「葬られた思想家」と呼ばれるA級戦犯容疑者で元文部大臣の橋田邦彦とは?

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橋田邦彦

皆さんは「橋田邦彦」という名前をお聞きになったことがあるでしょうか?

実は私も、つい最近になって『葬られた文部大臣 橋田邦彦ー戦前・戦中の隠されてきた真実』(高橋琢磨著、WAVE出版)という本を読むまでは知りませんでした。

橋田邦彦は、優れた医学者・教育者ですが、近衛文麿内閣と東條英機内閣で文部大臣を務めていた経歴から「A級戦犯」容疑者となり、出頭直前に服毒自殺しました。

極東国際軍事裁判(東京裁判)」を受けていれば、最悪の場合は文官(元首相、外相)で唯一人絞首刑となった広田弘毅と同じ運命を辿ったかもしれません。

何だか幕末に活躍した幕臣・小栗忠順(小栗上野介)とオーバーラップして来ます。

彼は、司馬遼太郎によって「明治の偉大なファーザー」と高く評価された人物ですが、新政府軍に捕らえられ無情にも斬首されました。なお小栗忠順については「小栗忠順とは?勝海舟の政敵で佐幕派重鎮だが明治の偉大なファーザー!?」という記事に詳しく書いていますので、ぜひご覧ください。

1.橋田邦彦とは

橋田邦彦(はしだ くにひこ)(1882年~ 1945年)は、生理学者・医学者(医学博士)・教育者で、近衛文麿内閣と東條英機内閣で文部大臣を務めました。号は無適。旧姓藤田。生理学者藤田敏彦の実弟。

科学する心を推奨し、学校教育での自然観察を推進するなど、戦後の科学教育にも影響を与えました。また、興亜工業大学(現・千葉工業大学)の創立に際して、政府代表として関わっています。

日本で最初に実験生理学を提唱するなどして生理学者・医学者として多くの業績を上げました。

その名声によって近衛文麿・東條英機両首相から文部大臣として招かれました。しかしこれが災いして、太平洋戦争敗戦後にGHQからA級戦犯容疑者として指名されて、警察が迎えに来た際、服毒自殺しました。

そのため「葬られた思想家」とも呼ばれています。こう初めて表現したのは精神科医で順天堂大学の助教授だった下坂幸三氏(1929年~2006年)です。下坂氏は気鋭の精神分析医でしたが、研究・治療をしていく中で、橋田の書物を読み、「橋田が他の分野でも相当な功績があるにもかかわらず、名前が知られていないのは、時代が橋田を葬った」のだと感じ、このように表現したとのことです。

<年譜>

彼は鳥取の漢方医・藤田謙造の次男として生まれ、鳥取中学在学中の16歳の時、河村郡長瀬宿の医師橋田浦蔵の養子となりました。後に橋田浦蔵の養女きみゑと結婚します。なお、実子はおらず養女(恵美子)を迎えています。

第一高等学校を経て、1908年に東京帝国大学医学部を卒業し、生理学教室に入りました。

1914年ドイツに留学、1918年に帰国後は生理学助教授となり、1922年には教授に就任し、実験的生理学、ことに電気生理学の研究、発展に努めました。

1937年には第一高等学校長を兼任しました。生理学の多くの著作の他に、哲学をよくし、道元の研究など禅に通じていました。

1940年6月に第2次近衛内閣に文部大臣として入閣、次いで第3次近衛内閣、東條内閣と留任して1943年4月まで務めました。

1945年9月14日、戦争犯罪の容疑で出頭を求められ、杉並区荻窪の自宅に荻窪警察署長、特別高等警察主任が迎えに来たところで服毒自殺しました。

2.なぜ橋田邦彦は歴史の闇に葬られてきたのか?

戦時下の文部大臣を務めたことでA級戦犯に指名され、服毒自殺したことが最大の原因です。

「極東国際軍事裁判(東京裁判)」は戦勝国(連合国)による一方的な裁判で、ソ連のスターリンによって行われた「粛清裁判」と変わらない不当なものですが、多くの日本人はGHQの「WGIP」に洗脳されて、A級戦犯を忌み嫌う傾向があるためです。

「名前すら聞いたことがない。軍国主義のもとで永田町に出向いた御用学者であり、そんな人のことは知る必要もない」といった拒絶反応があるのです。

建学の精神として「行学一体」を掲げたある曹洞宗系の大学では、「この『行学一体』という言葉は、戦時中の学徒動員に使われた標語と重なって都合が悪い」と、「宗門の明治期の先達を橋田文部大臣が引用したにすぎない」という議論をしているそうです。ちなみに愛知学院大学は「行学一体」を建学の理念としており、駒澤大学や東北福祉大学は「行学一如」を建学の理念としています。

橋田邦彦を意識的に排除する考え方かもしれません。これは、GHQによる日本人洗脳プログラムである「WGIP」による刷り込みの影響も大きいと思います。

戦時中は「鬼畜米英」と叫んでいた人が戦後は「アメリカ礼賛一辺倒」になって、戦時中の考え方を何でも否定するのは、明治政府の「欧化政策」による「西洋一辺倒」で日本古来の伝統や美術を古臭いと全否定した無節操さにも似ています。

東大で科学思想史を教えた金森修氏は科学と宗教という本来相容れない物を結び付けた橋田の思考・思想のスケールの大きさに瞠目し、「私には、橋田の独創的な模索が、その後のわが国の科学にほとんど痕跡を残していないように見えることが残念でならない」と述べるとともに、「橋田の存在は、私たちの歴史意識が意識的に避けて通る空白地帯になっているのかもしれない」と付言しています。

3.橋田邦彦の功績

人事評価でも上司によって評価が変動することがよくありますが、歴史上の人物の評価に関しても、時代によって「高評価→低評価」になったり、逆に「低評価→高評価」に見直されたりすることがあります。

坂本龍馬は、司馬遼太郎の小説「竜馬がゆく」で一躍有名になったために、薩長同盟の成立や大政奉還に大きく寄与した「幕末から明治維新にかけてのヒーロー」のように思われていましたが、最近の研究結果では、史実としては坂本龍馬の果たした役割はそれほど大きなものではなく、歴史の教科書から削除する動きもあるようです。

薩長同盟は、薩摩藩の小松帯刀の活躍によるところが大きく、大政奉還の考えを示したとされる「船中八策」も、龍馬は船中八策という文書は作成しておらず、船中八策は、明治以降の龍馬の伝記や小説の中で、しだいに形成されていったフィクションだったという説も出てきているからです。

江戸時代の老中・田沼意次がその良い例です。かつては「賄賂政治家」「幕政の腐敗を招いた悪徳政治家」というマイナス評価一辺倒でしたが、最近では「重農主義から貨幣経済の重商主義(初期資本主義)への転換によって幕府財政を再建」しようとした先見の明のある有能な政治家というプラス評価で見直されています。

一方、橋田邦彦は、そもそも評価すらされず、歴史の闇に葬られて忘れ去られた人物です。

(1)科学論者・医学者としての功績

①科学立国の提唱

「二・二六事件」が起きた1936年に、彼は「日本経済の窮状を救うには科学立国しかない」と提言しました。

その構想は、弟子で文化勲章受章者の勝木保次(1905年~1994年)らの努力で、現在愛知県岡崎市にある「自然科学研究機構」の3つの研究所からなる「岡崎統合バイオサイエンスセンター」となって結実しています。

このうちの「基礎生物学研究所」で1996年から教授を務め、ここでの研究成果が認められて2016年のノーベル医学生理学賞を受賞したのが、東京工業大学栄誉教授の大隅良典(1945年~ )です。

②全身医学(全機性・心身一如)の提唱

「病因が同じであっても、患者一人一人には色々な側面がある」「人間関係や社会関係で発症が大きく違う」という「全身医学」を提唱しました。

「全機性」「心身一如」とも表現されています。これは道元の『正法眼蔵』にヒントを得たものです。

「全機」とは、「物の働きや機能のすべて。生活全体のこと」で、「生命とは全機性的存在」というわけです。

彼は「全機性」という禅語をうまく科学の世界に適用し、専門化・分化する西洋科学を包みなおし、全体像をつかむ日本的な科学の可能性を説いたのです。

「心身一如」は、「東洋医学」の基本的理念です。

東洋医学では、心と体を分けないで、一つのものとして認識してきました。「一如」は真理はただ一つである意、「一」 は不二、「如」は不異の意味です。

心と体は別のモノであるという要素還元的考え方(思想)のもとに発達してきた西洋医学と対象的です。

西洋の医学には「医科学」「医術」はあっても、「医道」がないことの証明でもあります。

ただし今、アメリカで「全体医療」が生まれる中で、「全機性」「心身一如」を唱えた彼はその先駆者とも言えます。

③実験生理学の提唱

彼は生理学の分野で、電気生理学および生化学の確立に功績を残しました。彼は生物電気の発生に関する実験を行い、多くの研究論文を発表しました。

(2)教育者・行政家としての功績

①科学する心・自然観察の提唱

今日でも科学教育の分野でしばしば用いられる「科学する心 」というフレーズは、橋田が1940年に発表した同名の著作が嚆矢と言われています。

科学は「分解・分析」という細かいところへ分け入っていくので、同時に「総合・全体」を見る必要があると橋田は主張しました。

また、国民学校の教育課程において、理科と算数の関連性を強めたり、1年生段階から「自然観察」を盛り込ませるなど、戦後の科学教育にも影響を与えました。

②東大教授や旧制一高校長を務め、多くの一流の弟子を育成

夏目漱石や西田幾多郎クラスの「知の巨人」で、旧制一高校長としても新渡戸稲造と並ぶ名校長だったようです。教育者としても多くの一流の弟子を育成しました。

弟子にはストレス研究のパイオニアの杉靖三郎、脳研究の新分野を開拓した時実利彦、生理学者で文化勲章受章者の勝木保次、生理学者で東北大学学長になった本川弘一、東京都知事になった東龍太郎などがいます。

第一次世界大戦直前の1913年(大正2年)に旧制一高の校長に選ばれた新渡戸稲造が「大正デモクラシー」「国際化時代」を象徴していたように、1937年(昭和12年)に旧制一高の校長に選ばれた橋田邦彦は満州事変や日中戦争が起こる中、二度目の世界大戦前という危機を迎えていた昭和の時代を象徴していました。

しかし、新渡戸稲造が5千円札の肖像になったり、社会科の教科書にも登場しているのに対し、一高校長の後に文部大臣になった橋田邦彦はどの教科書にも出てきません。

③「学徒出陣」に反対

東條英機の「学徒出陣」(*)に抵抗して辞表を叩き付けた文部大臣でもありました。

文部大臣に招かれたものの、当初から教育政策を巡り東條英機首相と意見があわず、軍部が進めようとした大学等の高等教育機関の就学年限短縮と学徒出陣などに反対しました。

(*)「学徒出陣」とは、第二次世界大戦終盤の1943年に兵力不足を補うため、高等教育機関に在籍する20歳(1944年10月以降は19歳)以上の文科系(および農学部農業経済学科などの一部の理系学部の)学生を在学途中で徴兵し出征させたことで、1943年10月1日、東條内閣が公布した在学徴集延期臨時特例(昭和18年勅令第755号)によるものです。

「学徒出陣」と言えば、雨の神宮外苑で挙行された「出陣学徒壮行会」が有名ですが、橋田は1943年4月に文部大臣を辞任していました。(後任の文部大臣は岡部長景)

しかし誤解していた人が多いようで、学徒動員世代である駒澤大学の山内舜雄氏も「なぜあんなに素晴らしい『正法眼蔵』研究をした橋田が、我々学徒を戦地に送る法律を作ったのか?」と心の葛藤を抱えて煩悶していたそうです。

(3)陽明学や道元の『正法眼蔵』の研究者としての功績

道元と中江藤樹を深く尊敬しており、現在も藤樹の墓の側に橋田の碑がある他、道元の『正法眼蔵』について解説した著作を出しています。

陽明学や『正法眼蔵』の研究で得た知見をもとに独自の教育理念を示しました。

4.橋田邦彦の遺書と辞世

(1)遺書(一部抜粋)

・大東亜戦争開始ニ際シ輔弼ノ大任ヲ拝シナガラ其責ヲ果シ得ザリシコトヲ謹ンデ皇天ニ対シ御詫申上グ天皇陛下万歳

・今回戦争責任者として指名されしこと光栄なり。さりながら勝者の裁きにより責任の所在軽重を決せられんことは、臣子の分として堪得せざる所なり。皇国国体の本義に則り玆に自決す。或は忠節を全うする所以にあらずと云はれんも我は我の信念に従ふのみ。大詔渙発の日既に決せんと思ひしも、邦家の将来に向って聊か期するところあり忍んで今日に到り、敵の召喚をうけて時節到来せるを歓ぶ。

(2)辞世

・大君の御楯ならねど国の為め死にゆく今日はよき日なりけり

・いくそたび生れ生れて日の本の学びの道を護り立てなむ

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