辞世の句(その10)戦国時代 別所長治・清水宗治・今川氏真

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清水宗治自害

団塊世代の私も73歳を過ぎると、同期入社した人や自分より若い人の訃報にたびたび接するようになりました。

そのためもあってか、最近は人生の最期である「死」を身近に感じるようになりました。「あと何度桜を見ることができるのだろうか」などと感傷に耽ったりもします。

昔から多くの人々が、死期が迫った時や切腹するに際して「辞世(じせい)」(辞世の句)という形で和歌や俳句などを残しました。

「辞世」とは、もともとはこの世に別れを告げることを言い、そこから、人がこの世を去る時(まもなく死のうとする時など)に詠む漢詩、偈(げ)、和歌・狂歌、発句・俳句またはそれに類する短型詩の類のことを指すようになりました。「絶命の詞(し)」、「辞世の頌(しょう)」とも呼ばれます。

「辞世」は、自分の人生を振り返り、この世に最後に残す言葉として、様々な教訓を私たちに与えてくれるといって良いでしょう。

そこで今回はシリーズで時代順に「辞世」を取り上げ、死に直面した人の心の風景を探って行きたいと思います。

第10回は、引き続き戦国時代の「辞世」です。

1.別所長治(べっしょながはる)

別所長治

今はただ 恨みもあらじ 諸人(もろびと)の 命に代はる 我が身と思へば

これは「今となっては誰を恨むこともない。私の命が城兵たちの命の身代わりになると思えば」という意味です。

三木城の城主・別所長治(1558年~1580年)は、豊臣秀吉からの兵糧攻めにあい、「自らの命と引き換えに籠城兵たちは助けてくれ」と願い出た時の辞世です。

1578年、織田信長から中国侵攻を任された豊臣秀吉が「三木城攻め」を開始し始めました。その数3万の大軍です。そこで三木城の城主・別所長治は、はじめ信長に仕える素振りを見せますが、信長への反感から結局は、毛利側に味方し叛旗を翻すことになります。

それをみて、秀吉は「三木城攻め」を本格化することになります。とはいえ、三木城は天然の川を掘とする要塞で、簡単には落ちません。そこで、秀吉は兵糧攻めを決行します。別所方の支城を攻略して砦を築き、食料の補給路を完全に遮断しました。

秀吉が三木城攻めを本格化させたのが6月ですが、季節が冬へとかわる頃には餓死者や凍死者が増え続けていきました。しかし、いったんは信長側に仕えると誓った別所長治がここで降伏を宣言すれば、信長のことですから、「長島一向一揆」(1570年~1574年)の鎮圧における虐殺などの残虐行為同様、城の兵士たちの多くは死ぬことになるのは明白です。したがって降伏することもできません。

そうしている内に2年の月日が過ぎ、城の中では餓死者が続出します。後に「三木の干殺し(ひごろし)」と言われる悲惨な状態となっていきました。そんな中、別所長治は、ある決断をしました。それは、「自らの命と引き換えに兵は助けてくれ」と秀吉に願い出たのです。

秀吉にしてみれば、これは願ってもないことです。城に逃げ込んだ庶民や農民までも殺害してしまっては、城を奪ったところで復興までの時間がかかってしまいます。城主ひとりが責任をとって城を明け渡してくれれば、それに越したことはないからです。

この申し入れを秀吉が受け入れたことにより、別所長治は3歳の我が子を刺し殺し、妻の自害を見届けた上で切腹となんとも痛ましい最期を遂げました。

ちなみに、三木城攻めの後の「鳥取城攻め」、「高松城攻め」においても、秀吉は、この「城主の切腹により兵は助ける」という型を定型化していくことになりました。

2.清水宗治(しみずむねはる)

清水宗治

浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して

これは、秀吉による「水攻め」によって周りが人工の湖となった備中高松城に小舟を浮かべ、切腹した清水宗治の、武士として名を高松の地に残したいという願いが込められた辞世の句です。

清水宗治(1537年~1582年)は当初、備中高松城城主・石川氏を旗頭として仰ぐ一地方領主でしたが、永禄8年(1565年)石川氏の相次ぐ死により、高松城の城主となります。その後は郡山城主の毛利氏を盟主として仰ぎ、備中国内の支配力を強めていきました。

そんな中、織田信長の家臣、豊臣秀吉が備中へと攻めてきます。「人たらし」と言われた秀吉は、単に武力のみで攻撃してくるようなことはしません。なるべく、兵力を使わず城を落とす方法を考えます。

そこで、清水宗治に対して「備中と備後の国をお前にやるから、織田家の仲間になれ」と誘いを入れます。これは、当時、備中の半分しか統治していなかった宗治にすれば、かなり好条件です。しかし、毛利氏には恩があると、これを断り、ついに秀吉の攻撃にあいます。(秀吉の高松城攻め)

とはいえ、高松城は難攻不落といわれた城です。これに秀吉は「水攻め」という奇策に出ます。城ごと水に沈めてしまえというのです。

秀吉は多額の金を使って堤防を築くと川の流れを城へと引き込みます。ちょうど、梅雨時ということもあって、秀吉の作戦は見事成功し、みるみる城の周りには人工の湖ができあがり、城は孤立していきました。

城主の清水宗治は、毛利氏に応援要請を出し、毛利氏も主力を率いて救援に向かいます。城を助けるには、堤防を壊す他ありませんが、秀吉が簡単にそうさせてはくれません。

そこで両者は和睦の道を探ります。秀吉の提示してきた条件は、「毛利氏の領土半分を渡せ」というものと、「高松城城主・清水宗治の切腹」と強気の姿勢です。しかし、その時、時代を揺るがす大事件が起きます。「本能寺の変」により、秀吉の主君・信長が討たれてしまったのです。

秀吉にしてみれば、もはや高松城攻略どころではありません。そこで和睦の交渉条件を一気に緩めますが、それでも清水宗治の切腹だけは譲りませんでした。

秀吉に「信長死す」の一報が入った時は、まだ毛利方には、信長の死は知られていません。万一、知られてしまったら、後ろ盾をなくした秀吉に毛利軍が襲い掛かってくるのは明白です。

秀吉軍が高松城を去った後でも信長が死んだことを知れば、毛利は追撃してくるでしょう。それが、秀吉にとっては一番困るのです。

しかし、城主・清水宗治が切腹をした後であれば、命をはって和睦の道をとった宗治の死をふいにするような行動は毛利氏としても取りづらいはずです。

秀吉は毛利側へ続く道を遮断し毛利軍へ信長の死を伝える使者が来るのを防ぎ、宗治の切腹を見守ります。水攻めにより生まれた湖、そこへ小舟を浮かべ、命を救われた籠城兵5,000、秀吉軍3万、毛利軍4万が見つめる中、清水宗治は短刀で腹を十文字に切り裂き絶命しました。

秀吉は、清水宗治を「日本一の武辺(ぶへん)」と賛辞を送り、後に宗治の息子、景治を大名に取り立てようと誘いましたが、毛利の家臣として仕えると断ったと言われています。

3.今川氏真(いまがわうじざね)

今川氏真

なかなかに 世をも人をも 恨むまじ 時にあはぬを 身の咎(とが)にして

これは「世の中も人も恨むまい。この時代(戦国の世)に合っていなかったということが、この身の罪なのだから」という意味です。

悔しとも うら山し共 思はねど 我世にかはる 世の姿かな

これは「京の公家暮しが戦国大名時代の『我が世』に代わってしまったが、それを悔しいとも羨ましいとも思わなくなった」という意味です。

今川氏真(1538年~1615年)は、織田信長に敗れた今川義元の嫡男です。「桶狭間の戦い」で父 義元が討たれた後、今川家の第10代当主となりました。

「桶狭間の戦い」の敗戦による国力の低下から領国であった駿河国を去り、北条家を頼ることになります。さらにその後、徳川家康の庇護を受けることになり、江戸時代の慶長19年(1615年)に77歳で亡くなりました。

なお今川氏真については「今川氏真は桶狭間の戦いで父の義元が亡くなった後どのように生きたのか?」という記事に詳しく書いていますので、ぜひご覧ください。

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