辞世の句(その6)平安時代末期 武蔵坊弁慶・源義経・西行・源頼政

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弁慶と義経の辞世

団塊世代の私も73歳を過ぎると、同期入社した人や自分より若い人の訃報にたびたび接するようになりました。

そのためもあってか、最近は人生の最期である「死」を身近に感じるようになりました。「あと何度桜を見ることができるのだろうか」などと感傷に耽ったりもします。

昔から多くの人々が、死期が迫った時や切腹するに際して「辞世(じせい)」(辞世の句)という形で和歌や俳句などを残しました。

「辞世」とは、もともとはこの世に別れを告げることを言い、そこから、人がこの世を去る時(まもなく死のうとする時など)に詠む漢詩、偈(げ)、和歌・狂歌、発句・俳句またはそれに類する短型詩の類のことを指すようになりました。「絶命の詞(し)」、「辞世の頌(しょう)」とも呼ばれます。

「辞世」は、自分の人生を振り返り、この世に最後に残す言葉として、様々な教訓を私たちに与えてくれるといって良いでしょう。

そこで今回はシリーズで時代順に「辞世」を取り上げ、死に直面した人の心の風景を探って行きたいと思います。

第6回は、引き続き平安時代末期・源平合戦の時代の「辞世」です。

1.武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)

弁慶の立ち往生

六道の 道の巷(ちまた)に 待てよ君 遅れ先立つ 習いありとも

『義経記』にあるこの歌は「義経様、どうか冥途への道の途中で待っていてください。先立つ順番に後先があったとしても」という意味です。次の項でご紹介する源義経の辞世(返歌)と対になっています。

なお、底本の違いで「六道の 道の巷(ちまた)に 君待ちて 弥陀(みだ)の浄土へ すぐに参らん」としているものもあります。

武蔵坊弁慶(?~1189年)は、平安時代末期に活躍した武将で、源義経の忠臣であったことで有名です。平氏滅亡後、兄頼朝と対立した源義経と共に奥州の藤原秀衡の元へ落ち延びましたが、藤原秀衡の死後、1189年6月15日、頼朝に通じた藤原泰衡に攻められ、奮戦むなしく死亡したと伝えられています。

2.源義経(みなもとのよしつね)

源義経

後の世も また後の世も めぐりあへ 染む紫の 雲の上まで

『義経記』にあるこの歌は「弁慶、後世もそのまた後世もめぐり逢おう。あの紫色に染まった雲の上まで一緒に行こうぞ」という意味で、上の武蔵坊弁慶の辞世に対する返歌となっています。

源義経(1159年~1189年)は、鎌倉幕府を開いた源氏の棟梁 源頼朝の弟で、牛若丸の幼名でも知られている武将です。奥州の藤原秀衡の庇護を受けた後、平氏との戦いに参戦し、「一ノ谷、屋島、壇ノ浦の戦い」で活躍したものの、平氏滅亡後は兄頼朝と対立することになります。

孤立無援の中、再び奥州藤原氏の庇護を受けましたが、1189年6月15日、頼朝に通じた藤原泰衡に攻められて自害しました。

なお源義経については、前に「源義経は天才的な戦術家だが、幼稚で無邪気なサイコパスで小柄な醜男だった!?」という記事も書いていますので、ぜひご覧ください。

3.西行(さいぎょう)

西行

願はくは 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの 望月(もちづき)の頃

『山家集』にあるこの歌は「願わくは二月の満月に桜の花が咲く下で死にたいものだ」という意味です。

西行が亡くなったのは旧暦の2月16日(現在の3月31日)ですから、望み通り桜の花を愛でながら死を迎えられたことでしょう。

西行(1118年~1190年)は、平安時代末に生きた僧侶(元は「北面の武士」)で、多くの歌が勅撰集に選ばれるなど和歌の名手としても有名です。

武士の子として生まれた西行ですが、23歳で出家した後は諸国を巡りながら多くの和歌を残し、1190年3月31日に河内国(現在の大阪府)で亡くなりました。

なお西行については、前に「西行が妻子を捨ててまで出家し漂泊の旅に出たのはなぜか?」という記事も書いていますので、ぜひご覧ください。

4.源頼政(みなもとのよりまさ)

源頼政

埋木(むもれぎ)の 花咲く事も なかりしに 身のなるはてぞ 悲しかりける

平家物語』にあるこの歌は「埋れ木のように花咲くこともなく死んでいくのは、なんと悲しいことだろう」という意味です。

ちなみに「埋れ木(うもれぎ)」とは、「地層中に埋まった樹木が長年の間に炭化して化石のようになったもの」のことです。亜炭の一種で、木目が残っており、質は緻密 (ちみつ) 。仙台地方に多く産し、細工物の材料となります。転じて、「 世間から見捨てられて顧みられない人の境遇のたとえ」です。

源頼政(1104年~1180年)は、「鵺(ぬえ)退治」伝説で有名ですが、平安時代末の武将であり歌人です。2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の最初の方にも登場しましたね。

「平治の乱」(1160年)で平清盛に味方して勝利した源頼政は、晩年、源氏の長老として異例の従三位に昇り、念願の公卿となりました。

しかしその後、後白河法皇を排除した平清盛に反発し、以仁王(もちひとおう)とともに挙兵しましたが敗れ、1180年6月20日に宇治の平等院で自害しました。

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