辞世の句(その16)江戸時代 浅野長矩・大石良雄・十返舎一九・曲亭馬琴・井原西鶴・歌川広重・良寛

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浅野内匠頭切腹

団塊世代の私も73歳を過ぎると、同期入社した人や自分より若い人の訃報にたびたび接するようになりました。

そのためもあってか、最近は人生の最期である「死」を身近に感じるようになりました。「あと何度桜を見ることができるのだろうか」などと感傷に耽ったりもします。

昔から多くの人々が、死期が迫った時や切腹するに際して「辞世(じせい)」(辞世の句)という形で和歌や俳句などを残しました。

「辞世」とは、もともとはこの世に別れを告げることを言い、そこから、人がこの世を去る時(まもなく死のうとする時など)に詠む漢詩、偈(げ)、和歌・狂歌、発句・俳句またはそれに類する短型詩の類のことを指すようになりました。「絶命の詞(し)」、「辞世の頌(しょう)」とも呼ばれます。

「辞世」は、自分の人生を振り返り、この世に最後に残す言葉として、様々な教訓を私たちに与えてくれるといって良いでしょう。

そこで今回はシリーズで時代順に「辞世」を取り上げ、死に直面した人の心の風景を探って行きたいと思います。

第16回は、引き続き江戸時代の「辞世」です。

1. 浅野長矩(あさのながのり)(浅野内匠頭)

浅野内匠頭

風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとやせん(いかにとかせん)

これは表面的には「風に吹かれ散っていく花も春を名残惜しいと思うが、もう二度と見ることのない春を名残惜しく思う私はどうすればいいのだろうか」という意味です。

しかしこの辞世の「春の名残」は「吉良上野介を討ち果たせなかった(恨みを晴らせなかった)無念・心残り(名残り)」を暗示するもので、「いかにとやせん(いかにとかせん)」は、家臣による仇討ちへの期待を示唆しているのではないかと私は思います。

浅野長矩(浅野内匠頭)(1667年~1701年)は、「忠臣蔵」で有名な赤穂藩の藩主です。幕府より勅使饗応役を拝命しましたが、1701年4月21日、江戸城本丸内で礼法指南役であった吉良義央(吉良上野介)に対し脇差で切りつけました。

その責任を問われ、即日切腹ならびに改易の沙汰が下りました。その後、赤穂藩の筆頭家老であった大石内蔵助が吉良邸に討ち入り、浅野内匠頭の仇討ちをすることになります。

なお浅野内匠頭については、「浅野内匠頭はなぜ吉良上野介を斬ったのか?松の廊下刃傷事件の真相を探る!」という記事も書いていますので、ぜひご覧ください。

2.大石良雄(おおいしよしお/よしたか)(大石内蔵助)

大石内蔵助

あら楽し 思ひは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし

これは「思いを晴らして死んでいくのは、何と楽しいことよ。 見上げる月に雲がひとつもかかってないように、我が心は澄み切っている」という意味です。

私の個人的な勝手な解釈ですが、この辞世には次のような意味が含まれていると思います。

「あらたのし」は、ああ楽しいという「本懐を遂げた喜び、満足感」の意味もありますが、「新たの死」すなわち切腹を暗示しているようです。

「思ひは晴るる」は、「念願が叶って気持ちは晴れやかである」の意味もありますが、「主君の恨みを晴らした」という思いも込められているようです。

「うき世の月」は、「現実のこの世の月」というよりも、辛かった討ち入りまでの「憂き世」の終わりという意味の「尽き」で、「かかる雲なし」は、「あの世では【かかる】(このような)【苦(く)もなし】」ということでしょう。

極楽の 道はひとすぢ 君ともに 阿弥陀をそへて 四十八人

これは「仇討ちを終えた四十七士は、主君とともに阿弥陀如来の待つ極楽へ旅立ちます」という意味です。

大石良雄(大石内蔵助)(1659年~1703年)は、「忠臣蔵」で有名な赤穂藩の筆頭家老です。主君である浅野長矩が江戸城内で刃傷事件を起こし、その責任を問われ、長矩に即日切腹ならびにお家断絶の沙汰が下ってしまいます。

大石内蔵助は、筆頭家老としてお家再興を目指しますが果たせず、その後苦難の末に、主君の仇である吉良上野介の屋敷に討ち入り、本懐を遂げました。そして、1703年3月20日、幕府の命で切腹しました。

なお大石内蔵助については、「忠臣蔵に登場する人物は大石内蔵助を筆頭に人間の生き方についての示唆に富む!」という記事も書いていますので、ぜひご覧ください。

3.十返舎一九(じっぺんしゃいっく)

十返舎一九

此の世をば どりゃお暇(いとま)に せん香の 煙とともに 灰 左様なら

これは「そろそろこの世からお暇しましょう。線香の煙とともに灰になったら、ハイ、さようなら」という意味です。

十返舎一九(1765年~1831年)は、江戸時代後期に活躍した戯作者・絵師です。「東海道中膝栗毛」などの作品で後世に名を残しました。

なお十返舎一九については、「戯作者十返舎一九は、東海道中膝栗毛で有名ですが、生涯も洒落のめし!」「十返舎一九 江戸時代の長寿の老人の老後の過ごし方(その13)」という記事も書いていますので、ぜひご覧ください。

4.曲亭馬琴(きょくていばきん)

曲亭馬琴

世の中の 役をのがれて もとのまゝ かへすぞあめと つちの人形

これは「人間の役目を離れて、元のままに、魂は天へ肉体は土に還ろう」という意味です。

曲亭馬琴(1767年~1848年)は、江戸時代後期の読本作者で、代表作は『椿説弓張月』『南総里見八犬伝』です。号は著作堂主人(ちょさくどうしゅじん)など。

ほとんど原稿料のみで生計を営むことのできた日本で最初の著述家です。

なお曲亭馬琴については、「曲亭馬琴 江戸時代の長寿の老人の老後の過ごし方(その6)」という記事も書いていますので、ぜひご覧ください。

5.井原西鶴(いはらさいかく)

井原西鶴

「人間五十年の究まり、それさえ我にはあまりたるに、ましてや」と前置きして

浮世の月 見過しにけり 末二年

これは「人生50年と言われているが、あまりに楽しくて、うっかり二年余分に生きてしまった」という意味です。

井原西鶴(1642年~1693年)は、、江戸時代の大坂の浮世草子・人形浄瑠璃作者で、俳諧師でもあります。別号は鶴永、二万翁、西鵬。

『好色一代男』をはじめとする浮世草子の作者として知られていますが、談林派を代表する俳諧師でもありました。

なお井原西鶴については、「井原西鶴とはどんな人物だったのか?わかりやすくご紹介します」という記事も書いていますので、ぜひご覧ください。

6.歌川広重(うたがわひろしげ)

歌川広重

東路(あづまぢ)に 筆をのこして 旅の空 西のみくにの 名所(などころ)を見む

これは「この世に筆を残して西方浄土へ旅立っても、名所を見てまわりたい」という意味です。

歌川広重(1797年~1858年)は、江戸時代後期に活躍した浮世絵師で「東海道五十三次」などの作品で有名です。ゴッホやモネなど海外の画家にも大きな影響を与えたとされています。

なお歌川広重については、「東海道五十三次で有名な歌川広重(安藤広重)とはどんな人物だったのか?」「歌川広重 江戸時代の長寿の老人の老後の過ごし方(その10)」という記事も書いていますので、ぜひご覧ください。

7.良寛(りょうかん)

良寛

散る桜 残る桜も 散る桜

これは「散る桜もある中で、今美しく咲いている桜もいずれ散ってしまうように、消えそうなこの命が長らえたとしても、いずれ散ってしまうだろう」という意味です。

うらをみせ おもてを見せて 散るもみぢ

これは「自分自身の表も裏もすべてさらけ出して生き切った。そして今、死に行く」という意味です。

良寛は禅の精神を地で行ったような人物で、生涯にわたって寺を持たず「起きて半畳寝て一畳」の広さがあればいいと、山間の狭い庵に住みました。「本来無一物」とばかりに、一つの鍋で顔や手足を洗い、煮炊きもしたのだそうです。自分自身の質素な生活を通して人々に禅の教えを説いたのです。

このストイックな禅僧である良寛和尚は、晩年になんと40歳も年下の尼僧・貞心尼(ていしんに)に恋をしてしまいます。貞心尼とは歌のやりとりや逢瀬を重ね、愛を育んだということです。この意外なエピソードがとても人間らしく、良寛への親しみが強まります。

この恋愛を含めて、この辞世を読むと、また味わい深い一句です。

良寛(1758年~1831年)は、江戸時代後期に生きた僧で、書家・歌人です。越後国(現在の新潟県)の名主の家に生まれた良寛でしたが、若くして出家して修行した後に越後国へ戻り、庶民に仏法を説くかたわら、1831年2月18日に亡くなるまで書と和歌に打ち込みました。

なお良寛については、「子供と鞠遊びに興じた無欲恬淡の70歳の僧侶良寛と30歳の貞心尼との恋とは?」という記事も書いていますので、ぜひご覧ください。

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