「川柳」は「俳句」と違って、堅苦しくなく、肩の凝らないもので、ウィットや風刺に富んでいて面白いものです。
今では、「サラリーマン川柳」や「シルバー川柳」など「〇〇川柳」というのが大はやりで、テレビ番組でも紹介されており、書籍も出ています。
そこで今回はシリーズで、日本古来の「偉人」を詠んだ「江戸川柳」を時代を追ってご紹介したいと思います。
川柳ですから、老若男女を問わず、神様・殿様も、猛者も貞女も大泥棒も、チャキチャキの江戸っ子が、知恵と教養と皮肉の限りを尽くして、遠慮会釈なくシャレのめしています。
第9回は「戦国時代①」です。
1.武田信玄(たけだしんげん)
・たけ田のからくり三年ひしがくし
・とんだ事座頭(ざとう)ならびに魚鳥留(ぎょちょうどめ)
・甲州は針やあんまに事をかき
・借りたやつらが信玄をほめるなり
武田信玄(1521年~1573年)は、戦国時代の武将で、甲斐国守護武田信虎の嫡男です。諸豪族を倒して甲斐国に加えて信濃一円をほぼ領国化し、越後の上杉謙信と対決しました。「川中島の戦い」(1553年~1564年)が有名です。
武田信玄は、三河野田城攻撃から甲府へ帰る途中で死去したのですが、遺言でその死を3年間秘密にしたと言われています。最初の句はこれを詠んだもので、「武田家の計略で3年間「秘し隠し」たという意味ですが、江戸時代の有名なからくり人形芝居「竹田のからくり」と、武田家の家紋「四つ菱(よつびし)」(下の画像)を掛けた技巧です。
2番目の句の「魚鳥留」とは、精進のために生臭物(なまぐさもの)を避けることです。武田では、信玄の死を隠すために、喪中でも「魚鳥留」をしませんでしたが、一緒に並べられた「座頭」はどういう関係があるのでしょうか?実は全くの俗説ですが、信玄は領内の盲人(座頭)を敵の「間者(かんじゃ)」(スパイ)だとして、生き埋めにしたと言われています。
盲人がいなくなれば、針療治やあんまをする人がいなくなって困っただろうというのが3番目の句です。
江戸時代、盲人は「座頭金(ざとうがね)」という高利貸しを営み、過酷な取り立てをしたそうです。それで、座頭金を借りて取り立てに困っている奴らは、信玄を誉めるというのが4番目の句です。
2.山本勘助(やまもとかんすけ)
・炊き置きをせぬが勘助落ち度なり
・諸士(しょし)くすりくすり勘助初出仕
・山本は茶にされないと越後勢(えちごぜい)
・追い炊きを見て謙信は小(こ)うなずき
・車にはりこまれ道鬼(どうき)は終(しま)いなり
山本勘助(1493年?~1561年)は、戦国時代の武将で、武田信玄の軍師です。「川中島の戦い」で作戦失敗の責任を取り、戦死したと伝えられています。
山本勘助(道鬼斎)は、武田信玄の軍師ですが、小男で隻眼(せきがん)、足も不自由だったと言われています。初めて出仕した時は、家中みんなクスクスあざ笑いました(2番目の句)が、たちまち能力を発揮して、信玄信頼を得るに至ります。
事情は敵方の越後も同じで、最初は馬鹿にしていましたが、これは油断がならないと思い始めます(3番目の句)。「茶にする」とは、「馬鹿にする」という意味ですが、江戸の有名な茶舗「山本屋」を掛けたものです。
勘助は、第四次川中島の戦いで、上杉軍を挟み撃ちにする「啄木鳥(きつつき)戦法」をとりますが、謙信は武田軍陣地で大量の炊煙が上がるのを見て、来襲を察知した(4番目の句)と言われています。
そこで謙信は、秘かに行動を起こして武田軍を襲います。勘助の作戦は、思わぬところから失敗したわけで、飯の炊き置きをしなかったのが勘助の落ち度だというのが最初の句です。
作戦の失敗の責任を感じて、勘助は討ち死しますが、この時の謙信の戦法「車懸かりの陣」を掛けたのが5番目の句です。
3.上杉謙信(うえすぎけんしん)
・煮え切らぬ中だに甲斐へ塩を入れ
・甲州は塩も菩薩の数に入れ
・せちがらい軍(いくさ)北条塩を止め
・塩俵柿やぶどうの戻り足
・いい甲斐のなさ塩の恩水にする
上杉謙信(1530年~1578年)は、戦国時代の武将で、幼名虎千代、元服して長尾景虎、出家して謙信と称しました。「川中島の戦い」で数回にわたり武田信玄と激戦を繰り返しました。
上杉謙信の最も有名な逸話は、宿敵武田信玄に塩を送った話でしょう。「敵に塩を送る」ということわざにもなりました。
最初の句は、信玄との関係がはっきりしないのに、塩を入れてやったというのですが、「粥(甲斐)」「煮える」「塩」など縁語尽しとなっています。
「米」には神様が宿ると言われ、「菩薩」という異称もありますが、甲州には海がないので、塩も菩薩の数に入れるほど貴重品だというのが2番目の句です。
ところが武田が、同盟を結んでいた今川(駿河)と不仲になり、怒った今川が北条(相模)と謀って、甲州への塩の輸送を禁じました(3番目の句)。それを聞いた謙信は、武士らしくない行動だと怒り、これからは越後からいくらでも塩を送ってやると言ったそうです。
甲州名産の柿やぶどうを越後へ運んできた商人が、塩俵を担いで甲州へ帰ります(4番目の句)。もっとも、塩を送ったぐらいで仲良くなるほど甘い敵将ではありません(5番目の句)。
4.織田信長(おだのぶなが)
・本能寺寝耳に土岐(とき)の声がする
・駒組みをせぬに王手は本能寺
・本能寺窮鼠(きゅうそ)かえってとんだ事
・十兵衛(じゅうべえ)でよいにお目がね違いなり
織田信長(1534年~1582年)は、戦国大名で織田信秀の嫡男。妻は美濃の斎藤道三の娘。「桶狭間の戦い」で今川義元を破り、足利義昭を立てて上洛し、室町幕府を再興させました。天下統一の道半ばで「本能寺の変」により自刃。
織田信長が本能寺で明智光秀に急襲されたことを詠んだのが、最初の句です。「土岐」は、美濃源氏土岐氏の支流である明智光秀のことです。信長には「寝耳に水」ならぬ「寝耳に鬨(とき)の声」がしたというわけです。
「駒組み」とは、将棋で駒の陣形を整えることです。普通の合戦なら、陣形を整えて対戦するのですが、わずかな手勢で本能寺にいたところを襲われた信長は、まだ駒組みもできないうちに王手をされたようなものだというのが2番目の句です。
光秀が主君信長を討つに至った理由については諸説ありますが、信長に冷遇された恨みが爆発したとの説もあります。3番目の句はこの説に従って、「窮鼠猫を嚙む」(弱い者も追いつめられると強者に反撃する)状況になったため、とんだことをしでかしたというのです。
光秀の生年ははっきりしていませんが、1528年という説があり、この年は「子年(ねどし)」なので鼠に掛けた作句とも言えます。
光秀は、信長の直臣として五万石を与えられて近江坂本に居城を持ち、日向守(ひゅうがのかみ)の官職を得て、「惟任(これとう)日向守光秀」と称しました。
4番目の句は、信長も光秀をただの明智十兵衛のままにしておけばよかったのに、惟任日向守などに取り立てたものだから、力をつけて反逆に及んだのだ、とんだお眼鏡違いだったねと言っているのです。
5.森蘭丸(もりらんまる)
・人の手を借りて信長腹を立て
・蘭に打たれたが桔梗の遺恨なり
・先刻はなどと蘭丸次で云い
・蘭丸は推量のいい男なり
・小姓めを取り逃がすなと明智言い
森蘭丸こと森成利(もりなりとし)(1565年?~1582年)は、安土桃山時代の武将。織田信長の近習として仕え、寵愛されました。
森蘭丸は、信長に寵愛された小姓で、本能寺で信長と運命を共にしました。天正10年(1582年)、信長が大切な客人(徳川家康ら)を迎えるにあたり、明智光秀を接待役にさせたところ、不始末があったと腹を立て、家来に光秀の頭を鉄扇で叩かせます。これを詠んだのが最初の句で、この手を貸したのが蘭丸です。
「桔梗」は光秀の家紋(下の画像)です。「蘭」と「桔梗」は縁語です。このような遺恨が積もった挙句「本能寺の変」になったとも言われているのを詠んだのが2番目の句です。
蘭丸も賢い人ですから、光秀を叩いた後、次の間で光秀に「先刻は、上意とはいえご無礼をいたしました」などと謝ったのではないかと想像したのが3番目の句です。
蘭丸は、光秀が何か企んでいるようだから切り捨てたいと、信長に進言するのですが、信長は承認しなかったという話が『武将感状記』にあります。勘の良い男だった(4番目の句)ようです。
「本能寺の変」の時に特に狙うほど、光秀が蘭丸を恨んでいたかどうかわかりませんが、そのように想像したのが5番目の句です。
6.明智光秀(あけちみつひで)
・三日咲く桔梗を散らす猿の知恵
・あいつめはもと黒鴨(くろがも)と明智言い
・小来栖(おぐるす)を通る時分に丹波色(たんばいろ)
・藪からは棒よりひどい槍が出る
・四日目は早い因果の廻りよう
明智光秀(1528年?~1582年)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。織田信長に仕え、近江坂本城主となりました。本能寺で信長を討ちましたが、「山崎の戦い」で秀吉軍に敗れ、小来栖で土民に刺され、自刃しました。
光秀は、せっかく信長を討ったものの、備中高松から大急ぎで帰ってきた(中国大返し)羽柴秀吉軍に「山崎の戦い」で敗れ、近江坂本へ帰ろうとした途中の小来栖で、藪に隠れていた土民の槍に突かれ、結局自刃することになりました。「本能寺の変」から数えて十日間余り、「三日天下」と呼ばれる短い間でした。
最初の句の「桔梗」は光秀の家紋です。「猿」すなわち秀吉の知恵が、たった三日だけ咲いた桔梗すなわち光秀を破ったということです。「猿知恵」(利口のように見えてどこか間の抜けた考え)ではなかったようです。
2番目の句の「黒鴨」は、下僕のことです。秀吉にしてやられた光秀は「あいつめは元は信長の草履取りだったのに。あんな奴に負けるとは」と悔しがっただろうということです。
3番目の句の「丹波色」は青い色で、敗走して小来栖を通る頃には、真っ青な顔色だったろうというのですが、光秀の領国・丹波国を掛けています。
「藪から棒」ということわざがありますが、棒ならともかく槍が出ては万事休すだというのが4番目の句です。
主殺しの罪は重く、いずれ因果はめぐって自分の身に降りかるでしょうが、それにしても四日目とは早いものだというのが5番目の句です。