「四木三草(しもくさんそう/しぼくさんそう)」とは?わかりやすくご紹介します。

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四木三草

皆さんは「四木三草」という言葉をお聞きになったことがないでしょうか?

聞いたことがあるような気がする方も多いと思いますが、詳しくは知らない方が多いと思います。

そこで今回は、「四木三草」をわかりやすくご紹介します。

1.「四木三草」とは

四木三草(しもくさんそう/しぼくさんそう)」とは、江戸時代の代表的な商品作物のことです。「三草四木」とも言います。

いずれも江戸時代の諸藩が栽培を奨励し、その多くは藩の専売制のもとに藩財政を支える重要な財源とされました。とくに米作に不適な山間部や洪水の常襲地帯などでは、江戸時代初頭から四木三草の栽培が積極的に奨励されました。

(1)四木

「四木(しもく/しぼく)」というのは、 漆(うるし)・茶・楮(こうぞ)・桑(くわ) です。

漆は、漆塗り、漆器(しっき)に使われま、会津(あいづ)が有名です。

会津塗漆・採取

茶は山城(やましろ)や駿河(するが)が有名です。

茶茶畑

楮は、紙の原料になりました。

紙漉き楮

桑は養蚕(ようさん)において蚕(かいこ)のエサに使われました。こうして育てられた蚕は繭(まゆ)をつくり、そこから 生糸 が取れ、最終的に絹となります。

絹織物蚕桑

(2)三草

「三草(さんそう/みくさ)」と呼ばれるのは、 麻(あさ)・紅花(べにばな)・藍(あい) です。

麻は布の材料、紅花は赤色の染料、藍は青色の染料です。

麻裃麻

麻は、下野(しもつけ)の鹿沼(かぬま)が大産地とされ、その強靭(きょうじん)な繊維のために漁網、畳糸、馬具などに使用され、また蚊帳地(かやじ)となり、とくに武士の必需品としての裃(かみしも)の生地ともなったので重要な産業になっていました。

主要産地は広島、島根、福井、新潟、秋田などでした。また麻苧(あさお)は米沢(よねざわ)、人吉(ひとよし)、広島の諸藩で「専売制」となっていました。

紅花は出羽(でわ)・陸奥(むつ)の名産品です。

紅花染料紅花

藍は阿波(あわ)の名産品です。

藍染藍

(3)江戸時代のその他の商品作物

その他の商品作物としては、 木綿(もめん)・菜種(なたね)・たばこ・い草 がありました。

木綿または綿(わた)は、工業で綿糸に加工され、最終的に綿織物になります。

この木綿は、三河(みかわ)・尾張(おわり)・河内(かわち)が主要な産地でした。
菜種は油の材料、い草は畳の材料で、備前(びぜん)・備後(びんご)が有名です。

2.「四木三草」の覚え方(語呂合わせ)

(1)(あさ)あい紅(べに)の/クコ茶売る
花)((こうぞ)・(うるし))

[句意]浅い紅色、すなわち淡(あわ)い紅色のクコ茶を売る、という句。「浅い」をゴロのため「浅あい」としています。なお、三草・四木と逆の順番になっているのに注意してください。

(2)桑ちゃんの行動にうるっと来た。朝、あいつに口紅が!

「桑ちゃん」で「桑」と「茶」、「行動」が「楮」、「うるっと」が「漆」で、「四木」です。

「朝」が「麻」、「あいつ」が「藍」、「口紅」が「紅」で、「三草」です。

3.「藩専売制」とは

「藩専売制」とは、江戸時代に諸藩が財政困窮を解決するための手段として、領内における特定商品、あるいは領外から移入される商品の販売を独占する制度のことです。すでに江戸初期から実施され、諸藩の財政窮乏が表面化する中期以降に多くの藩で実施されています。

余談ですが、2021年のNHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公・渋沢栄一の実家も、「藍玉(あいだま)」の製造販売と、「養蚕(ようさん)」を兼営し、米・麦・野菜の生産も手掛ける富農(「名主」身分)でしたね。

(1)商品の独占形態

藩専売制における商品買占めの形態は、領主自身が直接、特定商品の買占めにあたる「直接的購買独占」と、城下有力商人らと提携し、彼らに資金を与えて買占めを行わせる「間接的購買独占」の二つに分けることができます。

なかには領主自身が特定商品の栽培または生産を行う場合もありました。商品の販売にあたっては、領主が領内に一手に売りさばく「領内配給独占」と、独占した商品を大坂や江戸市場に送って売りさばく「領外移出独占」との二つに分けることができます。

あるいは、両者をともに行う例もありました。

多くの場合、特定商品の仕入れおよび販売にあたっては、産物方・産物会所や国産会所といった専門の役所を設置し、なかには統制の対象となる商品名をつけた紙方会所、木綿会所、砂糖会所などといった名称を持つものもあります。

「直接的購買独占」の場合、藩の役人が会所役人に任命されている例が多く、「間接的購買独占」の場合には、城下の有力商人や統制の対象となる商品を扱う問屋商人が会所の頭取に任命されている例が多いです。

また、「領外移出独占」の場合、大坂や江戸に出先の大坂・江戸会所を設け、同地の有力問屋商人に商品の販売を任せている例もあります。領主は商品の買占めにあたって資金の準備を必要としますが、中期以降、諸藩で藩札が発行されると、藩札をもって商品を購入し、これを大坂・江戸に送って正貨を獲得する方法が実施されました。

このために会所と並んで藩札発行のための会所を併置した例もあり、なかには会所頭取の有力商人が札元(ふだもと)を兼ねる場合もありました。

専売の対象となった商品は、全期間を通して紙がもっとも多く、続いて櫨(はぜ)および櫨蝋(はぜろう)、漆(うるし)および漆蝋、塩、藍(あい)、砂糖、繰綿(くりわた)、木綿、青莚(あおむしろ)、生糸、絹織物、煙草(たばこ)、寒天、蒟蒻(こんにゃく)、人参(にんじん)、紫根(しこん)、明礬(みょうばん)など実に多種多様でした。

専売制が開始されると、専売商品の生産および流通に関係する人々は、商品の自由取引を禁止されて、領主の統制によって生活は圧迫されざるをえません。

このため各地で生産者や仲買人らによる専売制反対の動きが広まりました。なかには、領民の専売制反対の運動によって中止されている例もあり、実施されても長期にわたって継続されていた例は、辺境雄藩の場合を除いて非常に少ないものでした。

(2)藩専売制の展開

専売制の具体例としては、まず初期専売の代表的なものとして、金沢藩における塩専売制の実施をあげることができます。

この藩では古くから能登(のと)半島の沿岸を中心に、揚浜(あげはま)塩田による製塩が行われていましたが、寛永(かんえい)(1624年~1644年)ごろ藩は塩手米(しおてまい)との引き換えの形で製塩を独占し、これを領内各地の問屋を通して一手に売りさばいていました。

また、このために瀬戸内で生産された西国塩の領内への輸入は禁止されていました。この塩専売制は初期以降、幕末までほぼ一貫して継続されています。

ほかに初期専売制の例としては、仙台藩での塩専売制の実施や東北諸藩における漆蝋専売制の実施などがあります。

中期以降になると、諸藩は財政窮乏に苦しみ、米以外の領内商品に注目し、これの奨励を目ざして殖産興業政策を実施しました。

また、その商品の生産が普及すると、専売制による独占を目ざしました。あるいは、すでに商品が生産されているところでは、この生産を支配する商人を排除して、それの専売制による独占と販売を目ざしました。

中期専売の例としては、西南諸藩における紙専売制の実施や、東北諸藩における生糸、絹織物などに対する専売制などがあります。また、各藩で多種多様な商品に対する専売制が実施されています。

その多くは専売商品を大坂・江戸市場に送る「領外移出独占」であり、なかには専売商品の移出を条件に、有力商人から資金の援助を受けている例もあります。

また、この「領外移出独占」の場合、大坂・江戸へ送られた商品は、同地の問屋商人または出先の会所役人の手によって仲間商人に入札で販売されており、一般庶民や小売への直売は禁止されていました。

その意味では、専売商品の取引は既成の流通機構に組み込まれており、それと対立するものではなく、幕府もまた専売制の実施を許可していました。

しかし、専売商品が増加し、それがやがて藩の意志によって大坂を排除して各消費地に直送されたり、藩相互間で交易されたりすると、大坂へ集荷する商品は減少し、これが物価騰貴の原因となりました。

そこで幕府は1841年(天保12年)「天保の改革」による株仲間解散令のときに、諸藩における専売制を禁止しています。

後期の専売制を最も代表するものとしては、鹿児島藩における砂糖専売制の実施があります。この藩ではすでに一時、砂糖、樟脳(しょうのう)に対する専売を実施していましたが、調所広郷(ずしょひろさと)による藩政改革の一環として、1830年(天保元年)大島、徳之島、喜界(きかい)島での三島砂糖惣買入(そうかいいれ)制を実施し、これを三島方御用船によって大坂に送り、同地の仲買仲間に販売して大きな収益をあげることができました。

しかし、島民たちは徹底した砂糖栽培のために奴隷労働を強制されていたといわれています。