日本語の語源には面白いものがたくさんあります。
前に「国語辞典を読む楽しみ」という記事を書きましたが、語源を知ることは日本語を深く知る手掛かりにもなりますので、ぜひ気楽に楽しんでお読みください。
以前にも散発的に「日本語の面白い語源・由来」の記事をいくつか書きましたが、検索の便宜も考えて前回に引き続き、「50音順」にシリーズで、面白い言葉の意味と語源が何かをご紹介したいと思います。季語のある言葉については、例句もご紹介します。
1.三和土(たたき)
「三和土」とは、玄関や台所などの土間のことです。
三和土は、現代では単に「土間」を意味し、コンクリートなどで仕上げたものを言うことが多いですが、古くは、土に石灰・にがりなどを混ぜて固めた土間のことを言いました。
漢字の「三和土」は、これら三種類のものを混ぜ合わせることからの当て字です。
三和土に用いる土は、花崗岩(かこうがん)等が風化したもので、叩いて固めることから「叩き土(たたきつち)」と呼ばれ、「たたきつち」を略した語が「たたき」です。
「たたき」や「叩き土」は、江戸時代から用例が見られます。
2.タメ口(ためぐち)
ハーフタレントでモデルのローラさんは、誰にでも「タメ口」で話すことで有名ですね。
「タメ口」とは、相手と対等な口をきくこと、敬語を使わず、なれなれしく話すことです。タメ語。
タメ口の「タメ」は、博打用語で「ぞろ目(同目)」を指した語です。
1960年代から、「タメ」は不良少年の隠語として「五分五分」の意味で使われるようになり、「対等」や「同じ」の意味も表すようになりました。
さらに、「同年」や「同級生」を言うようになり(「タメ年」とも)、同い年の相手に話すような口のきき方を「タメ口」と言うようになりました。
これらの語は、1970年代後半から1980年代にかけて一般の若者も使うようになりました。
現在、「タメ口」の語に関しては、若者以外でも広く用いられるようになっています。
雑学の世界では、お駄賃を語源とする説もあります。
それは、江戸時代の大坂(大阪)で丁稚に渡すお駄賃のことを「タメ」と言いました。
そこから、番頭が目下である丁稚に対して言う乱暴な言葉づかいを「タメ口」と言うようになり、現在の意味に転じたというものです。
しかし、現在使われている「タメ口」とは立場が反対で、それが逆転した経緯も説明されていない。
また、「タメ口」より前に使われていた「タメ」や「タメ年」の語が考慮されておらず、雑学の世界だけで通用していた俗説です。
3.鱈(たら)
「タラ」とは、タラ目タラ科の魚の総称です。日本近海にはマダラ・スケトウダラ・コマイがいます。単に「タラ」といえば、ふつう「マダラ(真鱈)」を指します。
タラの語源には、切っても身が白いことから「血の足らぬ」の「たら」の意味。
皮がまだら模様になっていることから、「マダラ」の「マ」が脱落したという説。
漢字で「大口魚」とも書くように大食漢なので、「たらふく」の語源と同じく「足る」の意味や、「ふとはら(太腹)」の意味など、多くの説があります。
この中で有力とされているのは「斑」の説で、魚は正式名称になると「真」の意味で「マ」が頭につけられますが、タラの場合は「マダラ(斑)」が「真ダラ」と誤解され、「タラ」が総称になったといわれます。
タラの漢字の「鱈」は、「魚」+「雪」で「冬に多く獲れる魚」という意味です。
もとは国字ですが、現在では中国でも使われています。
「鱈」は冬の季語で、次のような俳句があります。
・えぞ鱈も 御代の旭に 逢ひにけり(小林一茶)
・鱈ちりの 炭の尉たち やすき夜や(臼田亞浪)
・屠蘇鱈汁 数の子の御列かな(河東碧梧桐)
・ぶつ切りの 鱈山盛りに ちやんこ炊く(升本行洋)
4.大丈夫(だいじょうぶ)
『志村けんのだいじょうぶだぁ』という人気テレビ番組もありましたね。
「大丈夫」とは、危険や心配がなく安心できるさま、間違いなく確かなさまです。
「丈(じょう)」は長さの単位で、1丈は近代の日本では3.03メートルですが、周尺では約1.7メートルで成人男性の背丈にあたります。
「夫」は「おっと」のことではなく、「男性」を意味します。
中国では成人男子を「丈夫」と言い、特に立派な男子を「大丈夫」と言いました。
日本に「大丈夫」の語が伝わった時には「立派な男子」の意味でしたが、そこから派生して「非常に強い」「非常にしっかりしている」「非常に健康である」の意味、さらに「間違いない」「確かである」の意味でも使われるようになりました。
また、励ましや期待の意味で「大丈夫だろう」と使われたり、「まちがいなく」「たしかに」といった意味の副詞として使われるようになったため、「きっと」や「多分」といったニュアンスを含んで「大丈夫」が用いられるようにもなりました。
5.橙(だいだい)
「橙」とは、インド・ヒマラヤ原産のミカン科の常緑小高木です。日本へは中国より渡来。初夏に白い小花をつけ、冬に実が熟します。臭橙。回青橙。「橙色」の略。
橙を漢音では「トウ(タウ)」、呉音では「ジャウ(ヂャウ)」と発音し、「だいだい」というのは和名です。
だいだいの語源は「代々」で、冬に熟した果実が年を越しても落ちず、2~3年なり続けることからこう呼ばれるようになりました。
正月飾りに橙が用いられるようになったのも、この「代々」の意味から「代々栄える」という縁起を担いだものです。
鏡餅にみかんを乗せることもあるが、橙でなければ「代々」の意味が無く、ただの飾りとなってしまいます。
「だいだい」は中世以降の呼称で、それ以前は「阿部橘・阿倍橘(アベタチバナ・アヘタチバナ)」と呼ばれていました。
「阿部(阿倍)」は現在の奈良県桜井市阿部で、「阿部で採れる橘」という意味だそうです。
漢字では「橙」の他に、「臭橙」や「回青橙」と表記されることもあります。
「臭橙」の「臭」は風味の良さ(におい)を表したもので、「くさい」ということではありません。
「回青橙」は、冬に黄熟した果実が翌春には再び青緑色になることからです。
「橙」は秋の季語、「橙の花」は夏の季語、「橙飾る」は新年の季語で、次のような俳句があります。
・葉籠りに 橙垂れて 夥し(篠原温亭)
・橙の ころがるを待つ 青畳(桂信子)
・橙の 花入れてある 硯箱(岡本清子)
・橙の 一つを飾り あましけり(名和三幹竹)
6.蓼食う虫も好き好き(たでくうむしもすきずき)
「蓼食う虫も好き好き」とは、蓼のような苦味のあるものでも好んで食べる虫がいるように、人の好みはさまざまであるということです。
蓼食う虫も好き好きの「蓼」は、「ヤナギタデ(柳蓼)」のことで、茎や葉に苦味があります。
そのタデを好んで食べる虫もいることから、人の好みはさまざまであるたとえとなりました。
タデを好んで食べる虫は「蓼虫(りょうちゅう・たでむし)」と呼ばれ、ホタルハムシなどの甲虫を指します。
出典は、中国南宋時代の随筆集『鶴林玉露』にある「氷蚕は寒さを知らず、火鼠は熱さを知らず、蓼虫は苦さを知らず、ウジ虫は臭さを知らず」といわれ、日本では江戸時代の狂言台本『縄綯』に「たでくふ虫もすきずきと申すが…」とあります。
この「蓼食う虫も好き好き」という言葉から、タデは蓼虫しか食べないと思われがちですが、人間も刺身のつまや蓼酢として食用にしています。
「蓼の花」は秋の季語で、次のような俳句があります。
・草の戸を 知れや穂蓼に 唐辛子(松尾芭蕉)
・醤油くむ 小屋の境や 蓼の花(宝井其角)
・三径の 十歩に尽て 蓼の花(与謝蕪村)
・蓼の花 石踏んで水 堰(せ)きにけり(長谷川零余子)
7.高を括る(たかをくくる)
「たかをくくる」とは、その程度を安易に予測する、たかが知れたことだとあなどることです。
たかをくくるの「たか」は、「生産高」「残高」など物の数量や金額を見積もった時の合計額のことで、数量の程度を表す「高」です。
「くくる」は「まとめる」「物事に区切りをつける」の意味で、この程度(高)だろうとまとめる(括る)ところから、「物事のありさまをあらかじめはかる」「予想する」を意味し、安易に予測したり、大したことはないと侮ることを「たかをくくる」と言うようになりました。
「たかをくくる」に、大したことはないと侮る意味が含まれるようになったのは、戦いの際に勝敗の予測するため、相手の領地の「石高」を計算したことからといわれます。
数量を表す「高」から生じた語には、「たかが知れる」や「たかだか」もあります。
「くくる」が「予想する」の意味で使われた例は、洒落本『妓情返夢解』(1802年)「まだ海の物とも川の物共わからぬにばかばかしい、さきをくくって泣事があるものか」に見られます。
8.蛇足(だそく)
「蛇足」とは、付け加える必要のない余分なもの、不要なもの、余計な行為のことです。
蛇足の語源は、蛇の絵に足を描き加えたという、『戦国策(斉策上)』の以下の故事に由来します。
中国の楚の国で、司祭者から召し使い達に祭りの酒がふるまわれた。
その酒は全員で飲むには足りない量だったため、召し使い達は話し合い、最初に蛇の絵を描き終えた者が酒を飲めることにし、皆で地面に蛇の絵を描きはじめた。
最初に描き終えた男は、皆がまだ描いているのを見て余裕を見せ、左手に杯を持ったまま右手で足を描き加えていた。
次に描き終えた者がこの絵を見て、「蛇に足は無い。あなたの描いた絵は蛇ではない」と言って杯を奪い取り、最初に描き終えた者は酒を飲むことができなかった。
楚の国が斉の国を攻撃した際、斉の陳軫が楚の宰相 昭陽に対し、この話を例にして「あなたは既に最高の地位にあり、勝ったとしても出世はないが、蛇に足を描き加えた者のように、余分な戦いをして失敗したら今の地位を失いますよ」と言って、軍を引き上げさせた。
この故事から、付け加える必要のない余分なものを「蛇足」と言うようになりました。