葛飾応為とは?葛飾北斎の娘で彼のアシスタントの浮世絵師でもあった!

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1840年代中頃の葛飾応為

<1840年代中頃の葛飾応為>

私は今までに葛飾北斎に関して「葛飾北斎とは?改名30回・転居93回で88歳まで生きた彼は隠密だった!?」「葛飾北斎 江戸時代の長寿の老人の老後の過ごし方(その4)」「葛飾北斎は、浮世絵や漫画を描いた絵師だが、川柳作者でもあった!?」「辞世の句(その17)江戸時代 葛飾北斎・松尾芭蕉・加賀千代女・与謝蕪村・柄井川柳・小林一茶・大田垣蓮月」「鳥獣戯画を描いた鳥羽僧正や、北斎漫画の葛飾北斎は時代や洋の東西を超えた天才」「鰻登りの由来とは?金運や北斎漫画・鰻登りの誤りなど面白い話も紹介!」という記事を書いてきました。

ところで皆さんは、この「画狂人北斎」として有名な葛飾北斎に、後に浮世絵師となって彼を支えた葛飾応為という娘がいたことをご存知でしょうか?

そこで今回は、葛飾応為についてわかりやすくご紹介したいと思います。

1.葛飾応為とは

葛飾応為(かつしか おうい、1801年頃?~1868年頃?)は、江戸時代後期の浮世絵師葛飾北斎(1760年~1849年)の三女です。応為は号(画号)で、名は栄(えい)と言い、お栄(おえい、阿栄、應栄とも)、栄女(えいじょ)とも記されました。

北斎には2人の息子と3人の娘(一説に4人)がいました。三女だった応為は、20歳頃に3代目堤等琳(江戸時代後期の浮世絵師で、堤派を代表する絵師)の門人の南沢等明(堤派の絵師)に嫁ぎましたが針仕事をほとんどせず、父譲りの画才と性格から等明の描いた絵の稚拙さを笑ったため、3年ほどで離縁されてしまいました。

出戻った応為は、実家で北斎と同居し北斎の制作助手も務めました。彼女は北斎が亡くなるまで20年ほど一緒に暮らしたとされています。

顎が出ていたため、北斎は「アゴ」と呼んでいたそうです。80歳後半の北斎自筆の書簡でも応為を「腮の四角ナ女」と評し、自身の横顔と尖った顎の応為の似顔絵が添えられています。

なお、北斎の門人の露木為一(つゆき いいつ)(生年不詳~1893年)による『北斎仮宅写生図』(*)(紙本墨画)にも、北斎と応為の肖像が描かれています。

(*)『北斎仮宅之図』は北斎が83歳の時、榛馬場の辺りに40歳頃と思われるお栄と住んでいた時の様子を再現したもので、北斎がこたつ布団を背にかけながら絵を描き、それをお栄が見つめている様子が描かれ、また画面の上部には以下の説明が記されています。

(まんじ、北斎のこと)常に人に語るに、我は枇杷葉湯に反し、九月下旬より四月上旬迄巨燵(こたつ)を放るゝこと無しと。如何なる人と面会なすといへとも放るゝことなし。画(か)くにも又かけ、倦(あ)く時は傍の枕を取りて眠る。覚れば又筆を取、夜着の袖は無益也とて不付候…

『北斎仮宅之図』、1840年代中頃の仮宅に暮らす北斎とお栄の様子。

<『北斎仮宅之図』1840年代中頃の仮宅に暮らす北斎とお栄の様子>( 国立国会図書館所蔵)

北斎と応為

初作は文化7年(1810年)を下らない時期と推定される『狂歌国尽』の挿絵と見られます。同じく北斎の娘と言われる画人の葛飾辰女(かつしか たつじょ、生没年不詳)は、手や髪の描き方が酷似し、応為の若い時の画号で、同一人物とする説が有力です。

特に美人画に優れ、北斎の肉筆美人画の代作をしたともいわれています。また、北斎の春画においても、彩色を担当したとされます。北斎は「美人画にかけては応為には敵わない。彼女は妙々と描き、よく画法に適っている」と語ったと伝えられています。

同時代人で北斎に私淑していた渓斎英泉(けいさい えいせん、1791年~1848年)、自著『旡名翁随筆』(天保4年(1833年)刊)の「葛飾為一系図」で、「女子栄女、画を善す、父に従いて今専ら絵師をなす、名手なり」と評しています。またこの記述から、天保初め頃には応為は出戻っており北斎晩年の20年近く同居していたと推察できます

北斎の没後、応為は門人や親戚の家を渡り歩きました。晩年の応為は、「筆一本あれば生きていける」と豪語していたそうです。

妾(わらわ)は 筆一枝あらば 衣食を得ること難からず。 何ぞ区々たる家計を事とせんや。

そして、北斎の没後から8年たった1857年のある日、「絵の仕事をするため出かける」と言い残し、そのまま家に帰ることはありませんでした。

晩年には諸説ありますが、仏門に帰依し、1855年頃に加賀前田家に扶持されて金沢で没したともいわれています

晩年は仏門に帰依し、安政2年から3年(1855年~1856年)頃、加賀前田家に扶持されて金沢にて67歳で没したとも、晩年北斎が招かれた小布施で亡くなったともされます。

一方で浮世絵研究者・美術史家の飯島虚心(いいじま きょしん、1841年~1901年)は、『浮世絵師便覧』(明治26年)で、慶応年間まで生きていた可能性を示唆しています。

2.葛飾応為の人物像

北斎の描いた応為

上の絵は、葛飾北斎が応為を描いたものですが、いかにも豪快で「男勝り」と言うよりも「猛女」のようですね。

(1)画号の由来

「応為」の画号は、北斎が娘を「オーイ」と呼んだので、それをそのまま号としたとも、逆に北斎を「オーイ、オーイ親父ドノ」と大津絵節から取って呼んだからという説や、あるいは北斎の号の一つ「為一」にあやかり、「為一に応ずる」の意を込めて「応為」と号したとする説もあります。

(2)性格

おんな北斎」とも呼ばれる応為の性格は、父の北斎に似る面が多く、やや慎みを欠いており、男のような気質で任侠風を好んだそうです。「悪衣悪食」を恥じない性格で、衣食の貧しさを苦にすることはありませんでした。

毎日の食事は、当時の惣菜屋であった「煮売店」(にうりみせ)で調達して済ませており、屋敷にはそのゴミが堆(うずたか)く積まれ、父共々、それをまったく気にせずに過ごしていました。当時は炊事を女性が行うのが一般的だったので、応為は、男性的な生活を送る一風変わった女性だったに違いありません。

絵の他にも、占いに凝ってみたり、地中で松の根に寄生するキノコの茯苓(ぶくりょう)を飲んで女仙人になることに憧れてみたり小さな豆人形を作り売りだして小金を儲けるなどしたということです

北斎の弟子、露木為一の証言では、応為は北斎に似ていたが、北斎と違って煙草と酒を嗜んだそうです。ある日、北斎の描いていた絵の上に吸っていた煙管から煙草の火種を落としたことがあり、これを大変後悔して一旦禁煙したもの、しばらくしてまた元に戻ってしまったそうです

また応為にも弟子がおり、たいてい商家や武家の娘で、いわば家庭教師として訪問して絵を教えていたようです。

露木が「先生に入門して長く画を書いているが、まだうまく描けない」と嘆いていると、応為が笑って「おやじなんて子供の時から80幾つになるまで毎日描いているけれど、この前なんか腕組みしたかと思うと、猫一匹すら描けねえと、涙ながして嘆いてるんだ。何事も自分が及ばないといやになる時が上達する時なんだ」と言い、そばで聞いていた北斎も「まったくその通り、まったくその通り」と賛同したということです

江戸の町名主で考証家の斎藤月岑(さいとう げっしん、1804年~1878年)の日記によれば、お栄は料理の支度をしたことがなく、また食事が終わると食器を片付けることなく放ったらかしにしている。この親子(北斎とお栄)は生魚をもらうと調理が面倒なため他者にあげてしまう、ということです。

3.葛飾応為の作品

現存する作品は、生涯に3万4千点を超える作品を発表した父親の北斎と違って十数点と少数です。

ただし、20年間も父親の北斎と同居して、北斎と共に浮世絵を描くのに熱中していたことを考えると、実際には北斎の作品の多くに応為の手が入っていると考えるほうが自然です。

中には美人画のように、大部分が応為の「代作」の作品もあることでしょう。

しかし、無名の女浮世絵師の作品として売り出しても、買い手はつかないでしょう。ところが人気浮世絵師の北斎の作品として売り出せば、かつての画風と異なっていても、「北斎が新境地を開いた」と評価されるでしょう。

これが、応為の名前の作品が極端に少ない本当の理由です。

「光の画家」と呼ばれたレンブラントなど(*)の西洋の画家を思わせるような誇張した明暗法と細密描写に優れた肉筆画が残っています。

応為の作品の大きな特徴は、「光と影」の表現にありました。

当時の浮世絵は平面的で明るい画面のものがほとんどでしたが、応為は西洋の絵のように陰影をつけた立体感のある肉筆画を描いたのです。

当時の日本絵画において、「光と影」を描いた作品はほとんどありませんでした。

新しもの好きだった北斎のもとで、オランダ商館長やシーボルトの西洋画法を見て影響を受けたものと思われます。

西洋絵画から取り入れた光の表現を、日本独自の美の感覚によってさらに繊細に美しく描写した応為は、「光の浮世絵師」「東洋のレンブラント」として、近年その評価が高まっています。

(*)<レンブラント『テュルプ博士の解剖学講義』>

「テュルプ博士の解剖学講義」

<ルーベンス『蝋燭をもつ老婆と少年』>

ルーベンスの‘蝋燭をもつ老婆と少年’(1616~17年 マウリッツハイス美)

<ラ・トゥール『大工ヨセフ』>

ラ・トゥールの‘大工ヨセフ’(1642年 ルーヴル美)

『吉原格子先之図』や『夜桜美人図』をみると、光に対する繊細な関心が知られます。特に『夜桜美人図』では星の光も、胡粉や朱・藍を複雑に組み合わせて種々の等級の差を表現するなど、明治期の小林清親による「光線画」に先行する作例として重要です。

葛飾応為『吉原格子先之図』

<『吉原格子先之図』>(太田記念美術館所蔵)

葛飾応為・夜桜美人図夜桜美人図

<『夜桜美人図』>(メナード美術館所蔵)

木版画で応為作と認められているのは、弘化4年(1847年)刊行の絵本『絵入日用女重宝句』(高井蘭山作)と嘉永元年(1848年)刊行の『煎茶手引の種』(山本山主人作)所収の図のみです。

70歳近くまで生きたとされる彼女の作品数が少なすぎることから、「北斎作」とされる作品の中には実際は応為の作もしくは北斎との共作が相当数あると考えられています。

特に北斎80歳以降の落款をもつ肉筆画には、彩色が若々しく、精緻に過ぎる作品がしばしば見られ、こうした作品を応為の代筆とする意見もあります。また、北斎筆とされる春画「絵本ついの雛形」を、応為の筆とする説もあります。

葛飾応為『三曲合奏図』

<『三曲合奏図』>(ボストン美術館所蔵)

葛飾応為・女重宝記

<『女重宝記』>(すみだ北斎美術館所蔵)

葛飾応為『月下砧打美人図』

<『月下砧打美人図』>(東京国立博物館所蔵)

関羽割臂図

<『関羽割臂図』>(クリーブランド美術館所蔵>

葛飾応為・百合図

<『百合図』>(個人蔵)

葛飾応為・竹林の富士図

<『竹林の富士図』>(個人蔵)

葛飾応為・下絵

<下絵>

葛飾北斎(応為がお手伝い?)「八方睨み鳳凰図」長野県小布施町 岩松院

<葛飾北斎(応為がお手伝い?)『八方睨み鳳凰図』>(長野県小布施町 岩松院)

葛飾北斎、応為 合作「唐獅子図」ボストン美術館

<葛飾北斎、応為 合作『唐獅子図』>(ボストン美術館所蔵)

葛飾北斎・手踊り図

<葛飾北斎(応為がお手伝い?)『手踊り図』>


北斎になりすました女 葛飾応為伝 [ 檀 乃歩也 ]