『うつほ物語』という長編物語の内容とは?また誰が何の目的で書いたのか?

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うつほ物語

皆さんは『うつほ物語』という長編物語をご存知でしょうか?「名前は聞いたことがあるけれども、内容は知らない」という方も多いのではないかと思います。

そこで今回は『うつほ物語』について、わかりやすくご紹介したいと思います。

1.『うつほ物語』とはどういう内容か

うつほ物語

(1)『うつほ物語』とは

うつほ物語』(うつほものがたり/うつぼものがたり、宇津保物語)は、平安時代中期の10世紀後半に成立した日本最古の長編物語(全20巻)です。成立年代は円融(えんゆう)朝(969年~984年)~一条(いちじょう)朝(986年~1011年)初期にあたります。

架空の話である『竹取物語』と現実的な『源氏物語』の双方の特徴を持つ作品です。

『竹取物語』の影響を強く受けており、多くの男性に求婚される貴宮のキャラクターにもそれが色濃く見られます。

清原俊蔭、その娘、藤原仲忠、犬宮の四代にわたる琴の名人一家の繁栄と、源正頼の娘貴宮(あてみや)が藤原仲忠ら多くの青年貴族の求婚を退け東宮妃となりやがて皇位継承争いが生じる過程を描いています

当時の貴族にとって、その演奏が教養でもあった楽器のひとつ「琴(きん)」(*)の音楽をめぐって物語が展開していきます。当時の年中行事・装束・舞楽の描写がとても詳しく書かれており、日記的な記述が多くみられる点も特徴のひとつです。

(*)琴(きん)について

古代の日本では、琴というのは弦楽器の総称で、琴(きん)・筝(そう)・琵琶などを含んでいましたうつほ物語の「琴」は、中国から伝来した唐琴(からごと)のことです。現在はほとんど残っていません。

琴(きん)あるいは筝(そう)の可能性もありますが、和琴は指してはいません。和琴は6弦で琴柱(ことじ)を使うものです。

唐琴は中国から伝来したものです。琴柱を使わないものが「琴」(きん)、琴柱を使うものが、筝(そう)と呼ばれました唐琴は、中国の伝統的な楽器であり、琴(きん)は2006年に世界無形遺産に認定されています。

なお、題名の「宇津保(うつほ)」とは空洞の意味で、主人公とその母が住んでいた大杉の洞窟に由来します。

(2)『うつほ物語』の物語史の中での位置付け

物語史の上で、通常『源氏物語』以前に成立した物語を、「前期物語」と呼称します。

この「前期物語」の性格としては、『竹取物語』『うつほ物語』『落窪物語』などのいわゆる「作り物語」と、『伊勢物語』『大和物語』のような「歌物語」の二つの系譜があります。

しかし、伝奇的なかぐや姫の竹中誕生や昇天を首尾に配した『竹取物語』と、秘琴伝授や求婚物語や立太子争いのような大きなテーマをいくつも抱えこんだ二十巻の巨編『うつほ物語』と、継子(ままこ)いじめを主題とする家庭小説的な四巻の『落窪物語』とを、同類の「作り物語」として同一系列上に位置づけるのは、無理があります。

また、昔男の生涯としてゆるやかな構成をもつ『伊勢物語』と、和歌説話集的な『大和物語』とを、「歌物語」として一括してしまうのも、少し無理があります。このような無理が生じるのは、従来の方法が、わずかに残された現存する作品のみを対象として、強引に物語史を構築しようとしたからです。

作り物語の場合、たしかに『源氏物語』以前の現存する物語は、『竹取物語』『うつほ物語』『落窪物語』の三作品を数えるに過ぎませんが、このほかにも、三十に余る物語が存在したことが、『源氏物語』やそれ以前の諸資料に残された痕跡によって認められます。

これらのかろうじて存在を知りうる物語は、通常「散佚(さんいつ)物語」と称されていますが、じつは100%散佚してしまった物語は、その存在すらも知ることができないわけですから、幸運にも題名や片鱗を残しえたいわゆる散佚物語は、当時世に出た物語のごく一部に過ぎないと考えるべきです。

当時、いかに多くの物語が作られたかは、『三宝絵詞』の序に、誇張的表現ながら、「大荒木の森の草よりもしげく、有磯海(ありそみ)の浜の真砂(まさご)よりも多かれど」と記され、『蜻蛉日記』の冒頭にも、「世の中に多かる古物語のはしなどを見れば」とあることによって窺われます。

(3)『うつほ物語』のあらすじ

遣唐使清原俊蔭は渡唐の途中で難破のため波斯国(ペルシア)へ漂着します。天人・仙人から秘琴の技を伝えられた俊蔭は、23年を経て日本へ帰着しました。

俊蔭は官職を辞して、娘へ秘琴と清原家の再興を託した後に死にました。俊蔭の娘は、太政大臣の子息(藤原兼雅)との間に子をもうけましたが、貧しさをかこち、北山の森の木の空洞( うつほ)で子(藤原仲忠)を育てながら秘琴の技を教えました。兼雅は二人と再会し、仲忠を引き取りました。〔俊陰〕

そのころ、源正頼娘の貴宮(あて宮)が大変な評判で求婚者が絶えませんでした。求婚者には春宮(皇太子)、仲忠、源涼、源実忠、源仲澄、上野宮、三春高基らがいましたが続々と脱落し、互いにライバルと認める仲忠と涼が宮中で見事な秘琴の勝負を繰りひろげたものの、結局、あて宮は春宮に入内し、藤壺と呼ばれるようになりました。〔藤原の君〜あて宮〕

仲忠は女一宮と結婚し、その間に娘の犬宮(いぬ宮)が生まれました。俊蔭娘は帝に見いだされ尚侍となります。仲忠は大納言へ昇進し、春宮は新帝に、藤壺腹の皇子が春宮になりました。〔蔵開・上〜国譲・下〕

仲忠は母にいぬ宮へ秘琴を伝えるようお願いし、いぬ宮は琴の秘技を身につけます。いぬ宮は2人の上皇、嵯峨院と朱雀院を邸宅に招いて秘琴を披露し、一同に深い感動を与えるシーンで物語は終わります。〔楼上・上〜下〕

(4)『うつほ物語』の構成

『うつほ物語』は各巻に独自の名称を施した全20巻で構成されます。一部の巻には写本によって別名を持つものもあります。また、巻の配列の順序も現代語訳作品や注釈書によって差異があります。

各巻の名称、配列順は、河野多麻校注『宇津保物語 一〜三』(日本古典文学大系10-12、岩波書店)での表記(読みがなは現代仮名遣い)です。

  1. 俊陰(としかげ)一部では(しゅんいん)とも
  2. 忠こそ(ただこそ)
  3. 藤原の君(ふじわらのきみ)
  4. 嵯峨院(さがのいん)
  5. 梅の花笠(むめのはながさ)/別名:春日詣(かすがもうで)、桂(かつら)
  6. 吹上(ふきあげ)〔上〕
  7. 吹上〔下〕
  8. 祭の使(まつりのつかい)
  9. 菊の宴(きくのえん)
  10. あて宮(あてみや)
  11. 初秋(はつあき)/別名:相撲の節会(すまいのせちえ)、内侍のかみ(ないしのかみ)
  12. 田鶴の群鳥(たづのむらどり)/別名:沖つ白波(おきつしらなみ)
  13. 蔵開(くらびらき)〔上〕
  14. 蔵開〔中〕
  15. 蔵開〔下〕
  16. 国譲(くにゆずり)〔上〕
  17. 国譲〔中〕
  18. 国譲〔下〕
  19. 楼上(ろうのうえ)〔上〕
  20. 楼上〔下〕

(5)『うつほ物語』で描かれた求婚

平安朝の物語は、しばしば平安京内裏の奥深くにある後宮を扱い、そこに住む皇妃たちに焦点を当てています。物語の主人公の姉妹や娘が立后する、もしくは次代の天皇の母(国母)となるといったようなことは、主人公を権力中枢の場に据えるための常套手段でした。

また、一方で、皇妃と臣下の禁じられた恋愛は、悲恋として平安朝物語で繰り返し用いられるモチーフでもありました。

古代社会は「婿入り婚の通い婚」が当たり前、つまり「男性が女性の家に婿入りする形」でしたそして夫婦が同居することはなし。夫が妻の家に通っていました。女にとっては自分の実家の興隆に役立つ男性を婿に取りたいもの。男性側もまた、衣食住の生活を一切見てくれる妻の家が資産家であり、自分の出世に役立つ家柄であることを望みました。

平安時代は身分が全てで、男性も女性も身分の高い相手を望みました自分の出世や暮らしにかかわるため、夫あるいは妻の身分が高ければ高いほど良しとされたのです。それに加えて美人であれば帝までを夢中にさせることができました。

うつほ物語の後半のヒロインである「あて宮」は源家の姫君。源姓はもともと皇族であったことを意味したため、皇族と同じように処遇され、敬われました。そこの婿になることは男性にとって「玉の輿」。婿入り婚の時代では、男性の望む最高の結婚の形だったのです。さらに女性が美人という噂があれば、男たちは我こそはと殺到しました

能力のない男性を婿に取ったら実家が落ちぶれてしまいます。そのため女性は実家の浮沈をかけて婿を選びました男性の才能、美貌、家柄などが、あたかも偏差値のように等級づけられていました。この時代、貴族社会で行われていたのは、すべて家同士の浮沈をかけた戦い。つまり政略結婚に等しいものだったのです。

平安時代は戦争のなかった時代。そのため武力や腕力は無関係でした。漢籍(漢詩や漢字だけで書かれた中国の歴史)や和歌や漢詩が素晴らしいことに加え、楽器の演奏、なかでも琴の演奏に優れていることが、高偏差値につながりました美貌と家柄は努力してもどうにもなりません。しかし、漢籍、和歌、琴の演奏ならどうにかなると男性たちは頑張りました。

こう見てくると、なんだか『大鏡』に描かれている貴族の権力争いを勝ち抜いた藤原道長(966年~1028年)の栄華物語にもよく似ていますし、また『源氏物語』のストーリーにも通じるものがありますね。

2.誰が何の目的で書いたのか?

うつほ物語

作者は不詳ですが、古くから源順とする説が有力です。

(1)源順(みなもと の したごう)とは

源 順(みなもと の したごう)(911年~983年)は、平安時代中期の貴族・歌人・学者。嵯峨源氏、大納言・源定の曾孫。左馬允・源挙(みなもと の こぞる)の次男。官位は従五位上・能登守。梨壺の五人の一人にして三十六歌仙の一人

(2)源順の生涯

嵯峨天皇の子であった大納言・源定を祖とし、その子源至は左京大夫に進みました。しかし、至の子である挙は正七位下相当にしか進めず、しかも延長8年(930年)には急死しています。源順が数え年で20歳のときでした。

順は若い頃から奨学院において勉学に励み博学で有名で、承平年間(930年代半ば)に20歳代にして日本最初の分類体辞典『和名類聚抄』を編纂しました。

漢詩文に優れた才能を見せる一方で和歌に優れ、天暦5年(951年)には和歌所の寄人となり、梨壺の五人の一人として『万葉集』の訓点作業と『後撰和歌集』の撰集作業に参加しました。

天徳4年(960年)の内裏歌合にも出詠しており、様々な歌合で判者(審判)を務めました。特に斎宮女御・徽子女王とその娘・規子内親王のサロンには親しく出入りし、貞元2年(977年)の斎宮・規子内親王の伊勢国下向の際も群行に随行しています。

しかし、この多才ぶりは伝統的な大学寮の紀伝道では評価されなかったらしく、文章生に補されたのは和歌所寄人補任よりも2年後の天暦7年(953年)で、43歳の時でした。

天暦10年(956年)勘解由判官に任じられると、民部丞・東宮蔵人を経て、康保3年(966年)従五位下・下総権守に叙任されました(ただし、遥任)。

康保4年(967年)和泉守に任じられます。しかし、源高明のサロンに出入りしていたことが、任期中の安和2年(969年)に発生した「安和の変」以後の官途に影響を与え、天禄2年(971年)の和泉守退任後、天元3年(980年)に能登守に補任されるまで長い散位生活を送りました。なお、この間の天延2年(974年)に従五位上に叙せられています。

永観元年(983年)に享年73で亡くなりました。最終官位は従五位上行能登守。

(3)源順の人物像

三十六歌仙の一人に数えられ、勅撰歌人として『拾遺和歌集』(27首)以降の勅撰和歌集に51首が入集しています。

大変な才人として知られており、源順の和歌を集めた私家集『源順集』には、数々の言葉遊びの技巧を凝らした和歌が収められています。

また『うつほ物語』、『落窪物語』、『篁物語』の作者にも擬せられ『竹取物語』の作者説の一人にも挙げられています

(4)『うつほ物語』を書いた目的

嵯峨天皇の末裔という高貴な家柄で多彩な才能に恵まれた源順ですが、貴族としての官職・官位などの出世にはさほど恵まれず、不遇をかこっていたことから、その鬱屈した気持ちを物語の創作によって昇華しようとしたのではないかと私は思います。

ちなみに源順は、官位の沈滞を嘆く和歌や長歌、また不遇のわが身を寓喩した漢文体の《無尾牛歌》《夜行舎人鳥養有三歌》(ともに《本朝文粋》)などを残しています。

3.『うつほ物語』の影響を受けた作品

特に『源氏物語』に大きな影響を与えています。

なお、『源氏物語』や『枕草子』の中で『うつほ物語』の一部が記されており、紫式部や清少納言がこの作品を読んでいたことがわかります。

(1)『源氏物語』

現存する最古の長編物語で、初めて後宮に関する詳細な記述をしたのが『宇津保物語』ですが、その影響を多大に受けつつも、さらに発展させ、巧みに後宮を描き出したのが『源氏物語』です。

写実的な描写と長編性は『源氏物語』に継承されました。特に自然描写および情景の取り合わせにおいて、『うつほ物語』は『源氏物語』に大きな影響を与えています。

『源氏物語』の登場人物・玉鬘(たまかずら)は貴宮を意識したと言われています。

『源氏物語』の第17帖「絵合」には「『うつほ』の俊蔭の物語絵」が見えます。

(2)『枕草子』

『うつほ物語』は、主人公仲忠とそのライバル源涼が琴の勝負を繰り広げる場面に代表されるように、当時の貴族の教養であった琴が作品の鍵になっています。

なお、「この二人のどちらが好みか」という議論(二人の優劣論)が当時女性の間で盛んだったようで、『枕草子』には源涼と藤原仲忠の優劣論争が記されています。(ちなみに清少納言は仲忠派の様子)