなり、たまらずトンボを切ると、「狸、不意をくらって真逆さまに割下水の古溝へはね落とされ、さぶさぶ逃げうせけり。これをその頃、宗兵衛が狸を化かせしともっぱら評判いたしけり」という素朴な話です。

ちなみに「割下水」とは、雨水を流すために本所の南北二ヵ所に設けられた排水路です。近隣は「置いてけ堀」や「狸囃子」など「本所七不思議」で有名な地で、江戸時代には随分寂しい場所だったようです。

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