前に「死語になった残しておきたい美しい日本語」という記事を書きましたが、このほかに「二十四節気」や「七十二候」にも季節を表す美しい言葉があります。
それ以外にもまだある日本の四季を表す美しい言葉のうち、今回は「夏」の季節感を表す言葉をご紹介したいと思います。
・万緑(ばんりょく)
草木が見渡す限り緑であることをいいます。響きが力強く、生命力あふれる印象の言葉です。新緑から、万緑へと季節は移ろい草木はますます緑を深めていきます。
まさに、「目には青葉」。この時期は雨さえ「緑雨」と呼ばれて色づくといえます。
ところで、「紅一点」とは、たくさんの男性のなかにただひとりいる女性のことをいいますが、もともと「万緑叢中紅一点」という、十一世紀の中国の政治家・王安石の詩に由来する言葉です。かつては、たくさんの物のなかで、ただひとつ異彩を放つ物をいうときにも、用いられました。
・青竹(あおたけ/あおだけ)
文字どおり幹が青々としている、若々しい竹のことをいいます。単に生の竹をいうことも。この季節の竹林は、爽やかな薫風に柔らかくしなり、心地よい葉鳴りが響き渡る情緒豊かな世界。やはり年ふり竹よりも、若い青竹がざわめいているイメージです。
若い竹を表わす言葉には「若竹(わかたけ)」もありますが、青竹のほうが少し成熟している竹です。また、青竹は、若い人をたとえていうこともあります。
晩春や初夏のころ、筍に養分を取られた親竹は黄葉して葉を落とします。そのため、木々が落葉する秋になぞらえて、このころを「竹の秋」といいます。ちなみに、「竹の春」は、旧暦8月、いまの9月頃。若竹は生長して美しい緑の竹林になります。
・鹿の子(かのこ/しかのこ)
鹿の子は、文字どおり鹿の子、小鹿のこと。「鹿子」ともいいます。鹿の子は5~6月頃に生まれるため、俳句の世界ではこの時期の季語です。
小鹿の背中には白い斑点模様がありますが、これを「鹿の子まだら」といい、鹿の子まだらのような外見のために「鹿の子~」と名づけられた物が多くあります。「鹿の子絞り」は、糸で布をくくって染料がつかないようにすることで、白い小さな鹿の子まだらのような模様を染め残す絞り染めの一種。熟練した専門の職人が手作業で行う、高級な染め物です。
「鹿の子餅」は餅菓子の一種で、餡でくるんだ餅に、甘く煮た小豆を粒のままつけた物。小豆の粒が鹿の子まだらに見えることから、こう名づけられました。
・相傘(あいがさ)
相傘とは、「相合傘(あいあいがさ)」のこと。「相合」は、二人かそれ以上で一つの物を所有することや、一緒に何かをすることをいいます。
学生のころ、机や黒板やノートの落書きに、好きな人と自分の名を、傘のマークの下に並べて書いた人は多いでしょう。このように、相傘は親密さの象徴として捉えられます。
肩先が濡れるのを気遣いながら、傘をよけいに差しかけてくれるしぐさに、相手のやさしさがうかがわれて、気持ちがふさぎがちな梅雨のころの雨も、心楽しいものになるようです。
字は違いますが、「相合」を「相愛」と書けば、愛し愛されることの意味になります。
・青梅雨(あおつゆ)
梅雨の異称の一つ。「夏」の季語です。
梅雨の時期は、雨降り続きでお日様の顔を拝する回数が減ってしまいますが、そのお日様の光を梅雨入り前にたっぷりと浴びた木々ははつらつとして、その葉の色を濃くする時期でもあります。青梅雨はそうした木々の葉に降る雨を指す言葉です。
・青嵐(あおあらし)
夏の青々とした季節に少し強く吹く風を表現した、「夏」の季語です。別名「夏嵐」ともいいます。夏のころ、ざあっと木々を揺らす音をたてて吹き抜けていく風をイメージできる言葉です。
・短夜(みじかよ)
短い夏の夜、夜明けの早い夏の夜のことです。春分の日から昼の時間が長くなり、夜の時間は夏至に最も短くなります。その短さ、はかなさを惜しむ気持ちを重ねて夏の夜を呼んだのが「短夜」という季語です。
・夕凪(ゆうなぎ)
沿岸地域では、陸地と海上の温度差の関係で、昼間は海から陸へ向かって海風が吹き、夜は陸から海に向かって陸風が吹きます。この海風と陸風が入れ替わる朝と夕方は、風がぴたりと止まります。この状態を「凪」といいます。とくに朝方のものを「朝凪」、夕方のものを「夕凪」といい、瀬戸内海や高知県、長崎県などの夏の風物詩として知られます。
高知県出身の寺田寅彦は、随筆『夕凪と夕風』のなかで、夕凪の、熱気が籠ったような耐えがたい暑さについて触れています。このような凪の無風状態を、俳句の世界では「風死す」といいますが、これを打ち破るには打ち水が効果的と、寺田は述べています。
・打ち水(うちみず)
炎暑をしずめるため、家の玄関先や庭などに水を打つことをいいます。道路の埃を抑える効果があり、また、撒いた水が蒸発することでわずかながら気温を下げることができるので、涼を求めて行われます。「撒水」ともいいます。庭木にとっては、夕方の打ち水はさながら甘露の雨。青々と濡れて、息を吹き返すように見えるのも気持ちがよいものです。
もともと日本には、その家の顔である玄関先を、毎朝きれいに掃き清めて水を撒く習慣がありました。飲食店などでは、いまも行われているようですが、集合住宅が増えた事情もあり、一般の家庭ではあまり見られなくなったようです。