明治時代の「お雇い外国人」(その17)ジェームス・カーティス・ヘボンとは?

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ジェームス・カーティス・ヘボン

幕末から明治にかけて、欧米の技術・学問・制度を導入して「殖産興業」と「富国強兵」を推し進めようとする政府や府県などによって雇用された多くの外国人がいました。

彼らは「お雇い御雇外国人」(あるいは「お抱え外国人」)と呼ばれました。

当時の日本人の中からは得がたい知識・経験・技術を持った人材で、欧米人以外に若干の中国人やインド人もいました。その中には官庁の上級顧問だけでなく単純技能者もいました。

長い鎖国時代が終わり、明治政府が成立すると、政府は積極的にアメリカ、ヨーロッパ諸国に働きかけて様々な分野の専門家を日本に招き、彼らの教えを受けて「近代化」を図りました。

当時の日本人にとって、「近代化」とはイコール「西洋化」のことでした。その結果、1898年頃までの間にイギリスから6,177人、アメリカから2,764人、ドイツから913人、フランスから619人、イタリアから45人の学者や技術者が来日したとされています。

彼らは「お雇い外国人」などと呼ばれ、本格的な開拓が必要だった北海道はもちろん、日本全国にわたって献身的に日本に尽くし(中には傲慢な人物や不埒な者もいたようですが)、政治・経済・産業・文化・教育・芸術など多くの分野で日本の「近代化」に貢献するとともに、日本人の精神に大きな影響を与えました。

主にイギリスからは「鉄道開発・電信・公共土木事業・建築・海軍制」を、アメリカからは「外交・学校制度・近代農業・牧畜・北海道開拓」などを、ドイツからは「医学・大学設立・法律」など、フランスからは「陸軍制・法律」を、イタリアからは「絵画や彫刻などの芸術」を学びました。

そこで、シリーズで「お雇い外国人」をわかりやすくご紹介したいと思います。

第17回はジェームス・カーティス・ヘボンです。

1.ジェームス・カーティス・ヘボンとは

ジェームス・カーティス・ヘボン( James Curtis Hepburn)(1815年~1911年)は、米国長老派教会の医療伝道宣教師・医師です。

幕末に来日し、横浜で医療活動に従事。また、聖書の日本語訳に携わり、また初の和英辞典『和英語林集成』を編纂し、それによって「ヘボン式ローマ字を広めた人物としても知られています。

また明治学院(現在の明治学院高等学校・明治学院大学)を創設して初代総理に就任するなど、日本の教育にも貢献しました。

ただし彼は、江戸幕府や明治政府から招聘された正式の「お雇い外国人」ではありません。

姓の「ヘボン」は原語の発音を重視した仮名表記とされており、本人が日本における名義として用いたことで彼固有の表記として定着したものです。

しかしオードリー・ヘップバーン(Audrey Hepburn)のように、Hepburn の音訳としては「ヘップバーン」「ヘプバーン」が普及したことから、彼の姓もそれに従って表記される場合があります。

2.ジェームス・カーティス・ヘボンの生涯

(1)前半生

1815年、アメリカのペンシルベニア州ミルトンに、サムエル・ヘップバーンの長男として生まれました。井伊直弼(1815年~1860年)や長野主膳(1815年~1862年)、梅田雲浜(1815年~1859年)と同い年になります。

ヘボンの家系は、遠くはスコットランドのボスウェル伯に連なるといい、1773年に曽祖父のサムエル・ヘップバーン(ヘボンの父と同名)がイギリス国教による長老派迫害を逃れてアメリカへ渡りました。サムエルの後は、子ジェームス、孫サムエルと続きました。

14歳でプリンストン大学に入学した秀才で、1832年にプリンストン大学を卒業後、ペンシルベニア大学医科に入学。1836年にペンシルベニア大学を卒業し、医学博士(M.D.)の学位を取得しました。

1840年にクララ・メアリー・リート(Clara Mary Leete)(1818年~1906年)と結婚しました。

<ヘボン夫妻の金婚式の記念写真>

ヘボン夫妻の金婚式の記念写真

<ヘボン氏とその家族の集合写真>

ヘボンとその家族の集合写真

1841年3月にボストンを出航して7月にシンガポールに到着。「アヘン戦争」(1840年~1842年)の終結を待って、2年後の1843年にマカオを経由してアモイ(廈門)に到着しました。

アモイでヘボン夫妻は息子サムエルを授かりましたが、夫婦ともに猛威を振るっていたマラリアに罹患し、健康の悪化から伝道を断念し、1845年に廈門を出発し、1846年にニューヨークに戻って病院を開業しました。

当時、移民が続々と押し寄せるこの地は衛生状態が悪く、コレラが蔓延していました。ヘボンはコレラ患者に適切な処置を施して医師としての名声を得ましたが、新たに儲けた3人の子供を病気で次々と失ってしまいました。

彼はペリーの報告書を読んで日本に興味を持ったようです。また、ギュツラフ版日本語訳聖書『約翰福音之傳』を入手し、日本語への興味を抱いたようです。これは元漂流民音吉(おときち)(1819年~1867年)が携わった初めての日本語訳聖書です

マカオではペリーの通訳を務めたサミュエル・ウィリアムズに日本語を習い、来日してからは日本人に話しかけまくって覚えたのだそうです。

彼の日本語習得法は、なかなか独特で「これは何ですか?」という言い回しを覚え、日本人に物の名前を聞いてまわる、というものでした。

悲しみの中でヘボンは、ニューヨークを離れることを決意。そして14歳になっていたサムエルを知人に預けて、妻とともに通商条約を結んだばかりの日本へ、米国長老教会の医療宣教師として赴きました。

(2)日本での活動

1859年(安政6年)4月24日、同じ志を持つ妻クララと共にニューヨークを出発。香港、上海、長崎を経由し、1859年10月17日(安政6年9月22日)に横浜に到着しました。

成仏寺 (横浜市)の本堂に住まいし、宗興寺(現在の横浜市神奈川区)に「神奈川施療所」を設けて 身分を問わず無償で診察・治療にあたりました。当時、幕府はキリスト教の布教は禁じていましたが、宣教師による医療活動は黙認していたのです。

ここから横浜近代医学の歴史が始まったといわれています。彼はこう記します 「私どもが街路を歩く時など、みな楽しそうに微笑んで会釈してくれます。この数日間に4人の患者の手当てをしました。そのうち3人は、私どもの番所の係の立派な武士たちでした。私がちょっとした手術を施すと、みな苦痛が取れてとても喜んでいたようです」

彼は、以後33年間を日本で暮らし、幕末から明治にかけての日本の近代化に大きく貢献していくことになります

1860年(万延元年)、あわや「生麦事件」になりかねないようなアクシデントが起こりました。フランシス・ホール、デュアン・シモンズ博士夫妻らと神奈川宿近くの東海道で大名行列を見物しました。「御三家筆頭格」の尾張徳川家の行列の先触れにひざまずくよう命じられましたが、ヘボンとホールは従わずに立ったまま行列を凝視したため、尾張藩主(徳川茂徳)もヘボンらの前で駕籠を止めオペラグラスでヘボンらを観察するなど張り詰めた空気が流れましたが、数分後に尾張侯の行列は何事もなかったように出発し、事なきを得ました。

1862年に発生した「生麦事件」(*)では、負傷者の治療にあたりました。

(*)「生麦事件(なまむぎじけん)」とは、幕末の1862年9月14日(文久2年8月21日)に、武蔵国橘樹郡生麦村(現・神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近において、薩摩藩主島津茂久の父・島津久光の行列に遭遇した騎馬のイギリス人たちを、供回りの藩士たちが殺傷(1名死亡、2名重傷)した事件です

尊王攘夷運動の高まりの中、この事件の処理は大きな政治問題となり、そのもつれから、1863年(文久3年)7月に薩摩藩とイギリスとの間で「薩英戦争」が勃発しました。

1863年(文久3年)、横浜に「ヘボン塾」を開設しました。塾は当時の常識を破る男女共学で、ヘボン夫妻自ら教鞭をとりました。 ここで学んだ者に兵学者の大村益次郎や、後の外相・林董、首相・蔵相を歴任する高橋是清、三井物産創始者・益田孝らがいます。

また、この年には洋学者・箕作秋坪の紹介で眼病を患った新聞記者・実業家の岸田吟香を治療しました。この縁で、当時手がけていた『和英語林集成』を岸田吟香が手伝うようになりました。

1866年、『和英語林集成』の印刷のため、岸田吟香と共に上海へ渡航しました。余談ですが岸田吟香の四男が洋画家の岸田劉生です。

1867年(慶応3年)、人気歌舞伎役者・三代目沢村田之助の脱疽を治療する片足切断手術で、クロロフォルム麻酔を使って施術し、なんと西洋義足で田之助を舞台に復帰させました。

またこの年には、日本最初の和英辞典である『和英語林集成』を出版しました。彼は同書の構成のために漢字・平仮名・片仮名に続く第四の日本語表記として「ヘボン式ローマ字」を考案、現在に至るも日本人はその恩恵を受けているのです。

1872年(明治5年)、横浜の自宅で第一回在日宣教師会議を開催、同僚の宣教師らと福音書の翻訳を開始しました。

1874年(明治7年)9月、横浜に横浜第一長老公会(現在の横浜指路教会)を建て、ヘンリー・ルーミスを牧師としました。

1880年(明治13年)頃、新約聖書の和訳を完成。1886年(明治19年)、『和英語林集成』第3版を出版しました。

1887年(明治20年)、明治学院(現・明治学院高等学校・同大学)を設立、明治学院初代総理に就任しました。

1892年(明治25年)、『聖書辞典』を山本秀煌と編纂しました。

(3)晩年

1892年(明治25年)、病を得た妻のために、ヘボンは日本を離れ、それからはニュージャージー州イーストオレンジで暮らしました。

1905年(明治38年)3月13日、勲三等旭日章が贈られました。

1911年(明治44年)、死去。96歳という長寿でした。

さまざまな分野で日本の近代化に献身したヘボンですが、彼は見返りを求めていません。その生涯を貫いた姿勢は新約聖書にある”Do for others what you want them to do for you(人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなた方も人にしなさい)”という言葉が最もあてはまります。この「Do for others」の精神こそが、ヘボンが日本に伝えた最も大切なものだったのかもしれません。

3.ヘボンと日本語

1867年(慶応3年)、日本最初の和英辞典である『和英語林集成』を編纂・出版。初版の出版名義は「美国 平文」(3版から国名表記は「米國(米国)」に変わりました)。

1886年(明治19年)に『和英語林集成』第3版を出版。当時、版権の所有は外国人に認められていなかったために丸善に譲渡し、利益は後に明治学院へ寄付されました。

『和英語林集成』では、日本語を転写する方法として英語式の転写法を採用しました。第3版まで改正に努め、辞典の普及に伴い、「ヘボン式ローマ字」(*)の名で知られるようになりました。

(*)「ヘボン式ローマ字」(Hepburn romanization)とは、日本語表記をラテン文字表記に転写する際の規則、いわゆる「ローマ字」の複数ある表記法のうち、日本国内および国外で最も広く利用されている方式です。

日本語の発音とラテン語の発音とが似ており、ラテン文字をラテン語読みするという前提で五十音図のように規則的に並べさえすれば日本語の発音(読み)をかなり正確に表現できることを利用しました。

ローマ字の表記法としては「日本式ローマ字」およびそれを基にした「訓令式ローマ字」と競合する方式です。

日本語話者向けに日本語の翻字ないしは正書法となることを目指して開発された日本式等と比べ、英語・ラテン語の発音への親和性を重視したヘボン式は外国人のための案内や日本語の翻訳用途に向いています。

「ヘボン式」「日本式」「訓令式」という3種類のローマ字の違いは、簡単に言うと次のようになります。

「旧ヘボン式」および「修正ヘボン式」では英語発音への近似性から「シ」を「shi」、「チ」を「chi」、「ツ」を「tsu」、「フ」を「fu」、「ジ」を「ji」、サ行拗音を「sh-」、タ行拗音を「ch-」、ザ行拗音を「j-」で表します。

「日本式」では「現代仮名遣い」または「歴史的仮名遣い」の厳密翻字に基づき、「ヂ」「ヅ」「ヲ」を「di」「du」「wo」と表記しますが、「訓令式」と「ヘボン式」では表音主義(表音式仮名遣い)に基づき、「ヂ→ジ」「ヅ→ズ」「ヲ→オ」と置換したように訓令式では「zi」「zu」「o」で、ヘボン式では「ji」「zu」「o」で表記します。

4.ヘボンと医学

宣教師デュアン・シモンズと共に、横浜の近代医学の基礎を築いたといわれています。

日本に来て、医療を武器に信用を獲得していきました。専門は脳外科でしたが、当時眼病が多かった日本で名声を博したということです。横浜の近代医学の歴史はヘボン診療所によって始まったといわれています。

日本人の弟子を取って教育していましたが、奉行所の嫌がらせもあり、診療所は閉鎖になりました。彼のラウリー博士宛ての手紙によると、計3,500人の患者に処方箋を書き、瘢痕性内反の手術30回、翼状片の手術3回、眼球摘出1回、脳水腫の手術5回、背中のおでき切開1回、白内障の手術13回、痔ろうの手術6回、直腸炎1回、チフスの治療3回を行いました。

白内障の手術も1回を除いて皆うまくいったそうです(1861年9月8日の手紙)。また、名優沢村田之助の脱疽を起こした足を切断する手術もしています。その時は麻酔剤を使っています。一度目の手術は慶応3年(1867年)ですが、その後も脱疽の進展にともない切断を行っています(横浜毎日新聞1874年6月11日付)。

専門が脳外科であることを考慮すると足の切断術は見事であると荒井保男は述べています。ヘボンの弟子の中からは、のちに日本で初の近代的な眼科病院を創設した丸尾興堂など多くの優れた人材が巣立っていきました。

その功績を称えて、横浜市立大学医学部にはヘボンの名を冠した講堂「ヘボンホール」があります

5.ヘボンと教育

1863年(文久3年)、横浜に男女共学の「ヘボン塾」を開設。のちに他のプロテスタント・ミッション各派学校と連携しました。「ヘボン塾」の出身者には、大村益次郎、高橋是清、林董、益田孝など明治期日本で活躍した多くの人材がいます。

「ヘボン塾の女子部」は、1871年(明治4年)に同僚の宣教師メアリー・キダーによって洋学塾「フェリス・セミナリー」として独立、後の「フェリス女学院」の母体となりました。

1887年(明治20年)、「ヘボン塾」をはじめとする学校を統合し、私財を投じて東京都港区白金の地に明治学院(現・明治学院高等学校・同大学)を設立。明治学院初代総理に就任しました。

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