陽明学者の安岡正篤氏(1898年~1983年)と言っても、ご存知ない方が多いかも知れません。しかし、私の勤務していた会社のトップが安岡正篤氏の主宰する「師友会」(現「一般社団法人関西師友協会」)の会員だったようで、「新年の訓示」などで彼の「干支に関する話」を必ずと言っていいほど引用していたので、私はよく知っています。
1.安岡正篤氏とは
安岡正篤氏は、大阪市出身の陽明学者・哲学者・思想家です。陽明学を基礎とした東洋思想に通暁しており、政界・財界・官界トップに多くの支持者を持っていました。また歴代首相の政策決定にも大きな影響力を及ぼしました。
彼は小学生の時、「四書」の「大学」から素読をはじめたそうです。
彼は東大在学中から「陽明学」を研究し、1922年(大正11年)に卒業記念として執筆・出版した「王陽明研究」が反響を呼びます。
当時流行の「大正デモクラシー」に対して「伝統的日本主義」を主張し、一部華族や軍人に心酔者を出します。
1927年(昭和2年)には、「金鶏学院」という私塾を設立し、1931年(昭和6年)には三井や住友などの財閥の出資により、埼玉県に「日本農士学校」を創設し、教化運動に乗り出します。
「金鶏学院」は軍部や官界・財界に支持者を広げて行きますが、1932年に「日本主義に基づいた国政改革を目指す」として近衛文麿らと共に設立した「国維会」は、「政界の黒幕的存在」との見方も出たため、2年後には解散に追い込まれます。
「終戦の詔勅」は漢学者の川田瑞穂が起草したものを、彼が刪修(さんしゅう)しました。つまり朱筆を入れた訳です。
戦後は、「大東亜省顧問として外交政策に関わった」ことを理由に「公職追放」(のちに解除)されますが、1949年に「師友会」(のちの「全国師友協会」)を結成し、次世代の指導者の育成や、全国各地を巡っての講演・講話などを通じて東洋古典思想の普及に努めます。
1951年には吉田茂首相と対談するなど、政財界とのパイプは保ち続け、自民党政治家のアドバイザーとして主に東洋宰相学・帝王学を説き、彼らの「精神的指導者」「陰のご意見番」「首相指南役」の位置にありました。
財界にも多くの心酔者がおり、三菱グループ・住友グループ・近鉄グループ・東京電力などの多くの財界人を指導しました。
1958年には、岸信介らと共に「日本協議会」を結成し、安保改定運動や憲法改正運動に関わります。東洋古典の研究と人材育成に尽力する一方、「体制派右翼」の長老として政財官界に大きな影響力を持ち続けました。
「平成」の元号を最初に発案したのも彼だと言われています。
2.「陽明学」とは
「陽明学」とは、16世紀前半の明代に、儒学者・思想家・武将の王陽明(1472年~1529年)が朱子学を批判的に継承して始めた「実践儒学」で「読書のみによって理に到達することはできないとして、仕事や日常生活の中での実践を通して心に理を求める学問」です。
「知行合一」とは、「知って行わざるは、未だこれ知らざるなり」つまり「知と行を切り離して考えるべきではないということ」です。
「致良知(良知を致す)」とは、「天地に通じる理は、自己の中にある判断力(良知)にあるということ」です。
「心即理」とは、「事物の理は自分の心をおいて他になく、それ以外に事物の理を求めても無いということ」です。
「朱子学」は、12世紀後半に南宋の儒学者朱熹(1130年~1200年)が創始した儒学(新儒教)です。理論的で身分の上下関係や礼儀を重んじるのが特色で、「上の者の命令は絶対、下の者が従うのは当たり前」という考え方です。日本では幕藩体制の秩序を維持する学問として利用しやすかったため、幕府の御用学問となりました。
これに対して「陽明学」は、「知識があっても行動が伴わなければ、その知識は無駄。真の知は実践を伴うべきで、学んだことは実践すべし」という考え方です。
「陽明学」は、実践力があって正義感が強く、政治を批判する傾向の強い人物に好まれたため、幕府は陽明学が広まって批判勢力になるのを警戒します。1790年に松平定信は「寛政の改革」として、朱子学以外の学問を禁ずる「寛政異学の禁」を出し、陽明学を排除しました。
江戸時代の代表的な陽明学者は、中江藤樹(1608年~1648年)と熊沢蕃山(1619年~1691年)です。
陽明学の影響を受けた有名な人としては、1837年に「大塩平八郎の乱」を起こした儒学者で大坂天満の与力だった大塩平八郎(1793年~1837年)、吉田松陰、西郷隆盛などがいます。
3.細木数子さんとの結婚騒動
<2021/11/10追記>細木数子さんが11月8日に呼吸不全で亡くなりました。享年83。
ご冥福をお祈りします。
1983年と言いますから、安岡正篤氏が亡くなった年ですが、銀座のクラブのママであった細木数子さんと「結婚の約束」を取り交わします。安岡氏の親族が反対する中、細木数子さんは彼と交わした「結婚誓約書」をもとに、単独で婚姻届を提出し、受理されます。
しかし、当時安岡氏は85歳と高齢で「認知症」の症状もあったことから、安岡氏の親族が「婚姻の無効」の調停申し立てを行います。安岡氏は調停申し立ての翌月他界しますが、和解が成立し、初七日に籍を抜くことになりました。