明治時代の「お雇い外国人」(その11)ヴィンチェンツォ・ラグーザとは?

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ヴィンチェンツォ・ラグーザ

幕末から明治にかけて、欧米の技術・学問・制度を導入して「殖産興業」と「富国強兵」を推し進めようとする政府や府県などによって雇用された多くの外国人がいました。

彼らは「お雇い御雇外国人」(あるいは「お抱え外国人」)と呼ばれました。

当時の日本人の中からは得がたい知識・経験・技術を持った人材で、欧米人以外に若干の中国人やインド人もいました。その中には官庁の上級顧問だけでなく単純技能者もいました。

長い鎖国時代が終わり、明治政府が成立すると、政府は積極的にアメリカ、ヨーロッパ諸国に働きかけて様々な分野の専門家を日本に招き、彼らの教えを受けて「近代化」を図りました。

当時の日本人にとって、「近代化」とはイコール「西洋化」のことでした。その結果、1898年頃までの間にイギリスから6,177人、アメリカから2,764人、ドイツから913人、フランスから619人、イタリアから45人の学者や技術者が来日したとされています。

彼らは「お雇い外国人」などと呼ばれ、本格的な開拓が必要だった北海道はもちろん、日本全国にわたって献身的に日本に尽くし(中には傲慢な人物や不埒な者もいたようですが)、政治・経済・産業・文化・教育・芸術など多くの分野で日本の「近代化」に貢献するとともに、日本人の精神に大きな影響を与えました。

主にイギリスからは「鉄道開発・電信・公共土木事業・建築・海軍制」を、アメリカからは「外交・学校制度・近代農業・牧畜・北海道開拓」などを、ドイツからは「医学・大学設立・法律」など、フランスからは「陸軍制・法律」を、イタリアからは「絵画や彫刻などの芸術」を学びました。

そこで、シリーズで「お雇い外国人」をわかりやすくご紹介したいと思います。

第11回はヴィンチェンツォ・ラグーザです。

1.ヴィンチェンツォ・ラグーザとは

ヴィンチェンツォ・ラグーザ(Vincenzo Ragusa)(1841年~1927年) は、「お雇い外国人」のイタリアの彫刻家です。

2.ヴィンチェンツォ・ラグーザの生涯

彼はシチリア島のパレルモ郊外パルタンナ・モンデルロに生まれました。幼いころから絵画に興味をもち、1865年に本格的に彫刻を始めました。

1872年、ミラノで開かれた全イタリア美術展に石膏作品「装飾暖炉」を出品し、最高賞である「ウンベルト殿下賞」に輝きました。

1876年(明治9年)に明治政府に招かれて来日し、1882年(明治15年)まで工部美術学校で彫刻指導にあたりました。

教え子に大熊氏廣(1856年~1934年)や藤田文蔵(1861年~1934年)がいます。

妻は、江戸芝新堀生まれで画家の清原多代(ラグーザ玉、エレオノーラ・ラグーザ)です。離日後、ラグーザはお玉を連れてシチリア島パレルモに帰り、そこで工芸学校を創立して校長となりました。お玉はラグーザ死去後に日本に帰りました。

1941年のイタリア文化会館竣工の際には、甥で画家のチロ・ラグーザが来日しました。

3.ヴィンチェンツォ・ラグーザの作品

・お玉像

お玉像

・日本婦人

ラグーザ・日本婦人

・日本人俳優像

日本人俳優像

・侯ケレル女史像

侯ケレル女史像

・半身浮彫八角額

半身浮彫八角額

4.ヴィンチェンツォ・ラグーザの妻「ラグーザ玉」とは

ラグーザ玉

「ラグーザ玉」(1861年~1939年)は、ヴィンチェンツォ・ラグーザの妻の女性画家です。旧姓清原、幼名多代。「ラグーザお玉」とも呼ばれます。また西洋名はエレオノーラ・ラグーザ(Eleonora Ragusa)。なおイタリア語 Ragusa の発音は、シチリア地方では「ラグーサ」となり、本人もそう名乗っていたそうです。

彼女は1861年7月17日(文久元年6月10日)、江戸の芝、新堀の清原生まれ。父は芝金杉の植木屋の定吉、母はかね。姉はお千代。幼名を多世(たよ)といい、自ら多代とも記しました。

若い頃から「エイシュウ」という人に師事したといわれ、日本画、西洋画を学びました。号は永寿。

1877年、工部美術学校で教鞭をとっていた彫刻家のヴィンチェンツォ・ラグーザと出会い、西洋画の指導を受けました。また玉はヴィンチェンツォの作品のモデルも務めました。彼女は「金杉小町」と呼ばれ、ラグーザからモデルを乞われたのがきっかけとされます。

若い頃の玉

1880年に20歳上のヴィンチェンツォと結婚。2年後の1882年に、夫婦でイタリアのパレルモに渡り、パレルモ大学美術専攻科に入学、サルバトーレ・ロ・フォルテに師事しました。

イタリアへは玉の兄夫婦も同行しました。1884年には、ヴィンチェンツォがパレルモに工芸学校を開設し、玉は絵画科の教師を務めました。

また画家としても、パレルモやモンレアーレ、シカゴなど各地の美術展や博覧会で受賞するなど、高い評価を得たようです。

1927年に、夫のヴィンチェンツォと死別。東京美術学校にヴィンチェンツォの遺作を多数寄贈し、1933年、甥・繁治郎の娘・初枝とともに、51年ぶりに日本に帰国しました。帰国後は画業に集中しました。

1939年4月5日、東京府東京市芝区(現在の東京都港区芝)の実家で脳溢血を起こし、翌6日に急逝しました。享年79。 清原家の墓と「ラグーサ玉」顕彰碑は麻布長玄寺にあります。

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