数字を含むことわざ・慣用句(その1)人数・年齢・回数・年月や時間・距離・寸法

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三人寄れば文殊の知恵

数字を含むことわざ・慣用句と言えば、「三人寄れば文殊の知恵」とか「三つ子の魂百まで」などたくさんあります。

そこで今回は、数字を含むことわざ・慣用句をまとめてご紹介したいと思います。

なお面白い数字の単位についての話は、前に「数字の単位は摩訶不思議。数字の不思議なマジック・数字の大字も紹介!」という記事に詳しく書いていますので、ぜひご覧下さい。

1.「人数」の数字を含むことわざ・慣用句

(1)三人寄れば文殊の知恵(さんにんよればもんじゅのちえ)

三人寄れば文殊の知恵

凡人であっても三人集まって考えれば、すばらしい知恵が出るものだというたとえ。

「文殊」とは、知恵をつかさどる菩薩のこと。
凡人でも三人で集まって相談すれば、文殊に劣らぬほどよい知恵が出るものだということ。

<類義語>

・一人の文殊より三人のたくらだ

(*)「たくらだ(田蔵田)」は麝香鹿(じゃこうじか)に似た獣。麝香鹿を狩る時に、猟師が飛び出してきたたくらだを誤って狩ったことから、自分に無関係なことで死んだり傷ついたりする者のこと。転じて、愚か者・まぬけのこと。

(2)娘一人に婿八人(むすめひとりにむこはちにん):ひとつしかない物事に、それを欲しかったり希望したりする者が多いということ。

一人の娘に対して、婿になりたい男が8人もいるということで、目当てのものは一つなのに、欲しがる者が多過ぎることのたとえ。

娘一人に婿八人

<類義語>

・一人娘に婿八人(ひとりむすめにむこはちにん)
・女一人に婿八人(おんなひとりにむこはちにん)
・娘一人に婿三人(むすめひとりにむこさんにん)
・娘一人に婿十人(むすめひとりにむこじゅうにん)

(3)紅一点(こういってん):男性の中に、女性がひとり華やかに混じっているというたとえ。また、平凡な中に異彩を放つものがひとつだけ存在するということ。

紅一点

王安石「詠柘榴」の「万緑叢中 (そうちゅう) 紅一点」から。一面の緑の中に一輪の紅色の花が咲いている意。

(4)一姫二太郎(いちひめにたろう):一人目の子供は女、二人目の子供は男であるのが理想的だという意味。

一姫二太郎

男の子は病気をしがち、女の子は健康に育つことから。女の子は母親の手伝いをするので、最初に女の子、次に男の子の順で子供を作ったほうが育てやすいことから。また、昔は家を継(つ)ぐことになる男の子を望んでいたのに、女の子が生まれてしまったときのお母さんへの慰めの言葉として用いられたことから生まれたことわざだというように多くの説があります。

(5)欲と二人連れ(よくとふたりづれ):欲得ずくで行動すること。打算によって行動すること。

欲と二人連れ

(6)女三人寄れば姦しい(おんなさんにんよればかしましい):女性という人々は時におしゃべり好きなため、そんな人たちが3人も集まると五月蠅(うるさ)くて仕方がないという意味。

かしまし娘

いつの時代も世間話や噂話といった語らいを好む女性は、「姦しい」と読んで字のごとく、女が3人集まると会話が途切れることなく続くため非常に騒がしいことから転じてきています。

<類義語>

・女三人寄ると富士の山でも言い崩す
・女三人寄れば市をなす
・女三人寄れば囲炉裏の灰飛ぶ
・女三人寄れば着物の噂する

(7)一将功成りて万骨枯る(いっしょうこうなりてばんこつかる):一人の将軍の輝かしい功名の陰には、幾万の兵が屍を戦場にさらした結果であること。

功績が上層の幹部のみに帰せられ、その下で犠牲になって働いた多くの人々が顧みられないことを嘆く語。

一将功なりて万骨枯る

<類義語>

・小の虫を殺して大の虫を助ける

(8)小姑一人は鬼千匹に向かう(こじゅうとひとりはおにせんびきにむかう):嫁にとって、小姑(夫の兄弟姉妹)は一人が鬼千匹にもあたるほど恐ろしく、苦労の種であること。

小姑一人は鬼千匹に当たる

<類義語>

・小姑一人は鬼千匹に当たる

・小姑一人は鬼千匹

・小姑は鬼千匹

(9)備わるを一人に求むることなかれ(そなわるをいちにんにもとむることなかれ):万能な人間などいないのだから、一人の人間に完全無欠を要求してはいけないということ。

備わるを一人に求むるなかれ

(10)男は敷居を跨げば七人の敵あり(おとこはしきいをまたげばしちにんのてきあり):男が社会で活動するときは、いつも多くの競争相手や敵がいて、いろいろと苦労があるというたとえ。

男は敷居を跨げば七人の敵あり

「七人」は「多くの」という意味。
男がいったん家の敷居をまたぐと、外にはすでに多くの敵が待ち構えているという意味から。
「敷居」は「閾」とも書きます。

(11)忠臣は二君に仕えず(ちゅうしんはにくんにつかえず):忠臣は、いったん主君を定めたのちは、他の人に仕えることはないこと。

「二君」は「じくん」とも読みます。「忠臣は二君に事えず」とも書きます。

『史記』に「忠臣は二君に仕えず、貞女は二夫に見(まみ)えず(真心こめて使える臣下は決して主人を変えず、貞節を守る女性は二人の夫に仕えるようなことはしない)」とあり、次のような故事です。

中国の斉(さい)という国の王様が大事な政務を怠っているのを嘆いて、忠義な王燭(おうしょく)が何度も王様に諫言(かんげん)しますが、一切聞き入れてくれません。

ついには、王燭は隠居してしまいます。王燭のいなくなった斉の国は崩壊(ほうかい)状態になり、隣国の燕王が攻め込みひとたまりもなく壊滅してしまいました。

その時かねてから王燭を高く評価していた燕の大将が高官に迎えたいと幾度も誘いますが、王燭は頑として応じません。そして最後には「忠臣は二君につかえず、貞女は二夫にまみえず」といって庭先の松に縄をかけ自ら命を絶ちました。

忠臣は二君に仕えず

(12)益者三友、損者三友(えきしゃさんゆう、そんしゃさんゆう):交際してためになる三種類の友人と、交際して損をする三種類の友人。出典は『論語』

「益者三友」は、正しいと思うことを直言する正直な人、誠実な人、博識な人の交際してためになる三種の友人のこと。
「損者三友」は、うわべだけの不正直な(便辟)人、誠実さのない(善柔)人、口先だけ達者な(便佞)人を友とするのは害であるということ。

益者三友、損者三友

人とつき合うに当たって、友人をどう選ぶかを述べた語。

(13)三人寄れば公界(さんにんよればくがい):三人で集まって話をしたり、行ったりしたことは、秘密ではなくなると思ったほうがよいということ。

「公界」は、公衆の場所のこと。
人が三人集まれば、そこはもう公の場所と同じになるという意味から。

2.「年齢」の数字を含むことわざ・慣用句

(1)三つ子の魂百まで(みつごのたましいひゃくまで):幼いころの性格や気質は、教育を受け、経験を積んで年をとっても根強く残り、一生変わらないということ。

三つ子の魂百まで

「三つ子」とは、三歳の子供のこと、転じて幼い子のことです。
「魂」が「心」「根性」「知恵」、「百」が「八十」「七十」「六十」に置き換わった表現があり、組み合わせによって多くの句があります。

「魂」とは、動物の肉体に宿って心の働きを司ると考えられるもので、古来肉体を離れて存在するものと考えられ、「霊魂」、「精霊」、「たま」などと呼ばれています。また、精神、気力、思慮分別、素質、天分という意味もあります。

(2)十で神童十五で才子二十過ぎれば只の人(とおでしんどうじゅうごでさいしはたちすぎればただのひと):いくら幼少の頃が天才だろうと、成長してしまえばただの人になるという戒め。

十で神童十五で才子二十過ぎれば只の人

幼少の頃に天才的な才能を発揮し周囲から神童ともてはやされても、その能力は幼少期だからこそ評価されるレベルであり、成長するにつれ神童と言われた能力は年齢に追いつき、ただの平凡と化してしまうことから。

<類義語>

・六歳の神童十六歳の才子二十歳の凡人

(3)鬼も十八番茶も出花(おにもじゅうはちばんちゃもでばな):どんなものにも、その魅力がいちばん発揮される時期があるということ。女性は誰でも年ごろになると、色気や魅力が出てくるというたとえ。

鬼も十八番茶も出花

醜い鬼の娘でも、十八歳ごろには美しくなり、質の良くない番茶でもお湯を入れたばかりのときならけっこう美味しいということから。

<類義語>

・薊の花も一盛り(あざみのはなもひとさかり)
・鬼も十八

(4)お前百までわしゃ九十九まで(おまえひゃくまでわしゃくじゅうくまで):夫婦が仲良く、ともに長生きするように願う言葉。

お前百までわしゃ九十九まで

「お前」とは夫のこと、「わしゃ」とは妻のこと。このあとに、「共に白髪の生えるまで」と続きます。「お前」は本来敬語で、妻が夫を呼ぶ時に使われました。
夫が百才まで、妻(自分)が九十九才まで仲良く暮らしていきたいという言葉です。

夫が百才で妻が九十九才についての解釈は二通りあります。
一つは、夫に先立たれることによって寂しい思いをしたくないから、自分より先に死なないで欲しいという願いを込めたもの。
もう一つは、妻よりも夫が一歳年上で結婚した場合、夫が百才、妻が九十九才で、夫婦が一緒に最期を迎えられることを表しているというもの。

<類義語>

・鴛鴦の契り(えんおうのちぎり)
・比翼連理(ひよくれんり)
・連理の枝(れんりのえだ)
・天にあらば比翼の鳥、地にあらば連理の枝(てんにあらばひよくのとり、ちにあらばれんりのえだ)
・偕老同穴(かいろうどうけつ)
・琴瑟相和す(きんしつあいわす)

(5)雀百まで踊り忘れず(すずめひゃくまでおどりわすれず):子供のときに覚えた習慣や癖は、年を取っても直らないということ。

雀百まで踊り忘れず

雀は地面を歩く時に、ちょんちょんと踊りを踊るように飛び跳ねて歩く癖があり、その癖が死ぬまで抜けないように、幼い頃についた習慣は改まりにくいということから。特に、若い頃に身についた道楽がいくつになってもやまないたとえ。

日本の伝統芸能では、旋回運動を主体とすることを舞といい、跳躍運動を主体とすることを踊りという。ちょんちょんと、雀の飛び跳ねる動作は踊りということ。「上方いろはかるた」が由来。

<類義語>

・三つ子の魂百まで(みつごのたましいひゃくまで)
・頭禿げても浮気は止まぬ(あたまはげてもうわきはやまぬ)

(6)三歳の翁百歳の童子(さんさいのおきな ひゃくさいのどうじ):子どもでも知恵も分別もある者もいれば、老人でも無知で愚かな者もいるということ。
人の賢さは年齢に左右されないということ。
「八歳の翁百歳の童」「十歳の翁百歳の童」「百歳の童、七歳の翁」などとも言います。

三歳の翁百歳の童子

(7)五十にして天命を知る(ごじゅうにしててんめいをしる):五十歳になってはじめて、天から与えられた自分の使命を悟るようになること。

五十にして天命を知る

孔子が晩年に振り返って言った言葉。
『論語・為政』の「子曰く、吾十有五にして学に志す、三十にして立つ、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳順う、七十にして心の欲する所に従えども、矩を踰えず(私は十五才で学問を志し、三十才で学問の基礎ができて自立でき、四十才になり迷うことがなくなった。五十才には天から与えられた使命を知り、六十才で人のことばに素直に耳を傾けることができるようになり、七十才で思うままに生きても人の道から外れるようなことはなくなった)」に由来します。

(8)六十の手習い(ろくじゅうのてならい):60歳で習字を始めること。年をとってから学問や習い事を始めるたとえ。

六十の手習い

学問や習い事をするのに年齢制限などなく、たとえ晩年に始めても遅すぎるということはないという意味が込められています。

(9)八十の手習い(はちじゅうのてならい):年をとってから学問を始めること。晩学のたとえ。

八十の手習い

(10)三十過ぎての男の伊達は彼岸過ぎての麦の肥(さんじゅうすぎてのおとこのだてはひがんすぎてのむぎのこえ):男が三十歳を過ぎてから外見を飾って粋がるのは、時期遅れでふさわしくないことのたとえ。

ここでの「伊達」は、派手な服装で外見を飾る意。
春の彼岸を過ぎて麦に肥料をやっても手遅れのように、三十歳を過ぎた男が外見を飾るのは意味がないことから。

(11)本卦還りの三つ子(ほんけがえりのみつご):年老いて再び幼児のように無邪気になること。

「本卦還り」は、生まれた年の干支と同じ年がくることで、還暦(数え年で61歳)を表します。
還暦を迎える頃になると、欲望や邪気がなくなり、まるで三歳の子どものようになることから。

3.「回数」の数字を含むことわざ・慣用句

(1)二度あることは三度ある(にどあることはさんどある):二度あったことは必ずもう一度あること。物事は繰り返し起こる傾向があるものだから、失敗を重ねないようにという戒め。

二度あることは三度ある

(2)三度の飯より好き(さんどのめしよりすき):何よりも好きであること。ひどく熱中していること。

一日三回の大切な食事がどうでもいいと思うほどに好むということから。

三度の飯より好き

(3)三度目の正直(さんどめのしょうじき):占いや勝負で、一度や二度は当てにならないが、三度目は確実であるということ。転じて、物事は三度目には期待どおりの結果になるということ。「三度目は定 (じょう) の目」とも言います。

三度目の正直

英語では次のように言います。

The third time is lucky.(三度目は幸運が訪れる)
The third time pays for all.(三度目がすべての埋め合わせをする)
All things third at thrice.(物事はみな三度目にうまくいく)

(4)三遍回って煙草にしょ(さんべんまわってたばこにしょ):休むことは後にして、念を入れて手落ちのないように気をつけようということ。

夜回りで、三度見回ってから休憩しようの意から。『江戸いろはかるた』の一つ。

三遍回って煙草にしょ

(5)仏の顔も三度(ほとけのかおもさんど):(いかに温和な仏でも、顔を三度もなでられると腹を立てるの意から)どんなに慈悲深い人でも、無法なことをたびたびされると怒ること。

「仏の顔も三度まで」「地蔵の顔も三度」とも言います。いろはがるた(京都)の1枚です。
仏の顔も三度

(6)伊勢へ七度 熊野へ三度(いせへななたび くまのへさんど):伊勢神宮や熊野三社へたびたび参ること。信心の深いこと、また、信心はどんなに深くしても限りはないことのたとえ。

伊勢へ七度 熊野へ三度

(7)七度尋ねて人を疑え(ななたびたずねてひとをうたがえ):物が見当たらないときなどは、よく探したうえで最後に他人を疑え。軽々しく人を疑ってはいけないということ。

「七度」は7回。また、多くの回数のこと。

七度尋ねて人を疑え1七度尋ねて人を疑え2

(8)読書百遍義自ずから見る(どくしょひゃっぺんぎおのずからあらわる):どんなに難しい書物であっても、何度も繰り返し読めば、意味や内容が自然と分かってくるものだということ。

読書百遍義自ずから見る

魏の学者董遇が、弟子入りを申し込んだ者に対して言った「読書千遍、其の義自ら見る」に由来します。

多くの本を読めばよいというものではなく、良い書物を熟読することに意味があるという乱読を戒める意味を含みます。

(9)一度あることは二度ある(いちどあることはにどある):あることが一度起きると、後でまた同じようなことが起きるものであるということ。

多く、よくないことは続けて起きるものだから注意せよという戒めを込めて使います。
続けて「二度あることは三度ある」とも言います。

一度あることは二度ある

(10)危ない橋も一度は渡れ(あぶないはしもいちどはわたれ):安全で堅実な方法ばかりでは成功はおぼつかないから、一度は危険を承知で冒険してみよという教え。

危ない橋でも、それを渡らなければ川の向こう側には辿り着けないことから。

(11)若い時は二度ない(わかいときはにどない):若い時期は人生で一度きりだから、何でも思い切ってやってみるのがよいということ。『尾張いろはかるた』から。

(12)七乞食(ななこじき):長い人生の間には、生活が苦しくなる時が何度もあることのたとえ。

七度も乞食のような境遇に陥るといった大袈裟な表現。「七」は数の多さを表す言葉として使われます。

(13)浮き沈み七度(うきしずみななたび):人生は浮沈盛衰の繰り返しであることのたとえ。人の一生は平坦ではなく、良い時もあれば悪い時もあることから。

「七」の数字は多さを表すもので、必ず「七度」というわけではありません。

4.「年月や時間」の数字を含むことわざ・慣用句

(1)一日の長(いちじつのちょう):少し年長であること。また、知識・経験・技能などが少しすぐれていること。

一日の長

<類義語>

・亀の甲より年の劫

(2)一日の計は朝にあり(いちにちのけいはあさにあり/いちじつのけいはあしたにあり):一日の計画は一日の初めである朝のうちに立てるべきであるということ。

一日の計は朝にあり

「月令広義(げつれいこうぎ)」(*)にある「一日の計は晨(あした)にあり、一年の計は春にあり、一生の計は勤にあり、一家の計は身にあり」から。

(*)中国・明代の官僚で学者でもあった馮応京(ふうおうけい)が万暦年間(1573年~1620年)に著した中国の伝統的な年中行事・儀式・しきたりなどを解説した本。

<類義語>

・一年の計は元旦にあり
・一生の計は少壮の時にあり

(3)聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥(きくはいっしょうのはじ きかぬはいっしょうのはじ):知らないことを恥ずかしがったり知ったかぶったりせず、積極的に聞いて学ぶべきだという教え。

知らないことを尋ねるのは、その場は恥ずかしい気がするが、聞かずに知らないままに過ごせば、生涯恥ずかしい思いをしなければならない。

聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥

(4)春宵一刻値千金(しゅんしょういっこくあたいせんきん):花は香り、月は朧(おぼろ)な春の夜の一時は、まことに趣が深く、千金にも換えがたいこと。

「一刻」はわずかな時間の意味で、昔の一時の4分の1、約30分。「千金」は千両・大金の意。

春宵一刻値千金

蘇軾の詩『春夜』に「春宵一刻直千金、花に清香有り月に陰有り、歌管楼台声細細、鞦韆院落夜沈沈(春の夜の趣には千金の値打ちがある。花は清らかな香りを放ち、月はおぼろに霞んでいる。夜になるとそれまで高殿で歌や音楽に興じていた人々の声も静まっていき、中庭のブランコに戯れる人もなく垂れて、夜はしんしんとふけていく)」とあるのに由来します。

(5)正直は一生の宝(しょうじきはいっしょうのたから):人間の真の幸福と信頼は正直によってもたらされるもので、正直は一生を通じて大切に守るべき宝であるということ。

正直は一生の宝

(6)習うは一生(ならうはいっしょう):人間には学ぶべきことがたくさんあるため、いくつになっても常に学び続ける必要があるという戒め。

習うは一生

(7)ローマは一日にして成らず(ろーまはいちにちにしてならず):大事業の完成には、長い年月と努力が必要となるということ。

ローマは一日にして成らず

(8)石の上にも三年(いしのうえにもさんねん):冷たい石の上でも3年も座り続けていれば暖まってくること。がまん強く辛抱すれば必ず成功することのたとえ。

石の上にも三年

(9)犬は三日飼えば三年恩を忘れぬ(いぬはみっかかえばさんねんおんをわすれぬ):犬は三日養っただけで、三年もの間その恩を忘れないこと。犬が飼い主になつきやすく、よく従うことを表した言葉。

犬でさえそうなのだから、人間は受けた恩を忘れてはいけないという戒めの言葉。

犬は三日飼えば三年恩を忘れぬ

(10)三年飛ばず鳴かず(さんねんとばずなかず):長い間、何もしない、あるいはこれといった結果を出さずに過ごすことのたとえ。また、実力を発揮するまでにじっと機会を待っている様子。

なお、芸能人が売れない状態を「鳴かず飛ばず」などと言いますが、このことわざの順番は「飛ばず鳴かず」です。

三年飛ばず鳴かず

飛べば高く飛び上がり、鳴けば人を驚かすという鳥が、三年間飛びも鳴きもせずにいるという意味からで、以下の故事に由来します。

中国戦国時代、楚の国では荘王が即位したとき、荘王は三年間政治に一向に見向きもしなかった。
部下である伍挙が、三年間鳴きも飛びもしない鳥に見立てて王をいさめたところ、王は「鳥が三年間止まったままなのは、意思を固める準備をしているからで、この鳥は飛べば天に昇り、鳴けば人々を動かす」と答えた。
その後、王は生活を改め、国事に専念し、ついには周の国をもおびやかすようになったという。

(11)桃栗三年柿八年(ももくりさんねんかきはちねん):芽が出て実がなるまでに、桃と栗は三年、柿は八年かかるということ。また、何事も成し遂げるまでには相応の年月が必要だというたとえ。

桃栗三年柿八年

「桃栗三年柿八年」の後に続けて、「柚子の大馬鹿十八年」「梅は酸いとて十三年」「柚子は九年の花盛り」「柚子は九年でなりかかる」「枇杷は九年でなりかねる」などとも言います。
『尾張いろはかるた』の一つ。

(12)六日の菖蒲 十日の菊(むいかのしょうぶ とおかのきく):時期が遅れて、もう役に立たないこと。肝心のときに間に合わなくては意味が無いこと。

端午の節句(五月五日)に一日遅れた六日の菖蒲と、重陽の節句(九月九日)に一日遅れた十日の菊の花という意。

四字熟語では「六菖十菊(りくしょうじゅうぎく)」と言います。

六日の菖蒲十日の菊

(13)人の噂も七十五日(ひとのうわさもしちじゅうごにち):世間のうわさは長く続かず、しばらくすれば忘れられるものであること。

人の噂も七十五日

(14)此処で会ったが百年目(ここであったがひゃくねんめ):ここで出会ったのが運の尽きだと思え。長年捜していた相手(敵討ち・仇討ちの相手など)に巡り合った時に、逃さないという決意を表す言葉。

「百年目」というのは、決着の付く時(「おしまいの時」「運命の時」「運の尽き」)を意味しています。

ここで会ったが百年目

(15)百年河清を俟つ(ひゃくねんかせいをまつ):黄河の水が澄むのを長いこと待っている意から、まったく当てにならないことをいつまでも待つことのたとえ。

百年河清を俟つ

「百年」は、長い間。転じて、永久。「河」は、黄河のことで、「河清」は、黄河の水が澄むこと。黄河は黄砂を多く含み、常に黄色く濁っているのでこの名で呼ばれ、いつまで待っても水が澄むことはありません。

(16)鶴は千年 亀は万年(つるはせんねん かめはまんねん):長寿や縁起を祝う時の言葉。

鶴と亀は寿命が長い代表で、めでたいものとされていることから、縁起の良い賀寿などの際に使われます。

実際の寿命は、鶴は野生のタンチョウで20~30年、亀はゾウガメで100~200年と言われています。

鶴は千年 亀は万年

(17)驥は一日にして千里なるも、駑馬も十駕すれば之に及ぶ(きはいちにちにしてせんりなるも、どばもじゅうがすればこれにおよぶ):才の鈍い人でも努力を続けることで、優れた人に追いつくことができるということ。四字熟語では「駑馬十駕(どばじゅうが)」。

「荀子」の「驥一日而千里、駑馬十駕、則亦及之矣」より。
歩みののろい馬でも、毎日乗り換えて十日進むと、名馬の一日の走る距離になるという意味から。

(18)上り一日下り一時(のぼりいちにちくだりいっとき):一日かけてようやく上り着くようなところも、下りはあっという間であるということ。

物事を作り上げるためには長い時間と労力が必要であるが、それを壊すのはあっけないほど簡単なことであるというたとえ。

上り一日下り一時

(19)百日の説法屁一つ(ひゃくにちのせっぽうへひとつ):長い間の苦労がちょっとした失敗で無駄になるたとえ。

百日間にも渡りありがたい説法を説き続けてきた坊さんが屁を一つしたために、厳粛な雰囲気がこわれ、すっかりありがたみが無くなってしまうことから。

(20)草木も眠る丑三つ時(くさきもねむるうしみつどき):とてもひっそりと静まり返って、お化けでも出そうな気味の悪い真夜中のこと。

「丑三つ時」とは、昔の時刻で丑の刻を四つに分けたうちの三番目です。
現在の時間では、午前二時から二時半頃にあたり、化け物や幽霊が出る時刻と言われています。

丑三つ時

(21)世の中は三日見ぬ間の桜かな(よのなかはみっかみぬまのさくらかな):(大島蓼太の俳句から)世の中は、3日見ないうちに散ってしまう桜の花のようなものだ。世の中の移り変わりが激しいことのたとえ。「世の中は三日見ぬ間に桜かな」とも言います。

<類義語>

・明日ありと思う心の仇桜
・有為転変は世の習い

(22)悪妻は百年の不作(あくさいはひゃくねんのふさく):悪い妻を持つと自分が一生不幸になるだけでなく、子孫にまで影響を及ぼすということ。

昔は家事や育児がすべて妻に任されていたため、家庭を任せられない妻を選ばないよう男性に対して言われた教訓的なことわざ。

悪い妻は、百年の不作続きと同じくらい不幸だということから。

悪妻は百年の不作

<類義語>

・一生の患いは性悪の妻(いっしょうのうれいはしょうわるのつま)
・悪妻は一生の不作(あくさいはいっしょうのふさく)
・悪妻は六十年の不作(あくさいはろくじゅうねんのふさく)
・女房の悪いは六十年の不作(にょうぼうのわるいはろくじゅうねんのふさく)

なお、「悪妻」については「ソクラテスの妻クサンティッペは本当に悪妻だったのか?悪妻伝説の真相に迫ります」「夏目漱石の妻鏡子は本当に悪妻だったか?『漱石の思ひ出』等を読むと違う見方も!」という記事を書いていますので、ぜひご覧下さい。

(23)一月往ぬる二月逃げる三月去る(いちげついぬるにげつにげるさんげつさる):正月から三月までは行事が多く、瞬く間に過ぎてしまうことを、語呂を合わせて調子よく言ったもの。

(24)禿が三年目につかぬ(はげがさんねんめにつかぬ):好きになった相手の欠点には、しばらく気づかないことのたとえ。

一度好きになってしまうと、相手の禿頭も三年の間目につかないほどになることから。

なお、英語には同様の意味で次のようなことわざがあります。

Love covers many infirmities.(愛は多くの欠点を覆い隠す)
Love is blind.(恋は盲目)

(25)三日御座る(みっかござる):習い事などが長続きしそうにない者のたとえ。

「御座る」は、いらっしゃるの意。
芸事などを習いかけて、三日はいらっしゃるが、その後はいらっしゃらないことから。

(26)三日芝居(みっかしばい):長続きしないこと。

演じられるのも、せいぜい三日が限度というたとえ。

(27)禍も三年経てば用に立つ(わざわいもさんねんたてばようにたつ):今は禍となるものでも、時が経てば何かの役に立つことがある。世の中に不用なものはないというたとえ。

降りかかった災難がきっかけで、それ以前よりも良い方向に向かうことがあるという意味から。

(28)楽は一日苦は一年(らくはいちにち、くはいちねん):楽しいことはすぐに過ぎるが、苦しいことは長く続くこと。また、一日楽をすると、長く苦労しなければならないということ。

(29)三日の馬飼い(みっかのうまかい):長続きしないこと。また、飽きやすい人のたとえ。

馬を飼うのは大変で、長続きしないことから。

(30)舎を道傍に作れば三年にして成らず(しゃをどうぼうにつくればさんねんにしてならず):皆の意見をいちいち聞いていたら、異論が多くていつまで経っても話がまとまらないことのたとえ。

道ばたに家を建てようとして、道行く人に相談していたら、それぞれが勝手なことを言うから三年経っても完成しないという意味から。

後漢の粛宗が礼楽を制定するにあたり、歴史家の班固に相談したところ、班固は「学者の衆議を集めるべきだ」と意見しましたが、粛宗は「舎を道傍に作れば三年にして成らず」と言って反対したという故事に由来します。

(31)餅腹三日(もちばらみっか):餅は腹持ちがよいことのたとえ。

「餅腹」とは、餅を食べて満腹になった腹のこと。

(32)槿花一日の栄(きんかいちじつのえい):この世の栄華が、はかなくむなしいことのたとえ。

木槿

「槿花」とは、ムクゲの花のこと。
ムクゲは夏から秋にかけて咲く花で、朝開いて夕方しぼむことから、はかないもののたとえとして使われます。

人の盛りの華やかさも、ムクゲの花と同じようにはかないものだということ。

(33)夕方は一日の大晦日(ゆうがたはいちにちのおおみそか):一日の中で夕方が一番忙しいこと。

(34)天井三日底三年(てんじょうみっかそこさんねん):株式相場で、高値が続く期間は短く、下落すると長い間低い状態が続くという格言。

「天井」は「高値」、「底」は「底値」の意。

一年で一番忙しい大晦日にたとえた語。

5.「距離」の数字を含むことわざ・慣用句

(1)三尺下がって師の影を踏まず(さんじゃくさがってしのかげをふまず):先生に従って行くときは、弟子は3尺くらい離れて、先生の影を踏まないようにしなければならない。先生を尊敬して礼儀を失わないように心掛けるべきであるという戒め。

もとは仏教の作法であり、師僧に従って歩くときの心得。

「三尺去って師の影を踏まず」「七尺 (しちしゃく) 去って師の影を踏まず」とも言います。

三尺下がって師の影を踏まず

(2)百里を行く者は九十を半ばとす(ひゃくりをゆくものはくじゅうをなかばとす):何事も終わりの方ほど困難であるから、九分どおりまで来てやっと半分と心得、最後まで気をゆるめるな、という戒めの言葉。「戦国策」秦策・武王から。

「百里を行く者は九十里を半ばとす」とも言います。

百里を行く者は九十里を半ばとす

(3)悪事千里を走る(あくじせんりをはしる):善い行いはなかなか人に知ってもらえないが、悪い行いや良くない評判はあっという間に世間に知れ渡ってしまうこと。「北夢瑣言 (ほくむさげん) 」の「好事門を出でず、悪事千里を行く」から。

悪事千里を走る

「好事門を出でず(こうじもんをいでず)」とは、よい行いは、なかなか世間に伝わらないこと。多くは「悪事千里を行く(走る)」と対で使われます。

「悪事千里を行く」とも言います。

(4)囁き千里(ささやきせんり):内緒話がすぐに遠くまで伝わり広がること。

ささやくように話しただけでも、すぐに遠くに知れ渡るという意味で、秘密が漏れやすいことのたとえ。

囁き千里

<類義語>

・ささやき八丁

・こそこそ三里

(5)千里の堤も蟻の穴から(せんりのつつみもありのあなから):わずかな油断や不注意が元で大事を引き起こすというたとえ。千里の堤防も蟻の穴が原因で崩れることもあるとの意から。

千里の堤も蟻の穴から

<類義語>

・蟻の穴から堤も崩れる

・千丈の堤も螻蟻(ろうぎ)の穴を以て潰(つ)いゆ

(6)千里の道も一歩から(せんりのみちもいっぽから):どんな大事業でも、まず手近なところから着実に努力を重ねていくことが肝要であることのたとえ。「千里の道も一歩より起こる」とも言います。

千里の道も一歩から

千里もある遠い道のりであっても、まず踏み出した第一歩から始まるという意味から。
老子』に「合抱の木も毫末より生じ、九層の台も、累土より起こり、千里の行も足下より始まる(両手で抱えるほどの大木でも、毛先ほどの小さな芽から成長し、九層にも及ぶ高台も、小さな土を重ねることから着手し、千里の道のりも足下の一歩から始まる)」とあります。

(7)惚れて通えば千里も一里(ほれてかよえばせんりもいちり):惚れた相手の所に通うのであれば、遠い道のりも短く感じられるということ。

好きな人のためなら、どんな苦労も苦に感じないというたとえ。

俗謡の詞では、後に「逢わずに戻ればまた千里」と続きます。

(8)昔千里も今一里(むかしせんりもいまいちり):優れた人も、年をとれば凡人に劣ってしまうということ。

昔は一日で千里を行くことができた駿馬も、今では一里しか行くことができないとの意から。

<類義語>

・麒麟も老いては駑馬に劣る(きりんもおいてはどばにおとる)
・昔の剣今の菜刀(むかしのつるぎいまのながたな)

(9)牛も千里、馬も千里(うしもせんり、うまもせんり):早くても遅くても、また上手でも下手でも、行き着く結果は同じだから慌てるなというたとえ。また得手不得手があったとしても、地道に努力を続ければ目標が達成できるということ。

歩くのが遅い牛であっても、早く走る馬であっても、同じ目的地に着くことから。

(10)千里の馬も蹴躓く(せんりのうまもけつまずく):どんなに有能で名人と呼ばれる人でも、時には失敗することがあるということ。

一日に千里を走るような素晴らしい名馬でも、時にはつまづくことがあるから。

<類義語>

・弘法も筆の誤り(こうぼうもふでのあやまり)
・猿も木から落ちる(さるもきからおちる)
・河童の川流れ(かっぱのかわながれ)
・竜馬の躓き(りゅうめのつまずき)
・孔子の倒れ(くじのたおれ)
・上手の手から水が漏る(じょうずのてからみずがもる)
・千慮の一失(せんりょのいっしつ)

(11)千里の馬も伯楽に逢わず(せんりのうまもはくらくにあわず):いつの時代にも優秀な人はいるが、その才能を見抜いて能力を発揮させることができる人はなかなかいないということ。

「伯楽」とは、中国・春秋時代の名馬を見分ける鑑定名人。
一日に千里を走るような名馬はたくさんいるが、その才能を見抜き充分に能力を発揮させる伯楽のような人は、いつもいるとは限らないことから。

(12)輿馬を仮る者は足を労せずして千里を致す(よばをかるものはあしをろうせずしてせんりをいたす):他のものをうまく利用することによって、容易に事をなしとげることのたとえ。

「輿馬」とは、車や馬のこと。車や馬に乗って行く者は、自分の足を使わず疲れることもなく、千里もの道を行けることから。

(13)駿河の富士と一里塚(するがのふじといちりづか):形は似ていても比較にならないほどかけ離れていることのたとえ。

「一里塚」とは、主要な街道の一里ごとに築かれた塚のことで、旅人の目標となるよう、土を小高く盛って榎や松などが植えられた。
日本一の富士山と街道にある一里塚は、形こそ似ているが大きさがかけ離れていることから。

6.「寸法」の数字を含むことわざ・慣用句

(1)一寸先は闇(いっすんさきはやみ):たとえすぐ先の事でも、未来の事は誰にも全く予測できないということ。

一寸先は闇

<類義語>

・一寸先は闇の夜
・食えや飲めや、明日は死ぬ身だ
・無常の風は時を選ばず
・面前に三尺の闇有り

(2)一寸の光陰軽んずべからず(いっすんのこういんかろんずべからず):わずかな時間でもむだに過ごしてはいけない。

一寸の光陰軽んずべからず

中国南宋の儒学者・朱熹の詩「偶成(ぐうせい)」から。
「少年老い易く学成り難し(わかい時期は短いのに学問は完成しがたい)、一寸の光陰軽んずべからず」

<類義語>

・時は金なり
・光陰矢の如し
・光陰流水の如し
・光陰人を待たず

(3)一寸の虫にも五分の魂(いっすんのむしにもごぶのたましい):どんなに小さな虫にも、生きているものにはそれ相応の命があるのだから、粗末に扱ってはならない。どんな者でも意地や誇りを持っているから、むやみに馬鹿にしてはならないというたとえ。

一寸の虫にも五分の魂

(4)三寸の舌に五尺の身を亡ぼす(さんずんのしたにごしゃくのみをほろぼす):不用意な言葉のために禍を招くこと。しゃべり過ぎや失言等によって身を滅ぼすことが多いので、口を慎むよう戒める言葉。

三寸の舌に五尺の身を亡ぼす

<類義語>

・病は口から入り禍は口から出る

・口は禍の元

・口は禍の門

・口と財布は締めるが得

(5)三寸俎板を見抜く(さんずんまないたをみぬく):物事の洞察力がすぐれていること、眼力の鋭いことのたとえ。

厚さ三寸(かね尺で約9.1cm、鯨尺で約11.4cm)のまな板の裏側まで見抜くという意味から。

(6)竜は一寸にして昇天の気あり(りゅうはいっすんにしてしょうてんのきあり):優れた人物は幼い頃から非凡なところがあるというたとえ。

竜の子は、わずか一寸(約3センチメートル)ほどの大きさの頃から、天に昇ろうとする気概があるという意味から。

「竜」は「龍」とも書きます。