家康が松平姓から徳川姓に変えた理由は?源氏の正嫡を名乗ったのは詐称!?

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徳川家康・三方ヶ原戦役画像

今年(2023年)の大河ドラマは「どうする家康」です。昨年の「鎌倉殿の13人」(脚本:三谷幸喜)が面白かっただけに、今年も期待したいものです。

ところで、皆さんは「家康が松平姓から徳川姓に変えた理由」をご存知でしょうか?

今回はこれについてわかりやすくご紹介したいと思います。

1.家康が松平姓から徳川姓に変えたのは1566年

徳川家康(1542年~1616年)はもともと「松平次郎三郎元信」を名乗っていました。その後名前を変え、「松平元康」に。そして1566年に、さらに改名して現在語り継がれている名前の「徳川家康」になっています。

この「徳川」姓への改名について、家康は朝廷に対し「旧姓に戻すため」という理由を述べています。しかしこの「旧姓に戻す」とは、一体どういう意味があったのでしょうか?

実はここにこそ、将来「天下統一」を果たすための重要な理由が隠されているのです。

2.「徳川」姓への改名の理由は「源氏の正嫡を名乗るため」

鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」を愛読するなど日本の歴史に詳しかった徳川家康。彼は、「源氏の正嫡でなければ征夷大将軍になることは出来ない」ということを知っていました。征夷大将軍に任命されなければ、いくら武力で天下を統一したところで確固たる地位を確立することは出来ません。

彼はそのことに気付き、家康による天下統一がまだまだはるか遠くにあったはずの1566年の段階で、「自分は源氏の正嫡である徳川氏の末裔だ」と周知徹底させたのです。

ちなみにこの家康の主張は、「清和源氏の支流である新田氏の子孫の新田義季が「徳川四郎」と名乗っていた、徳川四郎は松平氏の祖先だ」というものです。

1566年と言えば家康はまだ25歳。そして周りには武田信玄、織田信長などの圧倒的な勢力がありながら、すでにこの段階で家康は自分が天下を統一するというビジョンを持っていたことが分かります。

3.徳川家は本当に源氏の正嫡か?

ところで家康が主張した「松平氏は、清和源氏の子孫の徳川四郎の末裔」という説は本当なのでしょうか?

実は長い間これは「本当だ」と信じられていたのですが、現代の研究によりどうやら詐称であることが明らかになっています。

というのも、新田義季が「徳川」を名乗ったという事実が、徳川氏によって残された文書以外に見つけられないからです。

4.徳川家康の本当のルーツは何だったのか?

徳川家康のルーツが源氏ではないとしたとき、浮かび上がってくる疑問は当然ながら「では徳川家の本当のルーツは何だったのか?」ということです。

徳川家が三河で勢力を持つ松平氏であったことは確かですが、その成立は明確になってはいません。

ただ江戸時代初期に作成された、松平氏の家老の家に伝わる「松平氏由緒書」では、松平氏の始祖は「松平親氏」だとされています。

それによると親氏はもともと旅人(放浪僧)で、三河国の裕福な家であった松平家へ逗留した際に気に入られ入り婿し、周囲の土地を買い取ることで支配地を増やしていったということです。

年代ははっきりと示されていませんが、1360年から1460年ごろの話しだと考えられています。

これが本当ならば、徳川家康のルーツは由緒正しい家系でもなければ武士でもなかったということになります。

<ご参考>徳川家の系譜を書いた『三河物語』に基づく徳川家康のルーツ

徳川家の系譜は江戸時代に随分書かれていますが、その多くは家康の家臣・大久保彦左衛門忠教(1560年~1639年)の『三河物語』を下敷きにしているといわれます。

すなわち「徳川将軍家の祖は、新田義重である。彼は清和源氏の嫡流であったが、一族の新田義貞の威勢に押されて、新田の内の徳河(得川)郷に住み、徳河殿と称した。そして新田義貞が足利尊氏に敗れた際、徳河を去り、その子孫10代ほどは各地を放浪した。やがて子孫の一人が時宗の僧になり、徳阿弥と号して三河酒井郷を訪れ、男子をもうけた。次いで松平郷の太郎左衛門という人の婿となり、酒井の子を家老にした。これが初代・松平親氏である」というのがおよそのものです。

松平親氏なる人物が本当に新田の子孫であるのかはわかりませんが、新田氏の流れであると称したのは家康が最初ではなく、おそらく家康の祖父・松平清康からでした。清康には「世良田次郎三郎清康」という署名があり、世良田は新田庄内の得川郷のある土地の名なので、新田の子孫であると称しているのに等しいのです。こうした背景もあってか、家康には若い頃から「松蔵源元康」といった署名をしました。松平蔵人佐源元康という意味です。自分は源氏であると称していたわけで、永禄9年(1566年)には、松平から徳川への改姓を朝廷に願い出ました。

では、なぜ改姓したのでしょうか。徳川は徳河、得川に通じ、またかねてより家康が源氏を称していて、さらに祖父・清康も世良田を称していたことを思えば、改姓することで、自分が源氏の名門・新田氏の子孫であると天下に認めさせたかったと見るのが妥当でしょう。家康からの申請を受けた朝廷では、出自を示す明確な証拠がなかったため改姓許可は難航しますが、同年の末には徳川姓が朝廷から認められ、従五位下三河守に叙任されます。三河半分を手中にしていたとはいえ、出自不明の一豪族が叙任と改姓を認められるのは破格といってよいことでした。

実はこの時、朝廷が認めるきっかけとなったのは、家康から周旋を依頼された近衛前久と吉田兼右が見つけたある旧記だったといいます。それによると徳川氏は源氏であり、二系統あるうちの惣領家には、藤原氏になった先例があるというものでした。つまり家康の改姓と叙任を朝廷は、源氏であるからというより、藤原氏になった先例があるからという理由で認めていた可能性が高いのです。タイミングよく見つかった旧記が果たして本物かどうかはさておき、面白いことに家康は以後、源氏だけでなく藤原氏も称しました。本来、源氏の名門を称するための改姓であったはずであり、後年、征夷大将軍に就任する際も源氏であることがものをいうわけですが、天正年間には「三位中将藤原家康」などという署名もしています。

これはなぜなのでしょう。 その一つの理由として、武家の叙任には本来、征夷大将軍の推挙が必要とされていたからだと見られます。ところが家康が申請した永禄9年には、13代将軍足利義輝が松永弾正らに討たれて、後任が決まっていませんでした。将軍位が不安定であれば、将軍の推挙を受けやすい武家の源氏だけで通すよりも、公家の一族である藤原氏も称した方が叙任には有利であると見ることができるのです。織田信長による足利将軍追放によって、以後も源氏であることで叙任に有利ということはなく、天正年間に藤原氏で署名したのはそうした理由がありそうです。

その一方で、たとえば源氏の里見氏と手を組む際は、「同じ源氏のよしみだから」と源氏を前面に出したりもします。巧みに使い分けていたと見る方が実情に近いのかもしれません。そして自らが征夷大将軍に就任する際には、もちろん源氏であることを強調しました。この辺にも家康のしたたかさを見てとることができるでしょう。

なお、徳川への改姓はあくまで家康個人のことであり、松平一族すべてが徳川になったわけではありません。 家康の息子でも、徳川を明確に称したのは、3男の秀忠と、御三家の祖となる9男義直、10男頼宣、11男頼房の4人のみでした。

5.今の天皇家の祖先がどこの馬の骨だったか分からない話に似ている

日本の天皇家(皇室)は、「世界最古の歴史を誇る王室」と言われていますが、とんだ眉唾物の可能性があります。

実は明治天皇は即位直後に暗殺されて、長州出身の大室寅之祐にすり替わったという話があるからです。これが事実とすれば、今の天皇家は「詐称天皇の子孫」ということになります。

これについては、「明治天皇は即位直後に暗殺されて南朝系統の大室寅之祐にすり替わっていた!?」「大室寅之祐は本当に南朝の末裔だったのか?嘘だとすれば今の天皇家の祖先は?」「明治天皇すり替えを告白した田中光顕とはどんな人物だったのか?」という記事に詳しく書いていますので、ぜひご覧ください。