江戸風俗がよくわかる「川柳いろは歌留多」(その4)(ら~く)

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江戸風俗川柳いろは歌留多

前に「江戸いろはかるた」を紹介する記事を書きましたが、江戸風俗がよくわかる「川柳いろは歌留多」というのがあるのをネットで見つけましたのでご紹介します。

これは、Ahomaro Ufoさんが作られたものです。この「川柳いろは歌留多」は江戸川柳「柳多留」から、庶民の生活を詠んだ川柳を<現代語解釈>で表現した不思議な空間です。

江戸の庶民風俗を浮世絵と明治大正時代の手彩色絵葉書や昭和30年頃までの広告などを巧みに取り入れた時代絵巻は、過去例を見ない雰囲気を醸し出しています。

Ahomaro Ufoさんが作られたものを、私なりにアレンジしてご紹介します。

1.ら:乱落(らんらく)の中で毅然と由良之助(ゆらのすけ)

川柳江戸風俗いろは歌留多・ら

混乱状態でも、毅然として指示を送る由良之助。これは歌舞伎狂言『仮名手本忠臣蔵』11段目「討ち入り」の場面です。

当時の歌舞伎は、照明の関係で明け六つ(午前6時頃)から夕七つ(午後4時頃)の興行でしたが、連日大入り満員でした。

中でも『仮名手本忠臣蔵』は人気が高く、現在まで残っています。これは元禄14年(1701年)3月14日、江戸城中で浅野内匠頭吉良上野介に刃傷に及んだことが発端となった赤穂浪士事件を題材にしたものです。

『仮名手本忠臣蔵』は、人形浄瑠璃とこれに基づく歌舞伎劇で、全11段。2世竹田出雲、三好松洛、並木千柳の合作。寛延元年 (1748年)大坂竹本座初演。人口に膾炙 (かいしゃ) した赤穂義士の討入りを材料として、時代を『太平記』の世界に取り、吉良上野 を高師直 (こうのもろなお) 、浅野長矩 (ながのり) を塩谷判官 (えんやはんがん) 。大石良雄を大星由良之介としています。史実に新解釈を加え、趣向・仕組みに変化をもたせつつ構成に統一を保っています。

特にお軽・勘平の登場から山崎の農家の悲劇を描いた5段「山崎街道・二つ玉」、6段「お軽身売り・勘平腹切」、はなやかで哀愁のある7段「祇園一力茶屋」、前半の母娘の情と後半の父性愛の両立が至難とされる9段「山科閑居」が傑出しています。

初演以来何百回となく人形浄瑠璃と歌舞伎に上演を繰り返してきました。義士劇隆盛を現出させ、またその頂点に立つ作品であり、今日でも歌舞伎 12月興行でよく演じられています。

2.む:娘ども赤い花火も黄み走(ばし)る

川柳江戸風俗いろは歌留多・む

両国の川開きでは、「たまや~、かぎや~」の掛け声でおなじみの玉屋(たまや)・鍵屋(かぎや)の花火船が腕を競いました。

江戸市中で花火は禁止されていましたので、年に一度のこの時だけは大勢の人々が両国橋に押し掛けました。

玉屋・鍵屋は打ち上げ花火で姸(けん)を競っていましたが、鍵屋が老舗(しにせ)で、番頭の静七が暖簾(のれん)分けして開いたのが玉屋です。

川開きでは玉屋が上流、鍵屋が下流に位置したのは35年間ほどで、天保14年(1844年)玉屋は自家から火を出し、財産没収のうえ江戸払いとなりました。

その後の花火は鍵屋が独占しましたが、掛け声だけは玉屋も残りました。

しかし、現役の頃から「たまや~」の掛け声の方が多く、その後も花火の掛け声の代名詞として現在に至っているのはなぜでしょう?

ひとつは花火の技術が勝っていたこと。もうひとつは、語呂が良いので掛け声を掛けやすかったこと。そして、「江戸っ子気質」がそうさせたことです。

次のような狂歌があります。

橋の上 玉屋玉屋の声ばかり なぜに鍵屋と いわぬ情(じょう)なし

これは、実力があったのにたった一代で花火のように消えた「玉屋」への愛情を示したものです。「情」に「錠」をかけており、「鍵屋の声がねぇのもしかたあるめぇ。錠がねぇんで口が開かねぇ」という詠み手の洒落を含んでいます。

3.う:敬えば嬶(かかあ)うぬぼれ天下とる

川柳江戸風俗いろは歌留多・う

江戸の家庭では、社会の上層になればなるほど「亭主関白」で、下層になればなるほど「嬶天下」でした。

上層の武家では「男尊女卑」が建前で、一緒に出歩く場合でも女は三歩下がって歩くのでした。下層の庶民の場合は、女房が満足するほどの稼ぎもなく、亭主はしょっちゅうかみさんの機嫌を取っていたので、おのずと女のほうが威張っていました。

4.ゐ:為(ゐ)にならぬ芸の奥義で茶をひかず

川柳江戸風俗いろは歌留多・ゐ

芸者・遊女などが客がなく暇でいる(あぶれている)ことを「御茶(おちゃ)を挽(ひ)く」と言います。これは遊女が、客のないときに茶臼 (ちゃうす) で葉茶をひく仕事をさせられたところから生まれた言葉です。

器量の悪い女でも、何か芸を身に付けていると茶をひかずに済むので、岡場所の遊女たちはこぞって奇妙な芸を覚えたとか。

上の絵にあるような「足弓(あしゆみ)」は結構高等な芸です。辰巳芸者の中に足弓の達人がいたと記された黄表紙本があります。

事故で手足が不自由になり、口に絵筆をくわえて描く画家星野富弘氏や、「五筆和尚(ごひつわじょう)」と称賛された弘法大師の芸には及ばないと思いますが・・・

星野富弘

五筆和尚

5.の:望むらく子を従えて親育つ

川柳江戸風俗いろは歌留多・の

子供の将来を期待し、読み書き算盤(そろばん)はもとより、専門的な教育も盛んでした。職業は世襲の世の中でしたが、子供は6~7歳になると寺子屋で学習しました。

授業は一日約6時間で、月謝は決まっておらず、身分や貧富の差に応じて納めていたようです。

幕末期の江戸にはこのような寺子屋が4,000軒以上あったとされています。また、現代と同じように「英才教育」も盛んで、専門の塾もあり、宵越しの銭は持たない庶民であっても、子供の教育には熱心でした。

上記の川柳は、どこの親も子供の自慢話のために、子供を教育する様子を詠んだものです。

6.お:お内儀(ないぎ)の手を見覚えるぬいはく屋

川柳江戸風俗いろは歌留多・お

「縫箔屋(ぬいはくや)」とは、縫い(刺しゅう)と箔(摺箔(すりはく))を用いて裂地(きれじ)に模様加工をする職人のことです。室町末期から桃山時代を経て江戸前期に至る初期小袖(こそで)染織の時代においては、多彩な絵模様を表す手段として、盛んに用いられました。

そんな縫箔屋は、注文主のお内儀(町人の妻の尊敬語)から、再三手紙でいろいろ難しい注文を受け、お内儀の筆跡を覚えてしまうほどだったというわけです。

7.く:暗がりの恥もかくさぬ怨念本(おんねんぼん)

川柳江戸風俗いろは歌留多・く

江戸時代後期には、怪奇本や怨念本など表舞台では決して受け入れられない出版物が多く出回っていました。

これらの本は書店の店頭には並ばず、家々を回って歩く行商人の「貸本屋」によって広まって行きました。

そんなわけで、この種の本を人知れず読むのは、特に日中暇な女房連中が多く、怨念本読みたさに貸本屋と不義密通する者もあったとか。

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