今年(2023年)のNHK大河ドラマ「どうする家康」に登場する人物の中には、一般にはあまり知られていない人物もいます。
私は、橋本さとしさん(冒頭の画像)が演じることになった山県昌景がどういう人物だったのか大変興味があります。
そこで今回は、山県昌景についてわかりやすくご紹介したいと思います。
なお、「どうする家康」の概要については、「NHK大河ドラマ『どうする家康』の主な登場人物・キャストと相関関係をご紹介。」という記事に詳しく書いていますので、ぜひご覧ください。
余談ですが、江戸時代の将軍で、正室・継室や側室の数でトップはやはり初代将軍・徳川家康(1543年~1616年)で、合計22人以上いたと言われています。
二番目に多いのが「オットセイ将軍」と呼ばれた11代将軍・徳川家斉(いえなり)で、正室・継室や側室が合計17人以上いたということです。ただし40人以上いたという説もあります。
現代の価値観では、戦国武将達が多くの側室を持っていたことに、ひどく嫌悪感を抱く人も多くいることでしょう。しかし、明日をも知れぬ戦乱の世で、御家を存続させるため、多くの子を儲ける必要があり、ひとりの女性だけでは限界があるので、仕方のないことでもありました。
1.山県昌景とは
山県昌景(やまがた まさかげ)(1529年?~1575年)(別名:飯富源四郎、飯富三郎兵衛尉)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。甲斐武田氏の家臣で、譜代家老衆。後代には「武田四天王」の一人に数えられます。
甲斐武田家の信玄・勝頼の父子2代にわたって仕えた武将です。
2.山県昌景の生涯
(1)系譜と生い立ち
山県昌景は、武田家の家老を務めた飯富虎昌(おぶとらまさ)(1504年~1565年)の弟または甥にあたる人物と伝えられています。
戦国時代の飯富氏の一族では武田信虎家臣の飯富道悦(おぶどうえつ)の息子とみられる「源四郎」が1515年10月17日に西郡の国人の大井信達との合戦で死去しています。この「源四郎」は山県昌景の幼名と一致するため、「源四郎」が虎昌・昌景の父親にあたると考えられています。
山県昌景は、その虎昌から武具を朱塗で統一した精強な「赤備え」の兵を受け継ぎ、率いて名を馳せ、この「赤備え」という名称を、遠く他国の兵にまで知られ恐れられる部隊とした武将です。
「赤備え」は、後の時代の井伊直政や真田信繁に繋がる精鋭部隊の代名詞となりました。
山県昌景は幼名を飯富源四郎(おぶげんしろう)と言い、のち飯富三郎兵衛と称しています。飯富虎昌の弟として武田信玄の近習となったとされています。
兄とされる飯富虎昌は武田信玄の嫡男・武田義信の傅役として、厚い信頼を得ていました。
飯富氏は本来「飫富」と書いて「オブ」と読み、甲斐源氏・逸見光長の子が飯富源内長能と名乗ったことから始まると言われています。(出自には諸説あり)
いずれにしろ飯富氏は清和源氏の流れを汲み、巨摩郡飯富郷を領し、代々武田家の重臣として活躍します。
ただし、飯富源四郎(山県昌景)と飯富虎昌とは年齢差が約25歳と大きいこともあり、飯富虎昌の弟ではなく「甥」と言う説が現在では有力です。
安芸・毛利氏の信憑性が高い史料「閥閲録」では、飯富源四郎の母は飯富虎昌の姉であり、生母である飯富虎昌の姉が没したあと継母と不仲となり、11歳の時源四郎は出奔し、母方の伯父・飯富虎昌を頼り甲斐に赴いて武田家家臣となったとあります。
(2)武田信玄の家臣としての活躍
飯富源四郎は、武田信玄の近習からお使番を経て、1554年信州伊那攻めで初陣。神之峰城一番乗りなどの戦功を上げました。
身長は130cm~140cmと小柄で、体重も軽く、唇が裂けているなど見てくれは悪かったと言われており、継母との不仲の理由かも知れません。
しかし、武勇だけではなく内政・外交にも優れ、武田信玄のよき片腕となって活躍します。軍略面において城攻め、野戦で見せるの采配ぶりは、戦上手の武田信玄も感嘆するほどだったそうです。
板垣信方・甘利虎泰の討死後は、武田家の政治最高機関である「職」を原昌胤と共に務め、1552年には侍大将150騎持ちとなりました。
1556年頃の相備え衆として、小笠原信嶺100騎、下条伊豆守150騎、松岡新左衛門父子50騎との記録があります。
采配御免の衆(20回以上の手柄を立てた家臣)としては、飯田某、西巻監物、ふたつぎ(二木?)弥右衛門、猪子才蔵、三科肥前、小菅五郎兵衛、孕石源右衛門、広瀬郷左衛門、古畑伯耆守、曲淵庄左衛門吉景、ふたつき(二木)源三郎、三井某、渡部三左衛門、川手文左衛門、北地五郎左衛門、和田加助、石黒将監、こち某(古地、小知)、尾崎某、久保勘左衛門、越石主水、小崎三四郎、滝三郎左衛門、今福求馬介(今福求女助)、長坂宮内左衛門、河原村伝兵衛(川原伝兵衛)、志村宮内丞、辻弥兵衛盛昌、早川三左衛門幸豊、鳶二位とあります。
1559年6月下旬には、飯富源四郎、馬場景政、甘利晴吉が、松本から現在の平湯温泉まで、道なき道を切り開き、大木を倒して橋を掛け、安房峠の南側の大峠から北アルプスを越えて、飛騨に侵攻。飛騨出身の都竹五郎左衛門の説得により、飛騨神岡の江馬氏が武田に降伏し、江馬氏は知行地を安堵されました。武田軍はこの際、平湯温泉を発見したと言われています。
1561年5月にも、飯富源四郎は江馬氏を扇動して、飛騨統一をもくろんでいた三木氏を攻撃するため、飛騨攻めしています。
1563年、飯富源四郎を改め、飯富三郎兵衛と改名します。
1564年の飛騨攻めでは主将を任じられ、安房峠を越えて、飛騨・尾崎城の塩屋秋貞などを攻略しています。
(3)武田信玄の嫡男・武田義信による「信玄暗殺未遂事件」(義信事件)
1564年、武田信玄の嫡男・武田義信が武田信玄暗殺を企てます。飯富三郎兵衛の兄とされる飯富虎昌は武田義信の傅役という立場上、この謀反に加担せざるを得ず、甲陽軍鑑によると飯富虎昌と武田義信側近の長坂昌国(長坂源五郎)、曽根周防守らが武田信玄暗殺の密談をしました。
飯富虎昌は飯富三郎兵衛にわざと聞こえるように画策し「いかに兄と言えども御大将に弓を引く謀反の企ては許せない」と武田信玄に訴えたことによって事件が発覚し、武田義信や飯富虎昌、穴山信邦らは捕らえられたと言われています。
その後、飯富虎昌は事件の責任を取る形で、1565年10月19日切腹。(62歳)
なお、この義信謀反にはその理由・経過・結果には諸説あり、よくわかっていません。家臣団を2つに割った義信事件は武田信玄死後の武田家に大きな影響を及ぼすことになりました。
武田信玄は、謀反の責めを負った飯富姓のままであると飯富三郎兵衛も肩身が狭いと考え、恩賞という形で、武田信虎の代に重臣・山県虎清が武田信虎に断絶させられていた、武田とも縁が深い「山県姓」を飯富三郎兵衛に与えました。
飯富三郎兵衛は山県昌景と名を改め、譜代家老衆に加わることになりました。
また、兄・飯富虎昌の同心50騎を含めた500騎持ちと武田家中最大規模の侍大将となり、飯富虎昌の赤備えも引き継いだとされています。
1567年5月には武田信玄自ら安房峠を越えて飛騨に入っており、山県昌景も同行したと思われます。
1569年には、「三増峠の戦い」にも従軍。
1571年には、駿河で得た江尻城の最初の城主に山県昌景が就任し、駿河方面を統括。
1572年12月22日、山県昌景は「三方ヶ原の戦い」で、秋山信友と共に徳川家康に正面攻撃を仕掛け、徳川本陣に迫りました。
徳川家康は脱糞して命からがら浜松城に退却し「さても恐ろしきは山県なり」と言ったということです。そして徳川家臣・本多信俊の子の名を「山県」と称すようにしたとも言われています。
この戦いのあと山県昌景は、馬場信春が作った江尻城主に任じられ4万石となり、武田に帰属した駿河先方衆が相備衆として加わり、馬場信春と共に老臣筆頭となりました。
武田信玄はこの時最重要であった駿河の支配を山県昌景に任せ、井伊直虎の井伊谷城などを攻撃しています。
1573年03月、武田信玄西上に際しては別働隊5,000を率いて三河東部へ侵入。長篠城を経由して浜松方面へ進軍し、柿本城・井平城・段嶺城・奈倉城など6つの城を落としています。
甲陽軍鑑によると武田信玄の臨終の際には枕元へ呼ばれ「明日は瀬田に旗を立てよ」と遺命されたとのことですが、武田勝頼が武田を継いでからは仲が悪かったとも言われます。
この頃には相備え衆として、朝比奈駿河守150騎、松尾100騎、大熊備前守30騎、相木市兵衛80騎、奥平美作守150騎、菅沼新三郎40騎、長篠30騎、三浦右馬助40騎、三浦兵部20騎、孕石主水2騎などの名があり、同心・被官合計980騎を持っています。1騎あたり3~5人程度の農兵が加わっていたので総動員すると約5000の兵力です。
(4)武田勝頼の家臣として「長篠の戦い」で討死
1575年5月6日、「長篠の戦い」において武田勢は長篠城を包囲。山県昌景隊300騎と高坂隊300騎は遊軍として有海村に集結しました。
「長篠の戦い」では、総攻撃開始に先立って偵察した結果を馬場信春や内藤昌豊と協議し、攻撃する側が不利であるため、退却を武田勝頼に進言しましたが聞き入れられませんでした。
1575年5月21日、武田が大敗する結果となった「設楽ヶ原の戦い」で山県昌景は武田信豊の指揮下に入り、左翼隊の主力として戦いました。
小笠原隊・甘利隊・跡部隊と共に徳川勢・大久保忠正隊を攻撃。敵の鉄砲隊が交代する隙を計り敵陣に突入しましたが、全身に被弾しました。銃丸に当たること17ケ所と言われています。しかし、被弾しても馬から落ちず、采配を咥えたまま絶命したということです。
別の有力文献では徳川勢の鉄砲の名手・大坂新助が山県昌景を狙い1発撃ったが倒せなかったので2発目を撃ったところ、弾丸は山県昌景の兜の眉に命中し、山県昌景は落馬して討死したとあります。(落命時の状況などには諸説あり)
「信長公記」によると「長篠の戦い」で、討ち取った武田勢の名前に山県昌景の名が一番目として記載されており、織田信長から見て、武田の重臣の中でも筆頭の重要武将であったことがわかります。
山県昌景討ち取りの報を聞いて、もっとも惜しみ、悲しんだのは徳川家康でした。以後、徳川家康の重臣・井伊直政や真田昌幸の次男・真田信繁(のちの真田幸村)らも「赤備え」を採用しています。
このように、合戦・戦略・外交・治安・内政など万能に秀でた武将として敵武将からも評価され、武田家四臣の一人として称えられています。
3.山県昌景の子孫
(1)山県昌景の嫡男・山県昌次
山県昌次は父・山県昌景と共に「長篠の戦」で織田・徳川勢と戦いました。山県昌景討死の報が山県昌次に届くと、直ちに刀を取り馬から降りて父・山県昌景の側に向かいましたが、名取又左衛門道忠手という者が山県昌景の首を抱いて立ち去っていました。
気が付くと周りは敵だらけになっており、山県昌次は父討死の地で割腹し殉死したと言われています。27歳前後と考えられています。
(2)次男・山県昌満
父・兄が「長篠の戦い」で討死した為、山県家の跡は山県昌景の次男である山県昌満が継ぎましたがまだ幼少だったため、身寄りで同心頭・足軽大将の小菅五郎兵衛がしばらく助けて陣代を務めていました。
小菅五郎兵衛は「長篠の戦い」で大久保忠世・大久保忠佐・大久保忠教と槍を合わせ奮戦したとも伝わります。
元服後、山県昌満は遠江・諏訪原城主にもなっていたようです。
1582年3月7日、武田勝頼が討死する4日前、山県昌満は兵を率いて武田勝頼を守ろうとしましたが、武田勝頼は異心あると疑ったため、甲府に留まっていたところを武田竜宝・武田信綱・武田信堯・一条信就・朝比奈信直・諏方頼豊らと共に織田・徳川勢に殺害されたと言われています。
この時、小菅五郎兵衛も武田勝頼を裏切ったとされ、徳川信忠に殺害されたようです。
別説では山県昌満は武田氏滅亡後、上杉景勝に仕えたがのちに須賀川に流されたとのことです。
(3)三男~七男(山県昌久・山県定昌・山県昌重・山県太郎右衛門・山県信継)
三男・山県昌久は「長篠の戦い」のあと、母方の実家がある尾張で暮らし上村源四郎と称したようです。その子・上村昌時が越前松平家 (結城秀康) に仕えて家老として第二位までなり3,600石を領しています。10代後に山県性に復帰し現在も子孫が残っています。
四男とされている山県定昌は源八郎とも呼ばれ、萩原豊前の子で山県昌景の養子になったようです。武田氏滅亡後は上杉氏に出仕した可能性もありますが、不詳です。
五男・山県昌重は、山県三郎右衛門とも言い、「大坂の陣」では塙団右衛門の家老でした。1614年5月6日、浅野勢・上田宗固の兵に討ち取られます。山県昌景・江尻城主時代の子供とも言われています。
六男・山県太郎右衛門は野沢豊後の子で、山県昌景の養子になりました。子孫は山県大弐と言う江戸中期の学者になっています。
七男・山県信継は三郎兵衛と言い徳川家に仕えました。山梨県川浦村に500石を知行し、川浦口留守番を命じられます。現在、子孫が三富・川浦温泉「山県館」という旅館を経営しており、武田家旧温会会長も務めています。
(4)山県昌景の娘
この他、山県昌景の娘が数名(いずれも名前不明)いたことがわかっており、三枝昌貞・相木市兵衛・横田尹松などに嫁いでいます。
4.山県昌景の人物像・逸話
・『信長公記』の長篠の戦いの部分で、討ち取った首の表の筆頭に上げられているのは、昌景の名前です。それほど彼の名は敵方にも広く知れ渡っており、武田家重臣の筆頭格であったことがわかります。武田四天王・武田二十四将の一人に数えられています。
・山県隊は部隊の軍装を赤一色に統一し編成したことから、「赤備え」として諸大名から畏怖されました。「赤備え」を見ただけで勇猛な兵ですら震え上がったと言われます。
山県隊があまりにも強すぎたことから「赤備え」は最強部隊の代名詞となり諸大名に大きな影響を与えました。
なお、昌景の死後、徳川家康の重臣の井伊直政や真田昌幸の次男の真田信繁らも「赤備え」を採用しているのを見ても、その強さがいかに畏敬されていたかがわかります。
・武勇に優れる昌景でしたが、風采は冴えなかったとされています。身長は130cmから140cmの小柄で、体重も軽く、痩身で兎唇の醜男だったと言われています。
しかしながら『校合雑記』では、昌景のことを次のように伝えています。
袴腰と頭との間、僅か四・五寸ならでは無き程の小男にて、不器量なれども渠を備え、立てば耳の際に雷が落ちたる如くなり。信玄家臣の中でも股肱の大将かな。戦にては信玄の小男出たりと恐怖しける程の侍大将に有りける也
・飯富兵部の「弟」とされることが多いですが、年齢差も大きいことから「甥」とする説もあります。
この説の根拠は安芸国の戦国大名の毛利氏に伝わる『萩藩閥閲録』・『萩藩諸家系譜』等々の記述です。
同書によれば昌景の父は安芸武田氏に使えた安芸国の国人で、壬生城の城主であった山県重秋とされ、兄に山県重房がいます。それによると昌景の母は飯富兵部の姉とあり、11歳の頃、出奔した昌景が叔父を頼って甲斐国に赴いたとある。ただし、確実な山県昌景関係史料からは昌景が西国出身であることは確認されていません。
・娘婿には足軽大将の三枝昌貞がおり、昌貞は山県姓を名乗っていることが文書上からも確認されます。山県軍団の相備衆を担っていた相木市兵衛や、江戸幕府の直参旗本となった横田尹松も娘婿です。
・「川中島の戦い」の際、上杉方の猛将の鬼小島弥太郎と一騎討ちを行った逸話があります。又、その最中、武田信玄の嫡男の義信が窮地に陥るのを見て、昌景は弥太郎に「主君の御曹司の窮地を救いたいために、勝負を預けたい」と願い出たところ、弥太郎が快諾ましした。昌景は弥太郎を「花も実もある勇士」と称賛したということです(甲越信戦録)。
・信玄の異母弟の一条信龍が昌景に対して、「山県隊はなぜそんなに強いのか」と訊ねると、「訓練も重要ですが、それだけではなく、一番大切なのは戦に臨む心がけであり、いつも初陣のように合戦に赴く覚悟で慎重に策を練り、勝てると思っても確信しない限り戦わないようにしているからです」と答えたということです(翁物語)。
・飛騨攻めをした際、疲弊で士気が下がっていた軍勢の前に現れた一匹の猿に導かれるように温泉に入って疲労回復したという伝説があり、これが「平湯温泉」開湯とされています。