大河ドラマ「どうする家康」に登場する今川義元とは?今川氏最盛期を築いた武将。

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今川義元

今年(2023年)のNHK大河ドラマ「どうする家康」に登場する人物の中には、一般にはあまり知られていない人物もいます。

私は、野村萬斎さん(冒頭の画像)が演じることになった今川義元がどういう人物だったのか大変興味があります。

そこで今回は、今川義元についてわかりやすくご紹介したいと思います。

なお、「どうする家康」の概要については、「NHK大河ドラマ『どうする家康』の主な登場人物・キャストと相関関係をご紹介。」という記事に詳しく書いていますので、ぜひご覧ください。

1.今川義元とは

今川義元

今川義元(いまがわ よしもと)(1519年~1560年)は、戦国時代の武将。駿河国および遠江国の守護大名・戦国大名。今川氏第11代当主で姉妹との婚姻関係により、武田信玄や北条氏康とは義理の兄弟にあたります。「海道一の弓取り」の異名を持つ東海道の広大な地域の支配者。姓名は源義元。

寄親・寄子制度を設けての合理的な軍事改革等の領国経営のみならず、外征面でも才覚を発揮して今川氏の戦国大名への転身を成功させました。所領も駿河・遠江から、三河や尾張の一部にまで領土を拡大させました。

戦国時代における今川氏の最盛期を築き上げましたが、尾張国に侵攻した際に行われた「桶狭間の戦い」で織田信長軍に敗れて毛利良勝(新助)に討ち取られました。

義元は東海を統べる今川氏の最盛期を築いた人物ですが、「桶狭間の戦い」で織田信長に敗れた武将としての印象が強いかもしれません。

また、武将であるにもかかわらず公家の装いをする「公家大名」とも言われます。「お歯黒で、白粉化粧を施していた」や「太り過ぎて馬に乗れず、輿に乗って移動した」といった逸話もあります。

2020年NHK大河ドラマ『麒麟がくる』でも、油断していて御輿に乗って討たれてしまう姿が描かれました。このように、一般的に「軟弱者」という評価をされることが多い人物です。

しかし2023年NHK大河ドラマ『どうする家康』では、家康が父のように心から尊敬する人物で、彼を乱世へと導いた男として描かれます。

2.今川義元の生涯

(1)生い立ちと幼少期

今川義元は、駿河・遠江の領主・今川氏親(うじちか)の三男で、永正16年(1519年)に生まれました。母親は中御門宣胤(なかみかどのぶたね)の娘である寿桂尼(じゅけいに)です。幼名は芳菊丸(ほうぎくまる)。

初め義元は、出家して、駿河国富士郡今泉(=現在の静岡県富士市)の善徳寺(ぜんとくじ)の僧として修業を重ねていました。「梅岳承芳(ばいがくしょうほう)」と名乗り、一時は京都の建仁寺、妙心寺でも研鑽を積んだとされます。

(2)家督を継ぎ、支配を広げる

しかし、天文5年(1536年)4月に兄・氏輝(うじてる)が早世すると、異母兄の玄広恵探(げんこうえたん)と家督を争います。そして、同年6月に彼を倒して今川家を継ぎ、還俗(げんぞく、出家者が再び俗家にかえること)をして「義元」と名乗ったのでした。

義元は、僧・太原崇孚(たいげんすうふ、別名「雪斎」)を登用し、駿河・遠江両国の経営に着手しました。

翌年2月、武田信虎(のぶとら)の娘と結婚し、武田氏と同盟を結びます。しかし、このことがきっかけで、元々同盟関係にあった北条氏綱(うじつな)が駿河東部に侵攻。こうして火蓋が切られた、富士川以東の支配をめぐる戦いは「河東一乱(かとういちらん)」と呼ばれます。そして、天文14年(1545年)、戦いに勝利した今川氏が同地域の支配を回復したのでした。

(3)織田氏との戦いの末、人質・竹千代を奪還

そのころ、尾張国の織田信長の父・織田信秀(のぶひで)が勢力を拡大し、三河に進出し始めます。織田氏により三河・松平氏が圧迫されると、義元は松平氏を援助し三河へ出兵。異説もありますが、天文11年(1542年)と同17年(1548年)の二度、愛知県安城市・小豆坂(あずきざか)という地で織田氏と戦いました(「小豆坂の戦い」)。

この過程で義元は、東三河の吉田城(愛知県豊橋市)を制圧、松平氏の岡崎城(愛知県岡崎市)をも占領。天文18年(1549年)には、織田氏の支城となっていた安祥(あんじょう/あんしょう)城を奪取します。

その際、今川軍が安祥城主・織田信広(のぶひろ)を捕虜として和議が成立、先に織田方の人質となった松平竹千代(徳川家康)と人質交換を行いました。

松平広忠(ひろただ)の子として生まれた竹千代は、6歳で人質として今川氏のもとへ行く途中を織田方に捕らえられて、尾張に送られていたのでした。当時の松平氏は、今川氏と織田氏との両勢力に挟まれた弱小の大名で、広忠は今川方に属していました。

そんな中、今川氏の安祥城の攻略により、竹千代は8歳で駿府に移り、今度は今川氏の人質となります。

(4)内政と外交を充実させ、今川氏の勢力を拡大させる

天文末期(1532年~55年)の頃には、今川氏はそれまで治めていた駿河・遠江に加えて、ほぼ三河(愛知県)の領国化に成功します。そして、領国の拡大とともに支配体制を着実なものとしていきました。例えば、検地の実施、家臣団・寺社統制、商工業・伝馬(てんま)政策、鉱山開発などがあります。

また、天文22年(1553年)には、分国法「仮名目録追加」を制定します。これは、父・氏親が制定した「仮名目録」に追加する形を取った領国内の法です。両者を合わせて「今川仮名目録」と呼びます。

さらに、西進を目指す義元は領国である東部の政治を安定させるため、天文23年(1554年)には政略結婚による北条氏康(うじやす)、武田晴信(はるのぶ、信玄)との三者同盟を完成させます(=甲相駿<こうそうすん>三国同盟)。

さらに永禄元年(1558年)には、駿遠支配を子息・氏真(うじざね)に分掌させ、自らは三河支配と尾張領国化を策しました。こうした一連の内政と外交の充実、連携によって今川氏は発展していったと考えられています。

(5)「桶狭間の戦い」で討死

そして、永禄3年(1560年)5月、駿遠三の兵力を動員し、尾張へ侵入します。義元は、織田方の丸根(まるね)・鷲津砦(わしづとりで)を陥落させ、同月19日、本陣を桶狭間(現在の愛知県豊明市)に移しました。しかし、そこでの在陣中、織田信長の急襲を受け、壮烈な討死を遂げたのでした。

ちなみに、家康はこの戦いに今川方の先鋒として参陣していました。しかし、義元が戦死したという情報が入り、敵中に孤立してしまう可能性が出てきたため、夜陰に紛れて大高城を脱出。今川兵が逃げ去り、空き城となった岡崎城に帰還します。その後も今川方として戦いましたが、今川氏からの援助はなかったため、独立。

こうして今川氏と家康との人質関係は、義元の死で終止符が打たれました。岡崎城城主となり、翌年、西三河を平定した家康は、ここから天下人まで駆け上がっていくのです。

3.今川義元の人物像・逸話

・武勇に関しては幼いころから仏門に入っていたため、武芸を学ぶ機会に恵まれず優れなかったと伝えられていますが、「桶狭間の戦い」では信長の家臣・服部春安が真っ先に斬りつけようとした時、自ら抜刀して春安の膝を斬りつけて撃退、さらに毛利良勝が斬りつけようとした時にも数合ほどやり合った末に首を掻こうとした良勝の指を食い千切って絶命したと伝えられており、武芸の素養が無かった訳ではありません。

・公家文化に精通し、京都の公家や僧侶と交流して、京都の流行を取り入れて都を逃れた公家たちを保護しました。山口の大内氏と一乗谷の朝倉氏と並ぶ戦国三大文化を築きました。

さらには自らも公家のようにお歯黒をつけ、置眉、薄化粧をしていたことから、貴族趣味に溺れた人物とされることもあります。

しかし公家のような化粧をした話は後世の創作であるという説もあります。また、たとえ事実であったとしてもそれは武家では守護大名以上にのみ許される家格の高さを示すことこそあれ、軟弱さの象徴とは言い難いものです。武士が戦場に向かう際に化粧をしていくことは、珍しくないばかりか嗜みの一つであったという説すらあります。

・父・氏親が三条西実隆に和歌の添削指導を受けていたように、義元は駿府に流寓していた冷泉為和に直接指導を受けていました。歌会は、毎月13日、のち11日に行うのが定例になっており、このように月次会を定期的に行うのは全国的に見ても珍しいことです。

ただ、義元は連歌は好まなかったようで、連歌会の記録はほとんど残っていません。今川家中の和歌のレベルは実際はあまり高くなかったらしく、同工異曲の似たような歌が頻出し、そもそも歌合の題目をよく理解していない作品が多くあります。義元自身も例外でなく、為和から厳しく指導された記録が残っています。

・『信長公記』では義元の「桶狭間の戦い」の際の出で立ちを「胸白の鎧に金にて八龍を打ちたる五枚兜を被り、赤地の錦の陣羽織を着し、今川家重代の二尺八寸松倉郷の太刀に、壱尺八寸の大左文字の脇差を帯し、青の馬の五寸計(馬高五尺五寸の青毛の馬)なるの金覆輪の鞍置き、紅の鞦かけて乗られける……。」と伝えています。

・永禄3年(1560年)の尾張侵攻は、上洛目的説と織田信長討伐・尾張攻略説とがあります。ただ、浅井氏や六角氏、北畠氏といった道中の大名に対して外交工作を行った形跡がなく、年内に軍勢もろとも上洛しようとしていたという説にはやや無理があります。

・義元が討死し、岡部元信が主君の首と引き換えに織田方に鳴海城を明け渡した際に、義元の首とともに引き渡された兜が岡部家に伝わり、三の丸神社(大阪府岸和田市)に奉納され、今に伝えられています。

・「桶狭間の戦い」の直前、義元の夢の中に花倉の乱で家督を争った異母兄の玄広恵探が現われ「此度の出陣をやめよ」と言いました。義元は「そなたは我が敵。そのようなことを聞くことなどできぬ」と言い返すと「敵味方の感情で言っているのではない。我は当家の滅亡を案じているのだ」と述べたため夢から覚めました。義元は駿府から出陣しましたが、藤沢で玄広恵探の姿を見つけて刀の柄に手をかけたということです(『当代記』)。

・金山開発や交通網整備にも政治手腕を発揮したといわれます。

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