団塊世代の私も73歳を過ぎると、同期入社した人や自分より若い人の訃報にたびたび接するようになりました。
そのためもあってか、最近は人生の最期である「死」を身近に感じるようになりました。「あと何度桜を見ることができるのだろうか」などと感傷に耽ったりもします。
昔から多くの人々が、死期が迫った時や切腹するに際して「辞世(じせい)」(辞世の句)という形で和歌や俳句などを残しました。
「辞世」とは、もともとはこの世に別れを告げることを言い、そこから、人がこの世を去る時(まもなく死のうとする時など)に詠む漢詩、偈(げ)、和歌・狂歌、発句・俳句またはそれに類する短型詩の類のことを指すようになりました。「絶命の詞(し)」、「辞世の頌(しょう)」とも呼ばれます。
「辞世」は、自分の人生を振り返り、この世に最後に残す言葉として、様々な教訓を私たちに与えてくれるといって良いでしょう。
そこで今回はシリーズで時代順に「辞世」を取り上げ、死に直面した人の心の風景を探って行きたいと思います。
第13回は、引き続き戦国時代の「辞世」です。
1.毛利元就(もうりもとなり)
友を得て なほぞうれしき 桜花 昨日にかはる 今日のいろ香は
これは「一緒に桜をみる友を得て、桜も私も嬉しい。同じ桜を観ていても、昨日に比べて今日では桜の香りも良いように思える」という意味です。
毛利元就(1497年~1571年)は、戦国時代の中国地方の戦国大名で、毛利氏の第12代当主です。安芸吉田荘の国人領主・毛利弘元の次男。毛利氏の本姓は大江氏。家紋は一文字三星紋(いちもんじにみつぼしもん)(下の画像)です。
用意周到かつ合理的な策略および危険を顧みない駆け引きで、自軍を勝利へ導く策略家として知られ、軍略・政略・謀略と、あらゆる手段を弄して一代のうちに一国人領主から芸備防長雲石の六ケ国を支配する太守へとのし上がりました。
そのため、「戦国時代最高の智将」、「謀神」とも呼ばれます。
子孫は長州藩の藩主となったことから、「長州藩の始祖」としても位置づけられています。
ところで、毛利元就と言えば「三本の矢」の教えで有名ですね。これは、「何人もの人間が力を合わせれば、非常に強い力を発揮できることのたとえ」です。
毛利元就が、三人の息子の、隆元・元春(吉川氏に養子)・隆景(小早川氏に養子)に、「三本の矢を一度に折ることの難しいことから、協力の大事なことを説いた」という話が由来です。
たとえば「常山紀談―一六」には、元就が臨終の際、子どもたちの数だけの矢を持ってこさせ、「多くの矢をひとつにして折たらんには細き物も折がたし(たくさんの矢を一束にして折ろうとすると、一本一本は細くても折るのは難しい)」と述べ、兄弟が心を合わせて行動するように遺言したとあります。
ただし、これは史実ではなく、元就の書いた「三子教訓状」が元となって生まれた逸話です。この文書では一族の結束を説いていますが、矢に関する記述はありません。
2.大内義隆(おおうちよしたか)
討つ者も 討たるる者も 諸共に 如露亦如電(にょろやくにょでん) 応作如是観(おうさにょぜかん)
これは「私を討とうとする者も討たれる私も、共に露のように雷のようにはかなく消えていくものだよ。観音様が様々に姿を変えて現れなさるように、この世の中は決して定まらずに変化するようなものなのだな」という意味です。
最後の「如露亦如電 応作如是観」は金剛経の一句です。万物は流転するという無常を悟ったような和歌となっています。「応作」とは、仏・菩薩が世の人を救うために、相手の性質・力量に応じて姿を変えて現れることです。
大内義隆(1507年~1551年)は、戦国末期、山口を本拠とした大内氏嫡統の最後の大名で、大内氏の第16代当主です 。第15代当主・大内義興の嫡男。母は正室の内藤弘矩の娘。
周防・長門・石見・安芸・豊前・筑前の守護を務めました。官位は従二位兵部卿兼大宰大弐兼侍従です。
また、義隆の時代には「大内文化」が爛熟し、西国の地方政権「大内政権」を築いて大内家は領土的に全盛期を迎えました。しかし、文治政治に不満を抱いた家臣の陶晴賢に謀反を起こされ、義隆と一族は自害して、大内家は事実上滅亡しました。
3.陶 晴賢(すえはるかた)
何を惜しみ 何を恨まむ もとよりも このありさまの 定まれる身に
これは「こうして死ぬことは生まれたときより定められていたことだ。今さら何を惜しみ、何を恨むことがあろうか」という意味です。
陶晴賢(1521年~1555年)は、周防国(現在の山口県)を治めた戦国武将・大内義隆の重臣です。『大内義隆記』によると、容姿が美しく、義隆に寵愛されたということです。
主君である大内義隆から謀反の嫌疑を掛けられた陶晴賢は、挙兵して主君を倒して大内家の実権を掌握しましたが、同じく大内家の家臣であった毛利元就と戦い、1555年10月16日「厳島の戦い」で敗れて自刃しました。
陶晴賢は天文9年(1540年)、大内義隆の安芸(広島県)出陣に従いました。同年、尼子晴久の軍に囲まれた毛利元就を救援するため、内藤興盛と共に安芸郡山城に派遣され、尼子軍を破りました。同11年、義隆の出雲遠征に従いましたが、翌年5月大敗して帰国しました。
やがて義隆側近の相良武任と対立するようになり、豊前(福岡県,大分県)守護代杉重矩とも対立。重矩は、晴賢に謀反の意があると義隆に密告しました。
しかし晴賢は、大内氏の大小老若の御家人から分国中の土民・商人に至るまで、ことごとく自分の手下に引き入れ、義隆が召し使っている若衆までも味方につけていたため、義隆のことは晴賢に筒抜けであったということです。
天文18年には重矩との仲が修復され、同19年、その翌年に予定されていた山口興隆寺修二月会の大頭役に任ぜられ、人を集める口実ができました。
11月17日、義隆に暇乞いをして本拠地富田に行き、20年8月ついに挙兵して山口を襲いました。杉・内藤氏らの重臣もこれに味方したため、義隆は9月1日に自害しクーデタは成功しました。
晴賢は翌年1月重矩を討ち、3月には大友義鎮の弟晴英(義長)を大内氏の当主に迎えました。晴英の諱の1字をもらい、名を隆房から晴賢に改めました。この時期、筑前守護代ともなっています。
同23年5月、安芸の毛利元就が晴賢討伐を掲げて挙兵し、翌弘治元年(1555年)9月に両者は安芸厳島で激突しました。10月1日毛利氏が大勝し、晴賢は自害しました。
主君義隆の打倒には成功しながらも、その後継に晴英を迎えるなど、完全に戦国大名化できていなかったところに限界がありました。