皆さんは「一水四見」という言葉をお聞きになったことがあるでしょうか?
これは仏教用語ですが、宗教を信じない人にも参考になる言葉なのでわかりやすくご紹介したいと思います。
1.一水四見とは
「手を打てば鳥は飛び立つ鯉は寄る 女中茶を持つ猿沢の池」という詠み人知らずの「唯識道」の有名な古歌がありますが、「一水四見」をわかりやすく示しています。
「一水四見(いっすいしけん)」とは、「唯識(ゆいしき)」のものの見方を表す言葉で、認識の主体が変われば認識の対象も変化することの例えです。言い換えれば、全てのものは見る側の心によって存在するという意味です。
「一処四見(いっしょしけん)」「一境四心(いっきょうししん)」とも言います。
- 人間にとっての水(河)は
- 天人にとっては歩くことができる水晶の床(又は「宝石で飾られた池」)
- 魚にとっては自分たちの住みか
- 餓鬼(地獄の住民)にとっては炎の燃え上がる膿の流れ(又は「膿に燃える血の河」)
というように、見る者によって全く違ったものとして現れるということです。
「ものごとを、あるがままに見る」というのは、簡単そうで難しいことです。
自分が見ている世界は、他人から見てどのように見えるでしょうか?同じものを見ていても、気づかない面があるものです。
人は皆、生まれ育った環境、受けた教育、経験したこと、考えてきたこと、興味を持ったこと、さまざまです。人それぞれに世界観があり、価値観があります。
それがひとつの物差しとなって、いろいろな事を認識しています。
2.唯識について
(1)「唯識(ゆいしき)」とは
「唯識」とは、個人、個人にとってのあらゆる諸存在が、唯(ただ)、八種類の識によって成り立っているという「大乗仏教」の見解の一つです(瑜伽行唯識学派)。
ここで、八種類の識とは、五種の感覚(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)、意識、2層の無意識(「末那識(まなしき)」、「阿頼耶識(あらやしき)」)を指します。
これら八種の識は総体として、ある個人の広範な表象、認識行為を含み、あらゆる意識状態やそれらと相互に影響を与え合うその個人の無意識の領域をも含んでいます。
あらゆる諸存在が個人的に構想された識でしかないのならば、それら諸存在は主観的な存在であり客観的な存在ではありません。それら諸存在は無常であり、時には生滅を繰り返して最終的に過去に消えてしまうものです。
つまり、それら諸存在は「空」であり、実体のないものである(諸法空相)ということです。このように、唯識は大乗仏教の空 (仏教)の思想を基礎に置いています。
(2)「末那識(まなしき)」とは
「末那識」とは、自我に作用する己に対する執着心で、阿頼耶識(蔵)を対象にしている識です。
(3)「阿頼耶識(あらやしき)」とは
「阿頼耶識」とは、通常は意識されることのない意識の最も深い部分、潜在意識の底の底にある根本心のことです。根本心である「阿頼耶識」には生きようとする本能と意志があります。
「阿頼耶識」は、前五識・意識・末那識を生み出す根本であり、胎内にいるときから、自分が経験したすべてが記録され、蓄えてある、とてつもなく大きな「蔵」です。
「阿頼耶識」には過去に体験を通して、学んだこと、考えたことのすべてが、善悪の区別なく混在しており、人格、品性の基になっています。
3.一月三舟
(1)一月三舟とは
「一水四見」とよく似た言葉に「一月三舟(いちがつさんしゅう/いちげつさんしゅう)」があります。『華厳経疏演義鈔』にある仏教用語ですが、次のような意味です。
三艘の船があり、一艘は北へ、一艘は南へ、もう一艘はその場を動きませんでした。しばらくして空を眺めると、さっき見た月が、どの舟からも同じように見えます。
まるで、月が自分の舟について来たかのように見えます。同じ月なのに、見る人の立場によって違いがあることをたとえた話です。
この言葉は、仏道は一つであるのに、衆生(しゅじょう)の受け止め方で、種々の意味に解釈されることのたとえとしてよく使われます。止まっている舟から見る月は動かず、南へ行く舟から見る月は南に動き、北へ行く舟から見る月は北へ動くように見えるということです。
(2)月がどこまでもついてくるように見える理由
上の「一月三舟」のたとえ話のように、歩いてるときはもちろん、車などの乗り物で移動しているとなおさら追いかけてくるように感じる月。これって、子どものころ誰しもが疑問に思ったことではないでしょうか?
でも実は、すごく単純な理由でした。それは「錯覚」です。
歩いたり、乗り物で移動をしていたりすると近くにある景色はどんどん飛ぶように変わっていきます。それに比べて、山などの遠くにある景色ほどゆっくりと動いて見えますよね。
月は地球からはるか遠く、その距離はなんと38万km!私たちが地球上で少し移動したところで、月からの距離はほぼ影響がありません。
移動しても月の見える方角や大きさが変わってみえないので、月がついてくるように見えてしまうということなのです。