江戸時代の笑い話と怖い話(その22)。主殺しと縁坐、連帯責任は幼子にまで。

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連座制

1.連座制

選挙制度に「連座制」というのがあります。これは、候補者の関係者が 選挙違反 (選挙犯罪)をしたことを理由として、選挙違反に直接関与していない候補者について、当選無効等の不利益を与える制度のことです。

イギリス で 1883年に制定された「腐敗違法行為防止法」においては、運動員による選挙違反が立証された場合、候補者は、選挙違反に対する関与の有無を問わず、その当選が無効とされました。

日本でも「公職選挙法」において「連座制」が規定されています。これによって「秘書がやったことであって、自分は何も知らない」という言い逃れが出来なくなりました。

これは非常に合理的な制度で、腐敗した選挙の健全化に大きく寄与するものです。

2.江戸時代の「主殺し」と「縁坐」

(1)主殺しとは

「主殺し(しゅうごろし)」とは、主人または主君を殺すこと、また、殺した者のことです。江戸時代には、親殺し以上に凶悪な大罪とされました。

当時最も罪が重いとされていた「主殺し(主君殺し、父親殺しも含む)」を犯した者には、江戸時代の極刑(最高刑)である「鋸挽(のこぎりびき/のこびき)」が適用されました。

市中引き回しの上、首だけはこの上に出して埋められ2日間生きたまま晒し者にされ、刑場で磔(はりつけ)にされました。

見物人に鋸挽の真似事をさせたところ本当に行った者がいてあまりに残酷なため、以降は形式的に横に血の付いた鋸を添えるだけになったそうです。

(2)縁坐とは

「縁坐」とは、重い犯罪について、犯罪人の家族や家人までが罰せられる制度です。奈良時代から行われていましたが、特に江戸時代には、武士に対してきびしく適用されました。明治15年(1882年)の旧刑法で廃止されました。

江戸幕府も、戦国大名による「分国法」の影響を受けて、火罪・磔(はりつけ)・獄門に処せられた者の妻子に縁座を認めましたが、「公事方御定書(くじかたおさだめがき)」では主殺し・親殺しの子に限るに至りました。

ちなみに「公事方御定書」(1742年)とは、八代将軍徳川吉宗の時に、寺社・町・勘定の三奉行を中心に編纂された非公開(関係者のみ閲覧可能)の成文法規集です。

3.黒川道祐の紀行文『石山再来』

医師で歴史家の黒川道祐(くろかわどうゆう)(1623年~1691年)が書いた『石山再来』という紀行文の中に、刑場を目撃した話があります。

貞享4年(1687年)9月、京都御所近くの自宅を出て石山寺(滋賀県大津市)の本尊開帳を見に出かけました。出発早々、三条から東海道を東へ行った所の粟田口(あわたぐち)でのことです。

粟田口、刑戮の場に到る。去年九月三井寺善見坊を殺せし人、ならびに力を加えし者、所々忍び行くといえども、天罰遁れがたく、江戸において捕らえらる。主人を殺する者、竹鋸を免れず、その後磔にかかる。その親族、ともに京師ならびに大津にありしを僉議(せんぎ)にて八人捕らえられ、京師の大路を引き渡し、遂にこの所において梟首(きょうしゅ)す。その中、九歳の子、二歳の子あり。中々目も当てられず、そぞろに涙を催せり。

この事件は、貞享3年9月、三井寺の寺小姓が主人の僧を斬り殺して逐電。11月に武蔵蕨町(埼玉県蕨市)で捕縛され、翌年8月に日本橋で3日晒し、鋸挽きの上、品川で磔となったものです。

当時最も重大な犯罪とされた「主殺し事件」です。たとえ犯罪と無関係でも、血縁関係があるだけで連帯責任を取る「縁坐」が適用され、犯人だけでなく、親・兄弟・叔父・従弟・甥までもが獄門となりました。

この事件では親類の多くが京都と大津に住んでいたため、粟田口の刑場で獄門となったもので、道祐はその直後に通りがかったようです。

この「縁坐」は、現代の我々から見て、選挙制度の「連座制」と違って極めて理不尽・不合理なものであり、道祐も同様の感懐を持ったようです。

4.雨森芳洲の『たわれ草』

江戸時代中期の対馬藩の儒者雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)(1668年~1755年)が『徒然草』風に書いた和文随筆『たわれ草』にも、「縁坐」に対する批判的意見があります。

主(ぬし)を殺せる奴(やっこ)あれば、咎(とが)なき親兄まで罪に行わるるは痛まし。

現代から見ると当然な意見ですが、江戸時代には、同時代の制度に対して批判的な言説を公にするのは勇気を要することでした。

もっとも、それは「版本」(出版物)の世界のことであって、「写本」ではかなり自由に書くことができました。

江戸時代には版本と写本とが同じように生産され、流通しました。そのような「二重構造」が言論の自由をある程度保障し、江戸時代の書物文化を豊かなものにしました。

芳洲から中国語を学んだ天龍寺の禅僧の桂洲道倫(けいしゅうどうりん)(1714年~1794年)は、『たわれ草』を京で出版するよう版元に働きかけました。

しかし、「縁坐」に対する批判のほか幕政に対するいくつかの批判的意見を含む『たわれ草』は、版元から「政道の機微に触れる八か条」について削除するように求められました。

その報告を受けた芳洲は、その八か条は「この書の眼目にて御座候ゆえ、これを除き候ては『たわれ草』はなくなり申し候ゆえ、抜き申すことにては御座なく候」とし、刊行のことは「再び提起を要せず」とし、「写本」を反故箱の底に押し込んでおいてもらいたいと、桂洲に返答しています。

この『たわれ草』は、芳洲没後三十数年を経た寛政元年(1789年)には、よい時機を得たのか、大坂の版元から公刊され、より広く世の中に流布するようになりました。

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